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第16話 ヴァレンタイン


「こうしてゆっくりと食事をするのも久しぶりなように思うな」


 朝食の席で晴斗が言う。確かに仕事のある日に比べたら、今日の朝食はゆっくりだ。微笑して美弥が頷く。


「美味しいね」

「そうだな。美弥はどれがお気に入りだ?」

「僕はこの厚焼き卵が好き」

「俺も好きなんだ。適度な甘さが癖になる」

「僕も!」


 食の好みが合うことまでもが、いちいち嬉しい。美弥の声が、今日はいつもより弾んでいる。本日は和装の晴斗は、紺色に金の刺繍の服を身に纏っている。羽織は二人そろいの品だ。少しずつ、二人でおそろいの品が増えていく。晴斗が仕事帰りに買ってくることもあれば、商人を呼んで買うこともある。


「美弥、今日は少し街に出ないか?」

「行きたい。どこへ行くの?」

「今日は二月十四日だろう?」

「うん」

「ヴァレンタインというイベントを知っているか?」

「聞いたことが無いけど」

「最近異国から流入してきた祝祭らしい。恋人が恋人にチョコレートを贈る日だそうだ。ぜひ俺から美弥にチョコを贈らせてくれ」


 微笑した晴斗を見て、美弥は目を丸くする。洋菓子は美弥の好物だが、まだまだこの帝都ではお目にかかる機会は少ない。だから嬉しくなって、美弥は両頬を持ち上げる。


「食べたい。嬉しい。僕も、晴斗になにかを贈りたい――あ、でも……」


 そこで美弥は思い出した。

 衣食住の全てをまかなってもらっているが、美弥は金銭を持っていなかった。


「どうかしたか?」

「贈り物……その、ちょっと待ってもらってもいい?」

「気にすることはない。それより、顔が曇ったな。そちらの方が気になる」

「――僕、その……なにか働けることはないかなと思って」

「働く?」

「晴斗に贈り物をするお金、自分で稼ぎたいから!」


 美弥が宣言すると、晴斗が目を丸くした。そしてくすくすと笑う。


「美弥には毎月困らないくらい俺は与えたい、が、そうか。俺のために、自分で、か。本当に気にすることはないんだ。美弥には、美弥が使ってよい通帳を渡すことにする」

「い、いいよ! こんなにしてもらっているのに、その上――」

「美弥は俺の伴侶だ。まだ半年ほどあるが、そうなる。そうしたい。そして伴侶を養うのは当然のことだろう」

「……っ、じゃ、じゃ! お金はいいから、僕にお裁縫セットと編み物セットを買って?」

「うん? 構わないが」

「僕、マフラーとか手袋とか、靴下とか、ハンカチとか、お守りとか、そういうのを、作る! だからそれを……よかったら貰って?」

「それは嬉しいが――一番嬉しいのは、美弥が俺を想ってくれているという気持ちだ。ありがとう」


 そう言って笑った晴斗の表情があんまりにも綺麗だったものだから、美弥は見惚れ、それから赤面して俯いた。




 その後、馬車に乗って向かった先は、カフェ・マロニエという和風建築の一階を洋装に改築した店だった。中では和服姿に、白いドレスエプロンをつけた給仕の者が控えており、二人が入ると皆が一礼した。


 店内には薔薇がたくさん飾られており、むせ返るような甘い匂いがする。

 二人以外の客はなく、美弥は晴斗に手を引かれながら、支配人に案内されて窓際の席についた。そこには巨大なチョコレートケーキがあった。


「すごい……こんなの、見たことが無いよ」

「貸し切りにした甲斐があるな」

「えっ?」

「美弥との時間を誰にも邪魔をされたくなかったんだ。パティシエにも特注のケーキを頼んだんだ」


 そこに、茶器が運ばれてくる。

 陶磁器のカップに、よい香りがする挽き立ての豆で入れた珈琲が注がれる。

 支配人がケーキを切り分けて、二人の皿に置いた。そしてすぐに下がる。


「気に入ってくれたか?」

「う、うん。美味しそう……」


 美弥が顔を綻ばせる。すると晴斗が穏やかに笑ってフォークを手に取った。

 美弥もまたフォークを手に取り、チョコレートケーキを一口、口に含む。


「このケーキも、薔薇も、全て美弥のために用意させた。少しは俺の気持ちが伝わればいいと思ったんだ」

「もう……十分伝わってるよ」

「まだまだ足りない。もっともっと、美弥に俺を見て欲しい」


 蕩けるようなチョコの味よりも、晴斗の表情と声音、言葉の方が甘く感じて、美弥の胸が高鳴る。いいや、いつもなのかもしれない。晴斗の眼差し、空気感、それらが美弥の胸の鼓動を煩くさせる。最初は穏やかな愛情に癒やされていたはずなのだが、ここのところは、それがドキドキと煩く、胸が早鐘を打つように変わりつつある。


「僕の方こそ、僕の気持ちが晴斗に伝わっていない気がして……」

「そうか? 俺には、少しずつ美弥が俺を好きになってくれているのではないかという淡い期待を抱かせる表情に思えるが、気のせいだと言うことか?」

「っ、そ、その……気のせいじゃないよ。淡くもないし……」

「そうか」


 穏やかな声で同意した晴斗が、喉で笑った。その笑顔が、美弥には特別に思えた。過去、美弥は恋をしたことがないから、今の自分の気持ちに名前をつけられない。名前をつけることが怖くすらある。自分に幸せになる権利があるのかも不安だ。けれど――晴斗のそばにいたいという気持ちは本物だと、今ではもう、よく分かっている。


「美味しい……」

「そうだな」


 この日二人で食べた甘いチョコレートケーキの味が、美弥には特別になった。

 それは、これまで食べたいずれのチョコよりも、ずっと甘く。





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