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第14話 貧血

「ん……」


 目を覚ますと、美弥は自室で眠っていた。


「美弥!」


 覗き込んでくる心配そうな顔をした晴斗は、美弥の額に手で触れると、安堵したように吐息した。


「あれ、僕は……」

「……お前は……」

「……? 確か、庭で鳥の声を聞いていた気がしたんだけど……貧血でも起こしたのかな?」


 美弥の最後の記憶は、事実鳥の声を聞いたことだった。別の音を耳にした記憶は無い。晴斗はじっとそんな美弥を見ると、微苦笑した。


「――ああ、そうらしい。倒れているのを、たまたま早く帰った俺が見つけたんだ。どこもぶつけていないようでよかった」

「ご、ごめん。心配してくれた?」

「当然心配する。だが、美弥が無事で本当によかった」


 晴斗の声を聞きながら、美弥は上半身を起こした。すると隣から晴斗が美弥を抱きしめた。キュッと優しい腕の感触に、美弥ははにかむように笑う。


「僕は大丈夫だよ」

「俺が大丈夫ではないんだ」

「ごめんなさい。これからは気をつけます」

「美弥は、もっと自分を大切にしていいんだ」

「晴斗が僕を、僕の分まで大切にしてくれてるから、僕も何かをしたかったんだよ」

「美弥はそばにいてくれるだけでも、俺を癒やしてくれる」


 ――癒やす?

 どこかでその言葉を聞いた気がして美弥は首を傾げたが、思い出せない。


「どこかへ行ってしまうと思うと、俺は怖い」

「僕は、晴斗のそばにいるよ。だけど――晴斗の伴侶……こ、恋人として! 出来ることもしたいんだよ。僕だってその……晴斗のこと……大切にしたんだよ」


 我に返った美弥が必死で想いを告げると、晴斗が神妙な顔をしてから柔らかく笑った。そして撫でるように美弥の頭に触れてから、小さく頷いた。


「その気持ちが嬉しい。それだけで、俺は生きていける」




 ――翌日。

 晴斗は休むと行ったけれど、軍からの急な呼び出しで、どうしても招集される事になり、玄関で馬車の前に立った。見送りに出た美弥の両手を取った晴斗が、微笑する。


「行ってくる」

「うん。行ってらっしゃい」


 美弥が見送る前で、ブーツの踵の音を響かせて、晴斗が馬車へと乗った。その馬車の影が見えなくなるまでの間、美弥はずっと見送っていた。


 その後自室へと戻ると、雪野が慌てたように言う。


「貧血のお見舞いに、日辻の朝霞様がおいでになるそうです」

「そ、そう……」

「断りますか?」


 美弥の表情が強ばったのを見て取った雪野の声に、軽く美弥は首を振る。


「折角心配してきてくれるんだから、断るのは悪いよ」


 美弥の声に、雪野が複雑そうな顔をしてから、何度か頷いた。

 朝霞が訪れたのは、午前十時のことだった。緑茶を置いた雪野を見ると、朝霞が目を眇める。


「旧知の仲なので、二人で話したいのですが」


 露骨な人払いだったが、朝霞とて伴侶候補だ。雪野は逆らえない様子で、一礼すると部屋を出て行った。残された美弥は、朝霞と向き合う。


「貧血だとか。具合はどうなのですか?」

「もうすっかりいいんです」

「そうですか。それはそうでしょうね。この神屋の家で豪勢な食事を食べていて、貧血になどなるとは思えませんから」

「――え?」

「大方、晴斗様の気を惹きたくて、口から出任せを申したのでしょう? 全く、お里が知れるとはこのことです」


 朝霞の表情は冷ややかだ。美弥は萎縮し、着物をギュッと握って俯く。十二支亭にいた頃の朝霞は比較的優しかったはずなのに、今は違う人間にさえ見えた。


「貴方のようにあざとい人間が僕には卑しく思えます」

「……」

「くれぐれも、晴斗様以外にまで色目を使ったりしないで下さいね。それだけ、僕に与えられる機会が減るのですから」


 そう述べると、朝霞はすっと立ち上がり、部屋から出て行った。一口も口を付けなかったお茶は、既に生ぬるい。背筋を怯えが駆け抜けた美弥は、唇を引き結び、ただ震えていた。これでは、こんな風に弱くてはいけないと思うのに、体に染みついてしまった恐怖はいかんともしがたい。


「美弥様」


 そこへ雪野が入ってきた。そして美弥の様子を見ると、苦しそうな顔をしてから、美弥のそばに座る。それから優しく背中を撫でた。そうされていたら、美弥の涙腺が緩み、瞳に涙が滲む。


「部屋の外まで聞こえていました。誰も、美弥様が嘘偽りを述べたなんて、思ってません。ああいった一部の性格の悪い日辻様なんかを除いては!」

「……」

「――と、言いたいですけど、伴侶候補の人達がギスギスしてるのは事実です。僕が、可能な限り、盾になります。風よけになります!」


 雪野が励ましてくれるのが分かったら、ぽろりと美弥の目から涙が零れた。それは、嬉しかったからだ。


「な、泣きたい時は、泣いてください!」

「ありがとう、ありがとう……」


 この日、美弥は悲しさと嬉しさでひとしきり泣いた。

 そして晴斗が帰ってくる頃には、目元が朱くなってしまっていた。この顔では出迎えに出られないと一人部屋にいた美弥のもとに、真っ直ぐに晴斗が訪れたので、その配慮は無駄になってしまったのだが。


「美弥」


 晴斗が美弥を抱き寄せ、後頭部に手を回し、自分の胸板に美弥の額を押しつけた。


「雪野から聞いたぞ」

「口止めを忘れちゃった……」

「口止め、か。そんなものは必要ない。辛い思いをしたそうだな。俺がそばにいられたならば――明日こそは仕事を休む」

「いいんだよ。晴斗は求められているんだから」

「だとしても、俺は美弥に求められる方がいい。だから、なんでも話してくれ」


 晴斗の温もりが嬉しくて、美弥は頷く。その目元は朱いままだったが、心は幸福感で満ちていた。





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