雨月に連れられて乗った馬車から降りた美弥は、目の前に建つ赤煉瓦を基調とした四階建ての洋風の建造物を見上げた。門で閉ざされており、帝国軍本部という簡素な看板が出ていて、陸とも海とも空とも書かれていなかった。守衛が二人立っており、どちらも普段晴斗が出かける時と同じ、今雨月が身に纏っているものとも同じ、茶色いブーツに紺色のブレザー型の制服姿をしている。二人は雨月の姿に顔を見合わせた。
「ご無沙汰しております、雨月大尉」
「なにか事件ですか?」
二人の声に、雨月がひょいと手を持ち上げて、唇で弧を描く。
「いやぁ、ちょっと飯を食いに来ただけだ。ご苦労さん」
雨月の声に二人は頷く。それから美弥を一瞥したが、雨月が一緒だからなのかなにも言わずに、門を開けて中へと通してくれた。
これまで雨月にはどこか意地悪そうな印象を抱いていた美弥だったが、今の様子を見ていたら、明るく気さくで、人望があるような、そんな空気を感じた。それは事実のようで、本部の中に入ると、道行く人がちょくちょく雨月に声をかけた。
「ここが食堂だ。まずは腹ごしらえだな」
雨月に案内されて入った二階の食堂は、洋風の椅子が並んでいた。二人がそこに座ると、給仕の者が来た。その者も、雨月に声をかけてる。
「最近お姿を見なかったから、どうしたのかと思ってましたよー!」
「心配してくれるとはいい奴だな」
「そりゃあしますって! 怪我はもういいんですかー?」
「おう。大したことはねぇよ」
二人のやりとりに、怪我をしていたのだろうかと美弥は驚いた。
「何になさいます?」
「俺はカレー。美弥は?」
「あっ、じゃ、じゃあ、僕も同じ物をお願いします」
「畏まりましたー!」
こうして給仕の者が下がっていってから、美弥はまじまじと雨月を見た。
「どうかしたか?」
「その……怪我をしていたの?」
「あー、まぁちょっとな。いいや、ちょっとというには少し派手だったが、もう平気だよ。優しいんだな、美弥は」
「普通心配するよ」
「どうだか? 兄上が心配していた様子はなかったぞ」
「絶対晴斗も心配していたと思うよ」
「美弥は兄上がこれ以上無い善人に見えるらしいな。まったく。ま、兄上はこの本部でも皆が一目置くような、凄腕ではある。そこは俺も認めてるぞ?」
雨月が楽しそうに言うので、美弥はコップに入った水に手を伸ばしながら呟く。
「だけど雨月も、みんなに声をかけられてて、人気者だね」
「まぁ……兄上は、どこか人を寄せ付けないって言うの? お前には違うみてぇだけど。その点俺は、兄上より話しやすいからな。自分で言うのもなんだが。顔見知りも増えれば、友達だってそうだろ? 美弥は俺が話しにくいか?」
「分からないけど、もっと意地悪だと思ってた」
「そりゃあ心外だ」
そんなやりとりをしていると、そこへカレーの皿が届いた。赤い福神漬けと白いらっきょうが添えられている。初めてカレーを見た美弥は、首を傾げた。
「これはどんな料理なの?」
「肉じゃがのモデルだ」
「……似てないよ?」
「具材は近い。覚悟しろ、辛いからな?」
ニヤニヤと楽しそうに笑ってから、雨月がスプーンを手に取る。美弥も真似て、カレーを食べることにした。
――食後。
「美味しかっただろ?」
「うん」
美弥は両頬を持ち上げて、隣を歩く大柄な雨月を見上げる。自然と雨月が階段へと向かった時、そこを登り始めた段階では、美弥はなにも考えていなかった。だが、踊り場まで歩いたところでふと考える。
「ねぇ、雨月? 民間人が入れるのは食堂だけなんじゃ……?」
「それじゃあ兄上がなんの仕事をしてるか分かんねぇだろ? これは俺の善意だぞ」
雨月は足を止めない。
本当にいいのだろうかと戸惑った美弥だが、意を決してついていくことにした。雨月は暫く歩き、資料庫と書かれた戸を開ける。そして美弥を中に促すと、施錠した。内扉もあり、そちらにも鍵がかかっているようだったが――声が聞こえてきた。
『晴斗准将。以上の通り、龍神の暴走により、竜宮家の領地にて甚大なる被害が出ている模様です』
『そうか』
片方は見知らぬ声だったが、短く頷いた声音は、明らかに晴斗のものだった。美弥が目を丸くしてチラリと雨月を見ると、綺麗な唇に人差し指を当てて黙るようにという仕草をした雨月が、楽しそうに笑う。美弥は思わず唾液を嚥下してから、両手で自分の口を塞いだ。
『竜宮家のご当主は隠居をご検討なさっておいでだったのですが、急ぎ領地にて対策指揮を執っておられます。今、帝都におられる次期当主の司様より、このあやかし討伐部隊に連絡がありました』
司の名前に、美弥は驚いて目を瞠る。
新年の挨拶以来顔を合わせていないが――見合いの日も含めて、なんだかんだ心配してくれた同級生について考えると、胸が苦しくなった。けれど、“龍神”がなんなのか、よく分からない。確かに自分達は十二支の末裔だとは聞いているが、あくまでも伝承だと美弥は考えている。だが話から察するに、さらにこの場所的にも、それらはどうやら、“あやかし”の話の様子だ。
『どうなさいますか?』
『支援物資の手配を』
『ですが……』
『それのみでは根本的な原因は解決しないと言いたいのだろう? 分かっている』
『でしたら――』
『龍神を倒すことはできない。龍神は供物を捧げて鎮まるのを祈るほかない』
晴斗の声は淡々としており、そこにいつもの優しさは見えない。美弥の好きな声であるのは間違いなかったが、どこにも感情のようなものが窺えない。
『供物については、少し竜宮家の者と話す必要がある。神屋家から連絡を取る。今日できることは、これが全てだ』
『……はい。承知しました。それでは支援物資として――』
そこで一区切り話がついた様子だった時、雨月がポンポンと軽く美弥の肩を叩いた。そしてそっと資料庫を出る。慌てて美弥もついていく。どことなく急ぎ足になった雨月が階段を降りるのに、必死で美弥はついていった。
そして門を出て、近くに停まっていた馬車に乗り込み、それが走り出した時、やっと一息つけた。
「どうだった? ん?」
にやっと雨月が笑っている。緊張が解けたら心臓がドクンドクンと煩くなってきた美弥は、はぁっと大きく息を吐く。
「兄上は冷酷そうだっただろ?」
「そんなことはないと思うけど……」
「そうかぁ? 生け贄を龍神に差し出して事を収めようとしてるのに?」
「……え?」
「“供物”っていうのは、生け贄のことだ。ああ、怖い。怖い」
肩を竦めた雨月を見て、何度か瞬きをしてから美弥は俯いた。
「きっと……晴斗には何か考えがあると思う」
「ん?」
「生け贄になるというのがどういう事かは、僕には分からないけど、きっと晴斗は誰かを酷い目に遭わせたりはしないよ」
「だといいねぇ」
雨月はそういうと、ポンッと美弥の数多の上を撫でるように叩いた。
「晴斗兄上が羨ましいな。こうやって信じてくれる奴がいて。美弥、いつても、やっぱり兄上を止めて、俺の伴侶になると決めてもいいんだぞ?」
「ぼ、僕は晴斗がいい」
「ふぅん」
雨月は楽しそうな表情だ。そんなやりとりをする内に、馬車は神屋家へと戻った。