――こうして、三月三日が訪れた。
この日は、神屋家では、当主とその伴侶や許婚を祝福する宴が開かれるのが慣例である。
朝早くから起き出した皆、美弥もそれは例外ではなくて、本日は雪野に手伝ってもらい、赤色の着物を着付けた。十二単によく似ているが、作りが異なる。代わりに豪奢な打ち掛けを渡された。金糸で鸞が縫い込まれている。
神屋の当主と婚約者の祝時には、十二支の末裔が勢揃いする。
それを事前に聞いていた美弥は、誰かの足音が会場に響いてくる度に、台座の上でビクリとしていた。すると――隣から手を伸ばした晴斗が、怯えている美弥の手をそっと握ってくれた。骨張った晴斗の自分よりも大きな手が、美弥は好きだ。
二人の背後には、豪華なひな壇がある。歴史あるひな人形が、そこには鎮座している。
一人、また一人と、ぞくぞくと十二支の末裔達が集まりはじめ、用意された黒塗りの膳の前に着席した。紋付き姿の者が多い。
その中に、朝霞の姿を見つけて、美弥は思わず窺うように見てしまう。朝霞は端正な顔に微笑を浮かべており、とても意地悪には思えない。それでも己が不興を買っているのは明らかだ。同じ場にいるだけで、背筋が薄らと寒くなる。
こうして宴が始まった。
最初は粛々としていたその場において、次第に酒盃を傾ける内、酔いが回った者が出始める。和やかなムードといえば、聞こえは良いだろう。猫として扱われなければ、このように明るい雰囲気なのかと、美弥は驚いていた。
そこへ一升瓶を手に、虎岡修也が現れた。橙色の髪色で、黒いメッシュが入っている。二十八歳で、彼は過去にも美弥を虐めたことのない、数少ない人物で、快活だ。頬を朱くした修也が、どかりと晴斗の隣にあぐらをかいて座る。そして――バシバシと肩を叩いた。神屋家の人間に対して、こういう態度は珍しい。
「どうぞどうぞ、晴斗様も飲んでくれ!」
「――ああ」
しかし晴斗は特に咎めることはしない。片手で酒盃の中身を飲みほし空にしてから、修也に向かって差し出す。そこにとくとくと透明な日本酒が注がれる。
「それで? 猫の末裔とは――美弥、今は『様』か。美弥様とはどうなんだ?」
「どう、とは?」
晴斗が首を傾げる。その手は、美弥の手を握ったままだ。
それを修也は目にとめた様子で、大きく笑う。
「惚気でも聞かせてくださいよ。いやぁ、晴斗様の口から惚気なんて、天地がひっくり返るかもしれねぇ」
修也はそう言ってから、美弥を見た。
「美弥様の口からも聞きてぇなぁ」
「え、えっと……」
美弥が戸惑うと、晴斗は軽く美弥の手を引き抱き寄せた。そして、肩を抱く。
「こういうことだ。俺と美弥は、親しい。見ていれば、口に出すまでもなく分かると思うが?」
「いやいや、口に出してこそ!」
「そうか。そうだな……とにかく美弥は、愛らしいんだ。そして一途に俺を待ち、迎えてくれる。美弥のためならば、俺はなんだって出来るだろう。いいや、だろう、ではないな。なんだってする」
酔っている様子はないが、晴斗は微笑し、そんなことを言った。抱き寄せられて聞いていた美弥は、真っ赤になってしまう。すると、シンっと場が静かになったので、狼狽えて見渡せば、十二支の末裔達が物珍しそうに晴斗と美弥を見ていた。気恥ずかしくなって、美弥はよりいっそう赤面してしまう。
「本当に晴斗様が惚気を……」
驚いたような音澄家の亮の声が響いてくる。美弥は嘗ての同級生の声に、両手で顔を隠したくなったが、抱き寄せられている手とは逆側で相変わらず晴斗に手を握られているから、それは叶わない。
「いやぁ、本当にお似合いだなぁ」
そこへ生屋楓が声をかける。生屋は馬神の末裔家だ。晴斗は当然だというように、端正な唇の両端を持ち上げて、頷いている。その後も、修也をはじめ、皆が晴斗に言葉を促すと、晴斗が素直に惚気た。そうしていると、皆がだんだん温かいものを見る眼差しへと変わっていった。その場では、朝霞も微笑していた。
美弥も質問を振られたが、何を答えていいか分からないでいると、晴斗が代わりに答えてくれた。それに安堵しっぱなしだった。
――こうして宴もたけなわ。
ひな祭りの宴はお開きとなり、一人、また一人と帰路についた。
それを玄関へと見送りに出た晴斗と美弥。美弥は最後の一人が帰ってから、晴斗に再び抱き寄せられた。
「今日はどうだった?」
「……うん。怖くなかったよ」
「ああ、そうか。元来は、優しい者が多いんだ――元来、は。それだけ、猫神の末裔が差別されてきたということだ。それは根深い。けれど」
晴斗はそこで言葉を句切ると、ギュッと美弥を抱きしめる。
「少しずつ、猫神の末裔への見方も変えていこう。俺達、二人で。二人でならば、きっと出来る。美弥のことは、なにがあろうとも俺が守る、だから心配はいらない」
その言葉が嬉しくて、美弥は、晴斗の背に腕を回しかえしたのだった。