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第2話 堕天の烙印

 この世界は神が創造したものである。天使たちの神の名を「YHWH」と呼ぶが、人間にはこの言語を発音できない。故に仮称としてヤーウェと呼ばれている。

 天界、人界、魔界という層により成り立つ世界。人間は天界の第四階層にある楽園を追い出され、人界で生きることとなった。人界とはそもそも塵芥。ごみ溜めのような世界である。天界と魔界の間に存在する階層に人間が住むようになって、人界と呼ばれるようになった。

 禁断の果実を食べたという原罪を負いながらも、人間は人界にてそこそこ豊かに暮らしていた。天使も時折人間の生活の手助けをする。それは人間が元々神の創造物であるということもあるが、人界の向こうには悪魔の巣窟である魔界が存在するからである。

 悪魔とは他者を堕落させたり、悪の道に引きずり込んだり、神の存在を否定したりする者たちの総称であるが、その多くは元天使である。つまり堕天使だ。しかし、堕天使という呼称が広まったのはかの有名な堕天使ルシファーが神に反旗を翻したことからであるため、それ以前から存在していた者と区別されがちである。けれど基本的に堕天使と悪魔は同義だ。生きとし生けるもの全ては、神の創造物であることに変わりはない。

 そんな魔界と人界の間に存在するのが煉獄である。人間の間では死者の国の入り口だったり、地獄の始まりだったりと多種多様な呼ばれ方をされているが、煉獄とは天使に管理された処刑場である。

 ルシファーの反乱を期に、天使としての罪を犯し、堕天する者が急増した。堕天した者たちは堕天使たちのカリスマであるルシファーのいる魔界へと集い、ルシファーの再びの反乱の兵となろうとする者が多い。それを阻むため、罪を犯した天使を裁くための場所を天界の外に設けた。それが煉獄である。

 天界には天界で、第二階層と第五階層に罪人たちを投獄する場所がある。だが、天界から逃げ、罪から逃れようとする堕天使は多い。

 そこで天界から逃げ出した者を捕らえ、刑を処す煉獄の番人が存在するようになった。

 が、ウリエルが元々煉獄の番人だったわけではない。

 ラグエルでもない。

「相変わらずお忙しいことですね、サリエル殿は」

 煉獄の管理人室で、ウリエルとラグエルはテーブルを囲んでいた。特に何も面白くなさそうに並んで茶を飲む二人は処刑人と処刑見届け人という残虐性を感じさせないほどに長閑だ。

 ラグエルは赤い茶の湖面を微動だにせず眺めるウリエルを見やりつつ、カップ片手に語る。

「まあ、サリエル殿の代理人として、ウリエル殿がばっさばっさと罪人を裁いてくださいますから、こうして呑気に茶を飲むこともできるんですがね」

「裁くのは私の仕事ではない。私の仕事は刑の執行だ」

 ウリエルが湖面を見つめたまま、淡々と訂正していく。

「私は確かにサリエルの代理として煉獄の番人をしているが、私とサリエルの役割は違う。サリエルの役割は罪人を捕らえ、処刑することもそうだが、罪人の罪とその罪に相応しい刑罰を決めるところに重きがある。ただ首を落とすだけの私とは訳が違う。ともすれば、その点においてのみは私よりサリエルの方がヤーウェに近いところがあるだろう」

「謙遜も過ぎると嫌味に聞こえますよ。四大天使様」

 ラグエルが剽軽に、呆れた様子で肩を竦める。

 ミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエル。この四人の天使こそが天使の中で最も貴き四大天使である。天使の頂点に立つ四人だ。

 本来なら、そこに名を連ねているウリエルは天界で相応の場所で天使たちを指揮すべき立場にある。ただ、ウリエルには諸事情があった。

「痛みますか? 堕天の烙印」

「痛まない」

「嘘をおっしゃい」

 ラグエルは否定したウリエルの背中をちょん、と突いた。不敬きわまりないのだが、煉獄において、ウリエルとラグエルの立場にそこまで差はない。

 二人共、堕天の烙印を押された無実の天使であるからだ。

「人間共が調子づいてやった魔女裁判。それに連なり、天使信仰の高さに怖じ気づいた者共が天使信仰を抑えるために採ったのが、天使に罪を被せ、堕天の烙印を押す、というもの。まったく、不敬な輩ですよねえ。悪魔もそういうやつらを食ったらいいのに」

 人間たちは社会を作り、国を作った。社会と国が築かれた中で、地位というものが存在するようになる。神を史上とする天使からすれば、人間たちの間に築かれる地位の格差など砂の一粒のようなものだ。

 だが、人間は一度高い位に着くと、そこから滑落はしたくないものである。より高みにいる者を蹴落とすことで自らが高みに至るようにする、自分より上が存在しないようにする。そんな生き物だ。

 人間社会の中で地位の高い者たちは、やがて蹴落とす人間がいなくなると、その恐怖の矛先を天使へと向けた。矛先を向けられるほどに、人間たちにとって天使という存在は身近になっていたのだ。

 魔女裁判といって、異端者を裁く人間の儀式は以前からあった。それは正当に罪人を裁く場でもあり、社会の上位者にとっての邪魔者を排除する場でもあった。そこに天使を立たせたのだ。

 天使の名が大きければ大きいほど、罪人として挙げられたときの信頼の失墜も大きくなる。信頼の失墜とは信仰の喪失である。信仰意欲を失くす目的で、人間は天使を魔女裁判に立たせ、罪を着せ、堕天の烙印という焼き印を立たせた天使に押しつけたのである。

 その頃は天使の中にも堕天まがいの行いをする者が多く横行していたため、それらも罰した人間を責めきることはできなかった。とはいえ、冤罪を着せられた方はたまったものではない。

「ヤーウェが正しく我々の主張を汲んでくれただけでも良いだろう、ラグエルよ」

「あなたはヤーウェが好きですねえ」

 ラグエルは夜色を鋭く細めた。その眼光に湛えられているのは、怒りか、憎しみか、はたまた悲しみか。

 人間は四大天使の一人であるウリエルと七大天使の一人にして重大な役割を負うラグエルに堕天の烙印を押した。

 この二人の天使に烙印を押せたことは天使信仰の抑制に多大な影響をもたらした。ウリエルもラグエルも有名すぎたのだ。

「私はヤーウェから大事な仕事を取られて、煉獄の管理人なんてやっているんですが?」

「ヤーウェのせいじゃない。堕天の烙印のせいだろ。他人の心配をしている場合ではなかろう、ラグエル」

 ウリエルはラグエルの夜色にかちりと自分の琥珀色を合わせ、カップを持つラグエルの手首を掴まえる。

 ラグエルの手首は細く、しわくちゃだ。ラグエルの顔もそうだが、とても神が特別綺麗に造形した天使とは思えないほどに老けている。ウリエルが肌艶の良い美貌なだけに、ラグエルは人間の老いのような醜さを伴った容姿をしていることがありありとわかる。

 かしゃん、とラグエルの手からカップが落ちる。ラグエルはウリエルが目の前にいるのもお構い無しに、思い切りちっ、と舌打ちをした。

「お気に入りの茶器ですのに。割れたらどうするのです?」

「今度は茶器の心配か? お前はどうも不敬ぶりたいようだが、天使としての清き心は簡単には失われないよ、ラグエル。お前は人間の死の先についての指針となる『審判の時』を任された気高き天使だ」

「……」

 それはともすれば、どんな天使よりも重要な役割である。人間の復活、世界の再生を促す「審判の時」を管理する天使。それがラグエルだった。

「そんなお前が、堕天の烙印の影響で、変わり果てていくのを見るのは、胸苦しいものがある」

「ご自身も同じものを背負っておられるのに?」

 ラグエルはニヒルに笑った。自虐めいた笑みは以前の彼からは想像もつかないもので、堕天の烙印がここまで彼を変容させてしまったのか、と思うと、ウリエルは胸が痛む。

 堕天の烙印には不思議な術が施されており、天使としての魔力を烙印に吸い取られるのだ。魔力の吸収に伴い、烙印を押された箇所には焼かれたときより強烈な痛みが起こるようになっている。

 烙印のせいで、多くの天使が命までをも落とした。ウリエルとラグエルはその数少ない生き残りである。

「同じものを背負っているから、だ。この痛みと苦しみは実際に味わった者にしかわからない」

「はは、そうでございますね。手を離していただけますか?」

「あ、悪い」

 ラグエルの手首を放す。骨と皮ばかりのような手首は掴んで指が余るほどに細い。強く握りしめたわけではないのに。

 ラグエルを一人にするわけにはいかなかった。故に、ウリエルは天界ではなく、煉獄にいる。自身もそうだが……天界に行くと、烙印の侵蝕が著しく進むからだ。

 ラグエルは容姿の変容で留まっているが、天界での暮らしに戻れば、烙印に犯されて死んでしまうだろう。

 堕天の烙印とは、そうして天使をくびり殺すためのものなのだ。

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