晴斗が出張へと旅立ったその夜、美弥は膝の上にトラと名付けた母猫を抱いていた。二匹の仔猫は、布団の上でじゃれついている。そばには、出張に出かける直前に、晴斗が言葉の通りに買い与えてくれた裁縫セットと編み物セットがある。日中は、毛糸を毛玉にする作業をしていた美弥は、天井を見上げる。茶色に黒い線が走る天井も、随分と見慣れてきた。まだこの境遇になって、たったの二ヶ月と少しだというのに、自分の隣に晴斗がいないのが恋しい。
同時に司のことは心配だったので、晴斗に手紙を渡してもらうことに決め、昨夜筆を執った。有り体な気遣いの言葉しか出てこない自分を嘆かわしく思ったが、晴斗がそっと肩を抱き寄せてくれたので、封筒にしまう勇気が出たといえる。
その日は、トラを抱くようにし、トラの体にシロとクロが寄り添うようにして、みんなで眠った。
翌朝。
一人きりの朝食は寂しいと思ったが、この家には人の気配が絶えないから、寂しいと想う自分のことが少し不思議だった。やはりそれは、晴斗の存在が、それだけ大きいからと言うことなのだろうと美弥は考える。
この日も美弥は庭に出ることにした。
既に二月も下旬であり、梅が咲いている。細い枝を見上げ、梅の花びらが池にひらりと落ちたのを見ていた時、がさりと葉を踏む音が聞こえた。反射的に振り返ると、晴斗の叔父である早霧が裏庭に向かって歩いて行くのが見えた。ほとんど顔を合わせたことのない美弥は、晴斗の家族であるし、忙しそうでなければ少し挨拶をしたいと思ってそちらへと向かうことにした。
ゆっくりと池の畔を歩き、裏庭の方へと頭を出す。
竹林と朱い鳥居が見えたが、どこにも早霧の姿は無かった。
「あれ?」
不思議に思って、美弥は竹林の前まで足早に進んだ。そしてきょろきょろと周囲を見渡したが、早霧の姿は何処にも見えない。キーンキーンと音がしたのはその時だった。ツキン、と、“また”――美弥のこめかみが痛んだ。
「なんの音だろう……?」
キーン、キーン。
不可解な高い音、笛にも太鼓にも思えるその音に、目眩がした気がして美弥が頭を振る。すると、重なっている社の方に、惹きつけられた気がした。ふらり、ふらり、と。美弥がそちらに一歩足を踏み出そうとする。
「なにをしている!」
だが直前で、ぐいっと誰かに腕を引かれて美弥は我に返った。目を見開けば、既になんの音もしない。顔を向けると、そこには険しい表情の早霧が立っていた。目の下の薄い朱いクマが今日も酷い。元々陰鬱そうな顔立ちのようではあるが、今はその目がつり上がっている。
「ご、ごめんなさ――」
「君に言ったのではない」
「え?」
「……いいや、こちらの話だ。しかし、君がなにをしていたのかも気にならないわけではない。なにをしていた?」
軽く首を振った早霧の、両側の長めの髪が揺れる。分けた前髪は、少し乱れていた。
「その……早霧さんを見かけて、ご挨拶を、と……」
「そうか。同じ邸宅で暮らしているのだから、見かける事もあるだろうが、挨拶など不要だ」
「……すみません」
「別に咎めているわけではない。甥の伴侶は、俺の家族となるということだ。家族を見かけて、いちいち追いかけて、立ち止まって、挨拶? 堅苦しい」
「え?」
「そんなものは心を開いていない証左でしかない。親睦を深める手段としては有効かもしれないが、俺はどちらかといえば婚姻といった関係性の問題は、家族となるということは、時間が解決すると感じるたちでな」
不機嫌そうな顔であるというのに、どこか厳しい眼差しだというのに、早霧から出てきた言葉は、存外おおらかだった。
「だから気を遣うことはない。ただでさえ君の方が、無理に敵陣に引っ張り込まれたような心地だろう? 伴侶候補は皆、歪んでいるからな。ああ、億劫だ。俺も奴らから伴侶を貰うのか」
早霧が溜息をついた。それから空を見上げる。美弥もつられて見上げると、黒い鴉が空に線を引くように横切っていった。
「しかし風習だからな。いやな因習だが。そこに我を通して恋愛結婚などと言い始めた晴斗の正気を当初は疑ったが。幸いだったのは、恋愛相手が十二支の末裔にまつわる者だったことだろう」
「恋愛結婚……」
「まぁ、昔から我慢強い子ではあったからな。子、というには、俺の方が、兄よりも晴斗との方が歳が近かったから少し違うかもしれんが。人生で一つくらいは我が儘を通してもよいのかもしれんな」
そう言うと、早霧はそっと美弥から手を離し、腕を組んだ。
そして後ろへと振り返る。
「しかし俺は、恋愛とは一方通行ではないと思うが、美弥といったな? 君の方はどうなんだ?」
「え?」
「断れないから無理矢理結婚させられると思っているのか?」
「ち、違います!」
「そうか。ならば、さぞ御尊父も安心だろう」
早霧はそう言うと、嘆息してから美弥を見た。
「雅美さんは元気か?」
不意に出てきた父の名に、美弥が目を丸くする。
「お、弟が言うには、その……癒やして頂いたおかげで怪我は治ったけれど、まだ風邪をひいたりすると咳が出ると」
「そうか。肺に掠っていたからな。臓器自体にはもう異常がなくとも、残存している衝撃は体に残る。これからも無理をせぬよう文でも書くとよい」
それを聞いて、美弥はハッとした。
「お父様を癒やしてくれた神屋の方というのは、早霧さんですか?」
弥彦は晴斗かもしれないと話していたが、直感的に美弥はそう感じた。
「――別に、だからどうという事もない」
早霧はぷいっと顔を背けると、歩きはじめた。
「俺は家に戻る。美弥、玄関まで共に行こう」
「は、はい!」
そこからは二人で無言で歩いたのだけれど、美弥は、どこか怖そうな印象を与える早霧が、本当は優しい人であるように感じられた。それが、嬉しかった。