翌日。
晴斗は隣で眠る美弥を見ていた。起床したのはもう三十分も前だが、美弥を起こしたくは無かったし、その寝顔は飽きない。ずっと美弥を見ていたい。そんな想いに駆られるようになったのは――実を言えば、美弥が十五歳の頃だった。
美弥の記憶は、既に無いということも分かっている。
いつか、思い出してくれる日が来るかもしれないと思いつつも、それが怖くもある。
あの日、晴斗は次期当主としての重圧と戦っていた。そんな時、神屋の者は、神の影が巣喰う社で、負の感情を吐き出す。そうしなければ、神の家たる敷地が歪んでしまうからだ。ただでさえ、神屋家の家屋にいるだけで、人は歪みやすい。強い神の力に当てられると、人は善人になるか鬼になる。あやかし、と、鬼を呼ぶ者もいる。たとえば、日辻家の朝霞などは、既に歪みつつある。いつかは、家に帰そうと晴斗は考えている。それでも十二支の末裔家の者は、耐性がある方だ。
晴斗はその時、十七歳だった。既に父は病床についており、取り仕切っていたのは叔父、跡目争いには弟も加わっていた。晴斗は決して当主になりたいという思いは無かったが、そう在れと教育を受けて生きてきた。
それがパリンと心が砕けたのは、自分を育ててくれた乳母が狂ってしまった時、鬼になってしまった時だった。彼女は、晴斗の首に両手をかけると、殺めようとした。そこに、理由は無かった。ただ、鬼になってしまっただけ。
なにが、神の末裔だ、と。
一人、社で晴斗は鏡を見ていた。ご神体に映る自分の恨みがましい目を見て、あるいは自分こそとっくに狂っているのではないかと思ったほどだった。何故なのか映る自分の髪も目も黒く昏く――だが、そこに映る神の影は、嘲笑するように笑っていた。
ガラリと扉が開いたのはその時で、晴斗はハッとし振り返る。慌てて涙を拭い、侵入者を睨めつけた。
「泣いていたの?」
「誰だ」
ここには、神屋に関わる者しか入ることが出来ないはずだった。なにせ、ここは神屋の者が歪みを吐き出す場所なのだから。神の歪みなど、露見させてはならないものだ。
「僕、道に迷っちゃったんだよ」
「道に? ここへたどり着くなど無理な話だ。どうやって入った?」
「林間学校に来て森に入ったら、泣き声が聞こえて――ここに来ないといけない気がしたんだよ。あなたは、誰?」
「……お前こそ、何者だ?」
「僕は猫崎美弥っていうんだよ。変な人じゃないよ!」
「猫崎……美弥……猫の末裔か?」
「え? 十二支のことを知っているの?」
険しい晴斗の声を聞いた美弥が、不意に悲しそうな顔で俯いた。
「じゃあ、僕のことは嫌いだよね」
暗い声に変わった美弥を見て、晴斗は何故なのか動揺し、瞬きをした。あんまりにも悲愴が滲む美弥の瞳は辛そうで、胸が鷲づかみにされる。
だが、美弥はすぐに顔をあげた。そこには、笑顔が浮かんでいた。
明るい笑顔だ。
「でもね、大丈夫。大丈夫だよ? 笑っていたら、いいこともあるんだよ」
「っ」
「だから、笑って。あ、無理にというんじゃないよ? 楽しいときだけでいいから。僕にもね、楽しいこともあるんだ。だから、僕は笑うことにしてるんだよ」
そう言った美弥の表情は慈愛に満ちているように見えて、晴斗は苦しくなった。ここで呪詛を吐いている自分が、空しくなった。同時に、美弥のそばにいてくれたら、笑顔になれる気がした。
「だったら、お前が俺を笑顔にしてくれ」
「うん。僕に出来るなら」
「約束、してくれるな?」
「うん!」
するとその場に、くつくつと笑い声が響いた。あるいは嗤い声だったのかもしれない。
晴斗が振り返ると、鏡に映る自分によく似た色彩を持つ神の影が、楽しそうな目をして笑っていた。
『名乗ってやろう。猫の末裔、ちなみに俺は夜宵と言うんだ。覚えておけ、きっとお前とはまた会うだろう』
美弥は不思議そうな顔をしていた。きょろきょろと周囲を見渡している。
どこか不安げに見えて、晴斗は手を伸ばした。そしてそっと美弥の腕に触れた時、美弥が視線を戻して微笑した。
「夜宵さんって言うんだね」
「その……」
神屋の者は、迂闊に名乗ることは許されない。だから晴斗は一度視線を下げてから、苦笑した。
「――ああ、そうだな。それもまた、俺の名だ」
偽りではなかった。自分の負の感情、歪み、影の名がそう言うのだから。
「また会えるといいね。僕はそろそろ戻らなきゃ」
美弥が振り返る。そして社を出て行った。
『神屋の者ではない以上、邂逅した記憶はすぐに消える。安心していい。ただいつか、あの者が神屋の者になったのならば、全てを思い出すだろう。“本当”に神屋の人間になった日には、な』
――晴斗は、夜宵が語ったその言葉を、今も覚えている。
その次に美弥と顔を合わせたのは、美弥が別荘に来た時だったが、それをふと思い出そうとしていたら、美弥が身じろぎをして目を擦ったので、晴斗はハッとし、意識を現実へと戻した。ただ、美弥はまだ、神屋の者だと自認していないのだろうという寂しい思いだけは消えなかったが。
「ん……晴斗……?」
「おはよう、美弥」
美弥の額に唇を落とした晴斗を見ると、慌てたように美弥が目を丸くして、頬を染めた。そんな表情までもが愛らしい。
晴斗には、晴斗の、抱えるものがある。美弥が、美弥に抱えるものがあるように。
ただ、晴斗は感じている。
美弥がそばにいて、『大丈夫』だと笑ってくれるのならば、乗り越えていけるのだと。
こうして二人は、新しい朝を迎えた。