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第5話 新生活の開始

 立ち上がった晴斗が、美弥の隣に来て座り直す。


「式までの間は、この神屋家で過ごしてくれ」


 そして美弥の両手を取ると、そう述べた。優しく温かい手の感触に、思わず美弥は照れてしまう。


「うん。あ……お父様達に連絡しなきゃ」

「こちらで話を通しておく。結納品の手配は、竜宮家に手伝うよう指示しておく。何も心配はいらない。美弥は、ただここにいてくれたらそれでよい」

「晴斗……」


 どうしてこのように良くしてくれるのだろうかと不思議に思いつつも、美弥は小さく頷いた。晴斗といると、ぬるま湯に浸かっている心地になる。そのお湯の名前は、幸福というような気がしてならない。


 こうしてこの日から、美弥は神屋家で暮らすことになった。



「部屋に案内する」



 会食後、司を見送り玄関へと出た後、晴斗がそっと美弥の肩を抱いた。それにドキリとしていると、美弥の背に触れた晴斗が歩き始める。


 二階建ての邸宅の階段をゆっくりと上がっていく。

 そして美弥は、奥の和室へと案内された。


「隣の隣が俺の部屋だ。寝室が隣だ。伴侶となるから、神屋のしきたりで寝室は同じとしてもらう」

「は、はい……」

「別にとって食うわけではない。そんなに怯えないでくれ」


 晴斗が苦笑したので、美弥は曖昧に頷いた。晴斗ならば、酷いことはしないだろうかと思案する。


「あとはおいおい、屋敷の者を紹介する。皆、神屋の縁者だ。美弥にも専属の使用人をつける。それは今は選定中だから、少し待ってくれ」

「ありがとうございます」

「敬語でなくていいんだからな? 敬語だと距離を取られているようで寂しいんだ」

「わ、わかったよ」


 慌てて美弥が言い直すと、晴斗がそっと美弥の頭を撫でた。身長差があるから、美弥は上目遣いに晴斗を見上げる。


「そこの箪笥の中に、服が入っている。美弥に似合うだろうと思って購入させた品だ。全て自由に身につけてもらって構わない。勿論もっと欲しい品があれば、商人を呼ぶからいくらでも購入してくれていい。時には帝都へと買いに出てもよいしな」


 優しい晴斗の声に、美弥は目を丸くしつつ頷いた。


「欲しいものがあれば、なんでも買うといい」

「……どうしてそんなによくしてくれるの?」

「そうしたいからだ。この気持ちに理由はない。単純に、美弥を喜ばせたいだけかもしれない。まだ俺は、どうすれば美弥を喜ばせられるか分からないから、手当たり次第なんだ」


 冗談めかしてそう言った晴斗は、それから少し屈んで美弥をのぞき込んだ。

 至近距離にある晴斗の顔を、美弥はまじまじと見つめる。


「幸せにしたいんだ」

「晴斗……」

「俺は美弥が大切でたまらない。好きなんだよ」


 思わず美弥は、注がれた愛の言葉に赤面した。

 誰かに蔑ろにされ虐げられた経験は多いけれど、このように愛された記憶は、家族からしかない。これまで味方は、父と弟だけだった。巷の人々も、猫神の末裔と聞くと、美弥のことを嘲笑っていたからだ。


 学園では高位の華族であるから直接手出しされなかったのは事実だが、それでも陰口をたたかれていたのは間違いない。


 これまで嫌われてばかりいたものだから、優しい言葉に慣れることができない。


「急にこのようなことを言ってしまい、悪いな。さて、夕食まではここでゆっくりと過ごすといい。俺は、美弥付きの使用人の手配をしてくる。また後で」


 最後にポンポンと二度叩くように美弥の頭を撫でてから、晴斗は部屋から出て行った。

 しばらくその背が消えた襖をぼんやりと美弥は見守っていた。

 まだこの状況に現実感がわかない。


 それから美弥は、室内を見回した。畳の部屋で、背の低い黒い卓がある。漆塗りで、緊迫で蝶が描かれている。掛け軸の下には、花が生けられている。窓は円く、障子が嵌まっている。雪洞が置かれている他、天井には電球が見えた。壁には、果物を描いた油絵があり、それだけが室内では洋風だ。


 黒い卓の左右にある座椅子に腰を下ろした美弥は、十二支亭と同様の、温度が一定に保たれる薬缶を見つけた。そばに湯飲みや急須もあったので、お茶を淹れることとする。上質な茶葉を蒸らすようにして、湯飲みにお茶を注いだ。


 一口飲み込むと、一人になったこともあり、やっと緊張感が幾ばくか解けてくる。


「本当に僕でいいのかな……」


 冷静に考える時間が出来た美弥は、ぽつりとそう呟いた。



 それから少しして、控えめな声がかかった。


『失礼しても宜しいですか?』

「は、はい!」


 慌てて美弥が声を返すと、襖が開き、そこには正座をして深々と頭を下げている青年の姿があった。


「あ、あの……顔を上げて下さい」

「ありがとうございます。僕は、美弥様のお世話をするように申し使った、雪野と申します!」


 顔を上げると、雪野と名乗った青年は快活に笑った。長身で、肩幅が広い。

 紺色の着物をたすき掛けにしている。


「なんでもお困りのことはお申し付け下さいね!」

「は、はい……」

「あっ、お茶を飲んでいらっしゃいます? すぐにお茶菓子もお持ち致しますが?」

「だ、大丈夫です」

「そうですか?」


 にこにこしている雪野に、つられて美弥も笑顔を返した。


「今はご挨拶に来ただけなので、これで。そこの卓の上鈴を鳴らしてもらえれば、僕の所に響くようになっているので、用がある時は鳴らして下さいね」


 雪野はそう言うと部屋を出て行った。




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