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第4話 神の名は何か

 堕天使ルシファーが反旗を翻した天魔戦争において、ルシファーに対抗する天使軍の旗頭となったのは大天使ミカエルである。

 ミカエルの名の由来「神は我が力」である。つまりミカエルという名は神の代理人を意味していた。その名故に、天使の中でも最も象徴的な存在であった。

 陽光を紡いだ金糸の髪、空を映したような青い目。整った面差しは中性的でありながら、体つきはしっかりとしており、細腕のウリエルより遥かに頼り甲斐がある。

 力そのものは容姿に左右されるものではない。ウリエルは女人のような細腕でも槍一本で第一極刑罪人を仕留めることができるし、ラグエルはしわくちゃな老人のような手でも牢獄の鉄扉を簡単に押し開けることができる。ウリエルはともかく、ラグエルの容姿が明らかに天使らしくなくなったのは堕天の烙印の持つ正体不明の魔力の影響だ。堕天の烙印は「堕天使であれてんしであるなかれ」という呪いからそのような効果をもたらすと仮定されている。そもそも天使は只人には会えない存在だ。その肖像とされるものが人界に存在し、その肖像を人間が信仰する。つまり容姿を信仰するのだ。

 堕天の烙印は信仰を薄めるために、容姿を貶める効果がこもっているらしい。それで、ラグエルは金糸も蒼眼もなくした。ウリエルは元々黒髪で、神からの加護の強い目をしているため、容姿が変わっていない。まあ、腕は細くなったかもしれないが、元々そんなにがっしりした人物ではなかった。

 ウリエルは元々目立つ容姿、目立つ行動をしていないため、堕天の烙印の効果が薄いのかもしれないが、ラグエルは存分にその効果を受けてしまい、天使の地位は人間の間で失墜してしまった。けれど、揺るがぬものがある。それがミカエルの存在だ。

 ミカエルはラグエルにとって目の上の瘤のようなものだ。そんな風にラグエルが思ってしまうのも堕天の烙印の影響かもしれない。

「ウリエルに火急の用件があって来た。煉獄の門を開けてくれ、ラグエル」

 四大天使の代表、しかも神の代理人たるミカエルを見下ろせるなど、なかなかあることではない。これを絵画にしたなら、魔界の悪魔連中にさぞや売れることだろう。ラグエルは金に興味はないが、そんなことを考えた。その頭を覗けたなら、階下のおおらかな天使も不敬だぞ、と苦い表情をするのだろうが。

 ラグエルは窓枠に頬杖をついた。

「四大天使様とあろうものが、人に物を頼む態度がなっていませんねえ。それとも私はそもそも貴方様から見れば下級の一天使、しかも堕天の烙印というキズモノがついた天使ゆえ、目下と軽んじておられるのでしょうか」

「……ラグエル……」

 ミカエルが塔の上のラグエルを見、げんなりとした表情をする。反対側の階下ではウリエルがのんびり茶を飲んでいるが、不敬だぞ、とは言わない。ラグエルのこれは今や癖のようなもの。煉獄の門扉を叩くなら通過儀礼と言えよう。

 清廉な審判の天使だったラグエルは、堕天の烙印が押されてから、容姿だけでなく、性格も変わってしまった。天使として役目を全うする忠義心はある。が、ひねくれ者になった。それこそ堕天使認定されないのがおかしいくらいに不敬な口を利くようになったのだ。だが、その内容を聞けば言い方が悪いだけで正論なのである。それゆえ、誰もラグエルのこれを責められない。

 堕天の烙印のせいかもしれない。それだけでラグエルを責めることができないのだ。堕天とされる行為を犯した天使は堕天の烙印を押された瞬間に死ぬというのに、ラグエルは容姿が変容しても、存在することが叶っている。それはラグエルがまだ神に背いていない、何よりの証拠であった。だから、誰もラグエルを責められない。窘めはするが。

 しかし、ミカエルはウリエルとの交流が深かったため、わりとしょっちゅう煉獄を訪ねるのだ。そのたびにラグエルとこのようなやりとりを繰り返している。

 ラグエルがにたぁ、ととても天使とは思えない悪どい笑みを向ける。

「おやおや、そんなお顔をなさって。せっかくのご尊顔が台無しでございますよ?」

「誰のせいだ、誰の」

「何か仰いました? 聞こえませんね」

「絶対聞こえてるだろ!」

「ああ、いきなり大きな声を出して、はしたないですねえ」

「お前な」

 ミカエルが歯噛みする様子が面白かったのか、ラグエルは満足した様子で首を傾げた。

「ところで、火急の用件とは? 具体的に仰っていただかないと、煉獄も暇ではございませんから、サリエル殿が不在の今、番人たるウリエル殿のお手を煩わせるわけには参りません。貴方様が神の代理人であろうと」

 つらつらとラグエルが述べたのは、道理であった。煉獄は忙しい。堕天した者の処分のほとんどを任されているのだ。ルシファーが大量の天使を率いて神に謀反をはたらいた天魔戦争以来、ルシファーに憧れて堕天の法を犯す天使は後を絶たない。つまり処刑すべき罪人はまだまだ大量におり、本来の番人であるサリエルがいたとしても、一日二日でどうにかなるようなものではないのだ。

 これが管理人の仕事。番人を遣わすに相応しい用件を持つ者を判別する。それが管理人に与えられた役割の一つだ。その場所の管理人であると同時、番人の管理人でもある。

 相変わらず、ウリエルは呑気に茶を飲んでいた。ラグエルが管理人として矢面に立っているとはいえ、ミカエルとのやりとりはすぐそこの扉の向こうで行われているもの。ウリエルにも筒抜けなのである。

 管理人に管理人らしく質されてしまっては仕方がない。これは権威が物を言う事柄ではないのだ。ただでさえ、本来の番人であるサリエルをずっと天界に縛りつけているのである。煉獄の人手不足はミカエルの頭痛の種の一つだ。

「天界にて、堕天使が二人脱走した」

「そんなの、天界で対処してくださいよ」

 ラグエルが思わずといった様子で反論する。

 天界にいる脱走者、天界の中にいるのなら、それは天界の天使の落ち度であるし、天界の天使で対処すべきである。つまるところ、ウリエルに戦力として天界に来てほしい、ということだが、ウリエルはラグエルと同様、堕天の烙印を押された天使。堕天の烙印は天界に入るとひどく痛む。それに、烙印の色が濃くなるのだ。その情報は堕天の烙印を研究しているガブリエルとラファエルに共有している。当然、二人と同じ四大天使のミカエルもその情報は知っているだろう。

 だというのに、ウリエルに天界に来いというのは意地の悪い話である。ウリエルが戦力として申し分ないのはラグエルも重々承知していることだが。

「大体、第五天に捕らえられるような堕天使ですよ? あなたたちで充分に過ぎるというものでしょう。お引き取りください」

「待て待て、まあ聞け」

 ミカエルは門扉の向こうのウリエルにもしっかり聞こえるように、声高に告げた。

「脱走したのは二人。一人はずっと冤罪を訴え続けている堕天使アスタロト。だが、重要なのはもう一人だ。ウリエルに関係のある堕天使」

「まさか」

 ウリエルも四大天使。他の天使を率いることはたくさんあった。

 その中でも、ウリエルと関わりがあった、と断定できる天使。そんなもの、一人しかいない。

「やつはアスタロトの脱獄を幇助したと思われる。魔術の天使シャムシェル」

 かしゃん、とウリエルの手から茶器が滑り落ちた。割れた破片が音を立てて崩れる中で、ウリエルからは表情が抜け落ちていた。

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