日が落ちた頃、晴斗が帰ってきた。
居住まいを正して出迎えた美弥を見ると、晴斗は柔らかく微笑した。
「ただいま、美弥」
「おかえりなさい」
「朝は悪かったな、急に出てしまい」
玄関から中へと入ってきた晴斗と共に、美弥は部屋に向かって歩く。向かった先は二人の寝室で、そこの黒塗りに金箔で模様が描かれた卓で茶を飲みながら話すのが、二人の日課だ。自分の部屋に一度戻った晴斗が、鞄をお気き着替えて戻ってきた時、美弥は雪野が置いてくれた緑茶を見ていた。
今日の日中のことは、内密にした方がいいのだろうか? と、ふと思う。
晴斗に隠し事はしたくないけれど、晴斗が話してくれないことは、無理に聞こうとは思わない。考えてみると、家で晴斗は、ほとんど仕事の話はしないのだから。
「晴斗は、今日はどうだった? お仕事」
それでもつい水を向けてしまう。
「――ああ、今日は会議が少しな。あとは……」
晴斗は言いかけると、湯飲みに片手を添えて、虚空を見た。そのぼんやりとしたような姿が珍しくて、美弥はまじまじと見てしまう。
「……少し、出張することになるかもしれない」
「出張?」
「ああ。国内で水害が発生した地域があって、あやかしが関係しているんだ」
水害、と、晴斗が話したのを聞いて、それが龍神の被害なのだろうかと美弥は思案する。
「僕に出来ることはある?」
「美弥? いきなりどうしたんだ。これは俺の仕事だ。美弥が気に病む必要は――」
「さ、災害なら、僕だってその……なにか支援出来るかもしれないし……そ、それに……僕にはあやかしを視るような力はないけど……その、なにか……」
それに場所は、司の実家の様子だというのが、頭を過る。美弥が紺色の瞳を揺らすと、晴斗が湯飲みを置いて腕を組んだ。
「竜宮からなにか聞いたのか? なにか依頼されたのか?」
「えっ、ち、違うけど……やっぱり司くんの……」
「やっぱり? 美弥。正直に話してほしい。教えてくれ」
難しい表情で、晴斗が美弥を見た。真剣なその瞳に射貫かれるようになり、美弥の呼吸が苦しくなる。なんとか息を吐いてから、美弥は項垂れた。
「ごめんなさい」
「なにか謝るようなことを?」
「……昼間、雨月と僕で、帝国軍あやかし討伐部隊の本部に行ったんだよ」
消え入りそうな声で美弥が述べると、晴斗が片手を顎に添えた。
「それで? 美弥、責めているのではないから、そんな風に悲しそうな顔をしないでくれ。俺は美弥に辛い思いをさせたいわけじゃない。ただ、事実を知りたいのと、心配をしている、それだけだ。それは分かってもらえるか?」
晴斗の声が少し優しいものに変化した時、視線をあげた美弥はおずおずと頷いた。晴斗に嫌われてしまうのではという気持ちが強かったのもあるが、これまでの過去、何をしても怒られる人生を送ってきたせいで、どうしても真面目なトーンで話しかけられると、美弥は怯えてしまう癖がある。
「カレーを食べて……」
「ああ」
「それで……」
「それで?」
「……晴斗がいたお部屋の隣の資料庫に入ったんだよ。鍵をかけて、その……」
「雨月になにもされなかったか?」
忍び込んでしまったことについて美弥は伝えたかったのだが、晴斗の声音は目に見えて雨月を警戒しているようで、険しいものへと変わった。
「雨月はなにもしなかったよ、鍵を閉めただけ。だけど僕、そこで晴斗と誰かが話しているのを聞いちゃったんだ」
「どういった内容の話だ?」
「……竜宮家の領地で、龍神が暴れていて、供物が……生け贄がいるというお話だよ」
か細い声で美弥が言うと、晴斗が静かに二度頷いた。
「なるほど。それで美弥は、竜宮を心配したのか。水害についても気になったということだな」
「うん……」
美弥が小さく頷くと、晴斗が肩から力を抜いた。
「美弥。俺はまず、お前が雨月と二人きりだったと思うと気分がよくはない。俺は嫉妬深いんだ。それをいうのならば、お前が竜宮の心配をしているのも、俺以外のことを考えていると思えば気分はよくはない。が、俺は嫉妬心でここでわめき立てるほど幼いわけではないし、美弥の優しい心を理解している」
改めて湯飲みに両手を伸ばした晴斗は、両掌でそれに触れた。
「それと、いくつかの誤解をといておきたい」
「誤解?」
「龍神というのは、水害の比喩で用いられる言葉だ。龍の神というわけではない。まずそれが一点だ。俺も帰ってきて早々、水害だときちんと伝えただろう?」
「う、うん」
何度も美弥が頷くと、唇の両端を持ち上げて、晴斗が綺麗に笑った。
それから立ち上がり、美弥の隣に座り直すと、そっと美弥の頬に触れる。
「その水害だが、竜宮家の領地には海や川、湖がある。広大な土地だ。その分、昔から二つの対策をしてきた。一つは、水害に対する備えを、人間として構築することだ。今、そちらには竜宮家の当主も司も奔走している。まず出来ることとして、軍から支援をここで一つ行う。美弥が言った出来ることというのは、この支援の部分だろう?」
「そ、そうだよ……僕……いてもたってもいられなくて……」
「ならば、俺と二人で、神屋からの支援の物資もまた送ろう。それでは、ダメか?」
「ダメというか……僕は僕の我が儘を叶えたいわけじゃないんだよ。出来ることがあったらと思っただけなんだよ……」
「美弥は優しいな」
隣から晴斗が美弥を抱きしめる。そうして晴斗が続けた。
「もう一つの対策の方が、あやかし関連なんだ。特に竜宮の家が深く関わっている」
「どういうこと?」
「十二支の末裔の祖は、皆神だとされている。竜宮家であれば、祖先は龍の神だ。こちらは、水害の比喩ではない」
「うん」
「そしてそれぞれに、特別な力が宿っているのだが、竜宮家の場合は、“水害を鎮める”という力があるとされている。力は、血に宿る。血液に宿るとされている」
晴斗は、腕をほどくと、まじまじと美弥の目を見た。晴斗の空色の瞳を、じっと美弥もまた見る。
「ただし人と交わるにつれ、その力は年々薄れる。神屋の人間は、その薄れた血に在る神の力の残滓を強くさせる能力もまた持っている。簡単に言えば、竜宮家の人間に俺が力を使えば、その者は、水害を鎮める血の持ち主となる。これが、今日俺が呼び出され、連続で会議をし、副官と話し、美弥が聞いた話の大隊の概要だ」
晴斗が静かに頷いたので、美弥もまた頷き返す。
すると晴斗が、真面目な表情に変化した。
「ただし――使う血の量は水害の規模に合わせて変化する。昔は、竜宮家の人間その者を水源に供物として……生け贄として落としていた時代、人柱としていた時代があるのは事実だ。そして今回の水害の規模もまた、過去と照らし合わせれば、それが推奨されているほどでもある」
美弥は驚いて目を丸くした。
「そ、それって、司くんか司くんのお父さんが……」
「――いいや。そうはならないし、そうはさせない」
晴斗は断言すると、微苦笑するような目をした。
「数年前に、異国でクエン酸ナトリウムを血に混ぜると――抗血液凝固剤を用いると、人間から抜き出した血が固まらないという研究報告が、吸血鬼の博士からあったんだ。吸血鬼というのは、異国のあやかしだ。まだまだ人間同士の輸血には至らないが、血をとりだして保存しておく技術は、一定の成果をあげている。俺の所属する帝国軍あやかし討伐部隊では、特に血に力を宿す家柄の者に、献血を求めて蓄えてきた。竜宮家もその内の一つだ。供物には、その血を使う。ただし血に眠る力を高めるのは俺をはじめとした神屋の者しかできないから、俺が現地まで出張するという話だ」
それを聞いて、美弥は体が楽になった気がした。なんだかほっとしてしまい、隣から晴斗に飛びつくように抱きついた。
「じゃあ、誰も死なないんだね……」
「現地の被災者では、死者も出ているが、人為的に生け贄として殺害するようなことはしない」
「うん、うん……」
抱きとめた晴斗が、美弥の銀髪を優しく撫でる。その感触が優しくて、美弥は目を伏せ暫しの間、浸っていた。