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第21話 猫の日


 シロとクロが、毛糸の毛玉にじゃれている。晴斗が出張から帰ってくることに決まったその日、そわそわしながら美弥は編み物をしていた。三匹のための敷きものだ。まだ元々意図した晴斗への贈り物の案は固まっていない。マフラーも手袋も、もうじきいらなくなるからだ。


 二月二十二日、晴斗が出張から帰ってきたのは、午後三時丁度のことだった。


「おかえりなさい」


 美弥が満面の笑みで出迎えると、トラとシロ、クロもまたついてきた。美弥をそっと

抱きしめた晴斗が耳元で言う。


「ただいま」


 それから白い軍服の手袋を外した晴斗は、鞄を使用人に渡し、美弥と三匹と共に、二階へと上がった。そしてネクタイを緩めながら自室へと入っていく。美弥が寝室で待っていると、雪野がお茶を運んできた。それから雪野が下がってすぐ、入れ違いに晴斗がやってきた。


「どうだった?」

「ああ。無事に水害も収まったし、血も効果を発した。これで安心して隠居できると竜宮の当主が笑っていて、司がまだそれは困ると慌てていた」

「そう」

「それと、司から手紙の返事を預かっている」


 晴斗はそう言うと、一通の封筒を美弥へと渡した。受け取り、美弥が卓に置く。


「今は読まないのか?」

「今は……晴斗とお話をしていたいよ。せっかく帰ってきたんだから」

「嬉しいことを言ってくれるな」


 顔を綻ばせた晴斗が立ち上がる。そして美弥の隣に並んで座ると、両腕をギュッと美弥に回した。その力強い感触に、美弥がすぐそばにある晴斗の顔を見る。すると晴斗が、美弥の額に口づけた。


「美弥といると、癒やされる」

「僕には、癒やしの力はないよ? 前に僕のこと、治してくれたのは晴斗の方だよ」

「力の有無は問題じゃない。勿論力が有用な場合はあるとしても。気持ちの問題だ。俺は、美弥が美弥でいてくれたら、それでいい――勿論、俺のことをなるべく好きになってもらいたいが」

「そ、その……」

「その?」

「僕の好きじゃ、まだ足りない?」

「――ああ、足りないな。まったく足りない。俺と美弥では、愛の重さが違うんだ」


 晴斗はそう言って笑うと、両手で美弥の頬に触れた。そして額で額に触れると、美弥をじっと覗き込む。まるで自分が晴斗の瞳に映っているように感じて、美弥の頬が熱くなる。


「美弥を見ていると、やっと帰ってきたと感じる」

「お仕事、大変だった?」

「大変でなかったとは言わないが、それだけ美弥が好きだと言うことだ」


 続いて晴斗が美弥の頬に口づけた。

 美弥が目を丸くすると、今度はもう一方の頬に。

 それから右手で、美弥の唇を優しくなぞると、柔和に笑った。


「唇が欲しい」

「……っ」

「ダメか?」

「……」


 なんと答えていいのか分からなかった美弥は、吸い寄せられるように晴斗の目を見る。次第にそれが、近づいてくる。思わず緊張して、ギュッと美弥は目を伏せた。そして。


「っ」


 暫く経っても何も発生しなかったから、意を決して美弥が目を開くと、悪戯っぽく笑っている晴斗の顔がそこにはあった。


「別に無理強いしたいわけではないからな」

「ッ」

「キス、されると思ったな?」

「お、思うよ……っ、緊張して……それで」

「目を瞑っている美弥が可愛かった」

「恥ずかしい……恥ずかしいよ……! 晴斗の意地悪!」

「期待させてしまったと言うことか。弱ったな、嬉しい」


 クスクスと笑いながら、晴斗が美弥の腕に触れた。そして軽く引き、そばに敷かれていた布団に転がる。


「わっ」


 体勢を崩した美弥が枕に後頭部をぶつける。すると顔の隣に、ドンっと晴斗が左の掌をついた。至近距離にある晴斗の顔が、先ほどまでよりも真剣に見える。


「あまり俺を煽ると、口づけだけでは済まなくなるぞ?」

「えっ……あ……」


 美弥が言葉を探したその時だった。

 掠め取るように晴斗が美弥の唇を奪った。突然のことに、美弥は目を見開いたままで、晴斗の端正な顔を見るかたちになる。一度唇が離れると、晴斗が己の唇を舌で舐めた。そして美弥の隣に寝転ぶと、美弥を抱き寄せる。


「ごちそうさま」

「は、晴斗、今……」

「期待してくれていたのだろう? 期待は叶えなければ」

「っ」

「ああ、美弥は温かいな」


 腕枕した美弥の髪を、優しく晴斗が撫でる。ふんわりとした美弥の銀髪を、晴斗が手で梳く。


「美弥の方は、変わりはなかったか?」

「あのね、僕のお父様の怪我、治してくれたのが早霧さんだったんだって」

「叔父上側がそう言ったのか? そうとは思えないが」

「うん。僕が聞いたんだよ」

「叔父上の優しさは見えにくいんだ。話せば優しいと分かるとは思う」

「僕も最初は、怖い人かと思ってたよ」

「それは叔父上には言わない方がいいだろうな」


 そんなやりとりをしながら、二人とも笑顔になった。晴斗の腕の中で、頭を預けていると、美弥は体がぽかぽかしてくる気がして、胸も満ち始める。晴斗からは、石鹸のよい匂いがする。それが一階の洗面所のものだと、美弥はよく知っている。風邪が流行しているからと、先日若隅が購入してきた品だ。


「そうだ。今日は、猫の日だと聞いた」


 晴斗がそう言って、二人のそばでじゃれている三匹の猫の方をチラリと見やる。

 美弥はそんな晴斗の横顔を見て居た。


「だから、またたびを買ってきたんだ」

「そうなんだね。猫崎の家では、特に今日は特別な日ではなかったよ。猫の末裔だけど」

「美弥にとって特別な日は、たとえば俺との挙式の日であったり、これからずっと増え続けるさ。俺が増やす。俺との思い出を、美弥にたくさん作ってやりたい」

「――なにもなくても、ただこうして一緒にいられるだけでも、僕には特別だよ」


 それは美弥の本心だった。

 晴斗の優しさが温かすぎて、離れがたい。


「俺も、それは同じ気持ちだ。ただ、もっと美弥の心に俺という存在を刻み、遺していきたいということだ」


 そう言って美弥を撫でる晴斗の手は、本当に優しかった。





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