こうして、三月が訪れた。桜の蕾が、開花の予兆を思わせている。土手には蕗の薹が顔を出した。晴斗と二人で庭に出た美弥は、手を繋いで池の前に立つ。既に梅ではなく桜の花びらが池の周囲で開きかけているので、もう少ししたならば水面は薄紅色に染まるだろう。縁側をトラが歩いていて、その後ろを二匹の仔猫がついて歩いている。仔猫達もこの半月ほどで、だいぶ大きくなった。猫の成長は早い。いつか自分にも子供ができるのだろうかと、漠然と美弥は考える。同性でも猫の末裔は子を成せるのだから、いつかはそんな日も訪れるのかもしれない。
青い空には、白い雲がたなびいている。
繋いだ手の温度は穏やかで、ゆったりと歩く晴斗の歩幅が自分に合わせられたものだと分かるから、美弥はいちいちそんな気遣いに嬉しくなる。
「ねぇ、晴斗」
「なんだ?」
「晴斗は、どんな子供だったの?」
いつか早霧が、我慢強い子だったというような話をしていたなと、漠然と美弥は思い出していた。晴斗はギュッと指の間に力を込めて美弥の手を握りなおすと、歩みを止めて空を仰ぐ。
「そうだな――宿題が嫌いだった」
「宿題?」
「ああ。答えがきちんと出るだろう? 正解か、不正解か」
「うん」
「神屋の家の者は、俺に正しさを求めることが多かった。幼少時から、尤もそれは今も同様かもしれない。だが俺は、もっと曖昧で抽象的なことも、世にはあると思っている」
晴斗はそう言うと、美弥を見た。その眼差しは優しい。
「たとえばあやかしがそうだ。あやかしの理は、人は理解できないことも多い」
「そうなんだ」
「十二支だってそうだろう? 何故選ばれなかったからと言って猫が蔑まれなければならない?」
「っ、それは……」
「そこに理屈がないことも、世界には多い。それだけじゃない。恋だって、そうかもしれない。俺は美弥のことが好きだった。だが、そばにいればいるほど、もっともっと好きになっていく。十二月に顔を合わせたあの時よりも、今、隣にいる美弥のことがさらに好きになった」
晴斗はそう言うと、そっと両腕で美弥を包む。
腰に回った両腕の感触に、美弥は微苦笑する。好きになっていくのは自分も同じであるから、晴斗の気持ちが純粋に嬉しい。
「僕は宿題が好きだったよ」
「そうか」
「勉強は、しても誰も怒らないから。それに、いつかはお父様の後を継ぐんだぞって思っていたから、特に異国語は勉強しなきゃって思ってた」
「今も継ぎたいか?」
「今は弥彦が頑張ってるみたい。手紙が届く度に、こちらで上手くやれてるかって、お父様も弥彦も僕の心配ばかりで、猫崎の家は大丈夫だとしか言わないんだよ。僕なんていなくて大丈夫って言われてるみたいでちょっとだけ寂しいほど」
美弥が苦笑すると、晴斗が小さく頷いた。
それから片腕で美弥をより強く抱き寄せると、もう一方の右手で美弥の顎を持ち上げた。そして顔を傾けて、美弥の唇に触れるだけの口づけを落とす。二人の間に、触れるだけのキスが加わって、既に数日だ。
「でもね、僕も僕に出来ることをしたいんだよ」
「そうか。たとえば、何をしたい?」
「僕は……なにができるんだろう。それが、まだ分からないんだ」
「美弥にならば、なんだって出来るとは思う。ただ、俺のそばにはいて欲しいけれど」
晴斗がそっと美弥の頬に触れる。美弥は唇の両端を持ち上げる。ここへと来て約三ヶ月の間、晴斗がそばにいてくれたからなのか、少しずつ自信のようなものがついてきた自覚がある。素直に晴斗の言葉を受け取れるのが、その証拠だと美弥は思う。
十二月二十八日に伴侶となると決まり、六月下旬に結納、八月末に祝言を挙げると決まっているから、刻一刻と日々は流れているのだが、二人の間の空気感は穏やかだ。いいや、違うのかもしれない。最近美弥は、晴斗の隣にいると、落ち着くだけではなく、胸が高鳴る日も増えてきた。ドクンドクンと鼓動が煩くなることがある。
もう三月一日。
三月はまだ始まったばかりだが、きっと桜が満開になる頃には、もっともっと晴斗のことが好きになっている予感が、美弥はしていた。
「僕は、本を読むのが好きでしょう?」
「ああ、そうだな」
「そして異国の言葉のお勉強もしてきたから……なにか、翻訳するようなお仕事がしてみたいんだ」
「翻訳家か。それは向いていそうだな――……しかし、そうか。翻訳か」
美弥の言葉に、晴斗が考え込むような顔をした。
「晴斗? どうかした?」
「ああ、いや。実は、文明開化は人間だけのものでなく、あやかし達もまた、あやかし達の文明開化があって、最近では異国からの怪異の流入も激しい。軍でも、その対応にも追われているんだ。ただ、何分外国語が分かるような人間というのは、そもそも“あやかし”などは非科学的だとして信じない者が多く、民間の協力者が中々得られないのが現状でな。それこそ美弥のお父上に臨時で翻訳を依頼したこともある」
つらつらと晴斗が語る。美弥はきょとんとしながら、その声を聞いていた。
「よかったら異国関連の、帝国軍あやかし討伐部隊の資料の翻訳を手伝ってもらえないか? これは身内だから言うのではなく、本当に人手が足りていない」
「ぼ、僕に出来るかな?」
「出来ないのならば、翻訳家にはなれないかもしれないな」
「うっ」
「冗談だ。個人的に、美弥にならば出来ると確信しているから、俺は話しているんだ。勿論合わなければ辞めて構わないし、一般文学を主体にしてもいいさ」
晴斗は穏やかな声でそう述べてから、再び両腕でギュッと美弥を抱きすくめた。
そして美弥の肩に顎を乗せると、幸せそうに言う。
「愛している。だから、美弥のしたいことを、俺は応援する」
それが嬉しくて、美弥もおずおずと晴斗の背に腕を回し返した。
「僕も……晴斗のことが……好きだよ」
伝えるのが恥ずかしかったけれど、勇気を出してきっぱりと言葉にした。美弥の声が響き終わる前に、より強く晴斗が美弥を抱きしめる。
「美弥」
「な、なに?」
「足りない。もっと言ってくれ」
「……っ、す、好きだよ」
「もっと」
「は、晴斗。恥ずかしい……ダメ。もう言わない。また今度」
「そうか。今度がすぐ訪れることを祈る」
そのようにして、二人のひと時が流れていった。