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第10話 七草がゆ



 晴斗は美弥の隣に素早く歩み寄った。


「美弥? 具合が悪いんじゃなかったのか?」

「その……」

「いいや、ここへ来て悪化した様子だな。部屋の外まで聞こえていたぞ」


 地を這うような冷たい声を出し、晴斗は室内を見渡した。すると十二支の末裔達が、体を硬くしたのが分かった。


「以後、美弥を害した者は覚悟しておけ。神屋の怒りを買うと理解しろ」


 そう宣言した晴斗は、美弥の手を引き立ち上がらせる。


「不愉快だ。ここで失礼する。美弥、行くぞ」


 晴斗はそう述べると、美弥を連れ出してくれた。暗い廊下を二人でしばし歩く。すると美弥は悲しさが今になって溢れてきて、目を潤ませてしまった。俯きながら嗚咽をこらえていると、よく月が見えると廊下で、静かに立ち止まった晴斗が振り返り、美弥の腕を引く。そして優しく抱きしめた。


「辛い思いをさせてしまったようだな」

「晴斗……っ」


 ついにこらえきれなくなって、美弥は涙を零す。すると晴斗が、片腕でより強く美弥を抱き寄せ、もう一方の手の親指で、その涙を拭った。


「泣きたいときは泣いて構わない。俺がそばにいる」

「うん……うん……」

「ただ俺は、もう美弥を泣かせない努力をする――と、言ったそばから情けないな。守ってやれなくて悪かった」

「ううん、晴斗は僕を守ってくれたよ。僕のために怒ってくれてありがとう」


 美弥はそう告げると、晴斗の服の胸元を静かに握った。

 晴斗の優しさが、身に染みるようだった。



 このようにして、十二支の末裔達との宴の夜は過ぎたが、一月六日、ストレスがたたったのか、美弥は熱を出した。驚いた晴斗が医師を呼ぶ。神屋家の主治医の高城が訪れて、診察をした。


「突発性の発熱です。すぐにおさまるでしょう。それだけ強いストレスがかかったということです」


 高城の説明に、晴斗は難しい顔をしていた。

 医師が帰ってから、少し熱が下がった美弥は、ずっとそばにいてくれた晴斗を見る。


「ありがとう、僕……もう大丈夫」

「いいや、もう少し休むといい。それよりも、それほどまでに十二支の面々には嫌なことをされてきたのか?」

「っ……」

「話したくないかもしれないが、聞かせてくれ」


 晴斗が美弥の手を両手で握りながら言う。美弥は、暗い瞳をした。

 瞬きをする度に、脳裏には、殴られ蹴られた記憶がよぎる。お湯をかけられたこともあれば、水をかけられて寒い場所に閉め出されたこともある。だが、それらを言ったら、晴斗は神屋の人間であるから、報復することが出来てしまう。美弥は、仕返しがしたいわけではない。ただ、平温になればよいと、それだけを願っていた。


「大丈夫、だから……晴斗。僕は、今、こうやって晴斗がついていてくれるだけでいいんだよ」

「美弥、しかし……」

「お願い、なにも聞かないで」


 なにより無抵抗で無力だった己の非力さを知られることも嫌だった。


「……そうか。では、話してくれるまで待つ」

「うん」


 いつか、己の弱さに向き合うことが出来た時、その時はしっかり話そうと美弥は思った。きちんと自分で、嫌なことを嫌だといえるようになった時だ。晴斗に対してはそれが出来たのだから、昨日朝霞の手を振りほどかなかったのは、己の弱さだと美弥は思っていた。


 この日はずっと晴斗がそばについていてくれて、夜は早めに就寝した。


 翌七日には、美弥の熱はすっかり下がった。


「今日は七草がゆの日だな」


 朝食の席で、晴斗が微笑したので、美弥も頷く。一年の無病息災を、この日は和木の作ってくれたおかゆで、二人は願った。


 このようにして、美弥が神屋邸に訪れて、丁度十日が経過した。

 今日は二人で、縁側に座り、庭を見ている。


「美弥、少しはこの家に慣れたか?」

「うん。だけどそろそろ、一度家に帰って、お父様達ともしっかり話をしたいと思ってる」


 美弥が素直に伝えると、晴斗が思案するような目をしてから頷いた。


「俺も一緒に行っても構わないか?」

「うん。大丈夫だよ」

「そうか。ならばこちらで日程は調整する」

「ありがとう」


 こうして二人は、一度猫崎の家に行くことに決まった。



 ――猫崎家へ向かう馬車が用意されたその日の朝方は、霙が降っていたが、二人が出発する頃には、晴れ間が覗いていた。ただ玄関脇に置いてあった桶には、薄氷が張っていた。肌寒いその日、二人は手を繋いで馬車に乗った。不思議なもので、晴斗の体温に美弥は慣れつつあった。


 神屋の家紋が入る馬車が、ゆっくりと坂道を下っていく。門のところでは、若隅が見送りをしていた。大きな六人乗りの馬車に、二人で乗り込み、いくつかの荷物を他には積んでいる。


 晴斗は紅茶を淹れて、美弥に差し出し、己の分にはブランデーを垂らしていた。


「お父様、なんていうかな」

「そうだな。許可は貰っているが、神屋からの求婚は、基本的に十二支の縁者は断ることが困難だからな。どのように思われているかは、俺も気になる」


 そう言って晴斗がカップを傾けたので、美弥もまた紅茶を飲み込んだ。

 神家と呼ばれる広大な敷地を出てから、馬車は帝都へと進む。次第に町並みが変わっていくのを、美弥は車窓から眺めていた。既に正月飾りは撤去している家が多い。例年塞ノ神が行われるので、そこで火にくべるのだろうと美弥は考えた。


 だんだん、美弥にも見覚えのある風景となり、そうして馬車は、猫崎邸へと到着した。出迎えたのは、父の雅美と弟の弥彦だ。四十代半ばの雅美は痩身で、洋装姿だ。弥彦は十七歳で、紋付き袴姿だった。猫崎家には使用人はいないので、これまでは三人暮らしだった。


「ようこそおいで下さいました。ご無沙汰しております晴斗様」


 腰を折った雅美の声に、晴斗が綺麗に笑う。


「ご無沙汰しております。お体を患われたと伺っておりますが、お加減は?」

「ええ、その……だいぶ楽にはなったのですが。今は、美弥と弥彦に色々任せてしまうこともあります」


 苦笑した雅美に対し、晴斗は小さく頷いた。


「ほら、弥彦。ご挨拶しなさい」

「は、はい。こんにちは、神屋様」

「こんにちは」


 晴斗は、弥彦に対しては穏やかに笑いかけた。それを見てから雅美が述べる。


「さぁ、どうぞ中へ。あまりもてなしも出来ませんが」


 こうして美弥は、久方ぶりに生家へと帰還した。





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