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第3話 お見合いの日の朝は雨

 翌日は、それまでゆっくりと入ることを許されなかった大浴場へと促された。他の入浴者は誰もいない。美弥のために、特別に開けられたのだという。そこで身体的な汚れというよりは、“現世の汚れ”を落とすようにと言われた。

 美弥には普通の入浴とどう異なるのかは分からなかったけれど、空の見える露天風呂でゆっくりと手足を伸ばしていると、疲れが溶け出していく気がする。今夜も特別な着物を着て眠り、明日にはお見合いに備えた上質な衣を纏うことになるらしい。

 昨日までの虐げられていた対応が嘘のようで、美弥が神家と崇拝される神屋家の当主と見合いをするという話は、十二支亭中を駆け巡っているようで、今日は誰も美弥を殴らない。それだけでも、美弥にとっては落ち着ける。

 けれど。

「もし破談になったら、どうなるんだろう?」

 そもそも何故見合い話が来たのかも分からないが、ただの気まぐれかもしれない。きっと破談となれば、他の十二支の末裔家の面々は喜ぶのだろうなと美弥は思った。

 入浴を終えて体を拭き、美弥は大浴場を出た。

 すると正面から歩いてくる青年がいた。羊神の末裔家の次男である日辻朝霞ひつじあさかだとすぐに分かり、美弥は壁際に一歩逸れて、深々と頭を下げる。いつもならば、そうすれば十二支の多くの末裔は、嫌味を投げかけるか殴りつけてこない限りは、通り過ぎる。朝霞もいつもは通り過ぎてくれる方で、逆に時には美弥に対し心配そうに声をかけてくれることもあった。柔らかそうな髪をした青年だ。

「美弥くん」

 だがこの日、朝霞は立ち止まった。恐る恐る美弥は顔を上げる。

 すると柔和に口元をほころばせた朝霞が、小さく首を傾げて綺麗に笑った。

「お見合いをすると伺いました」

「は、はい……」

「神屋様ほどの貴人に目を留められたというのは、類い希なる誉れ。頑張って下さいね」

「ありがとうございます」

 必死で声を出す美弥に向かい、笑みを深めると、朝霞がそのまま歩き出す。痩身の麗人という表現が適切な、どこか艶のある朝霞は、美弥より八歳年上の二十七歳だ。いつも穏やかな物腰だと美弥は感じている。きっと心配して声をかけてくれたのだろうと、ほっと美弥は胸をなで下ろす。この十二支亭にいると、声をかけられるだけで、殴られるのでは無いかとびくりとしてしまうのが常だ。

 その後部屋へと戻った美弥は、この日は早く休むことにした。

 ベッドに入り、灯りを消す。

 すると窓から月明かりがのぞき始めた。白い巨大な月が、夜空をどこか青く見せている。冬の空に散らばる星々は、絵の具のようだ。

「明日、大丈夫かな……」

 ぽつりと呟いてから、ゆっくりと美弥は睫が長い目を伏せた。

 ――翌朝、美弥は用意された和服に着替えた。いつもの質素な無地の品とは異なり、黒地に牡丹の赤や橙と金の粉が舞う羽織、灰色の袴には、控えめに鶴の模様が入っている。紋は猫崎家の家紋が入っている。それらを身につけた美弥が部屋で待っていると、扉がノックされた。

「は、はい!」

「準備は出来たか?」

 入ってきたのは司だった。

 こちらはシンプルな無地の緑の紋付き姿だった。

「出来ました」

「そうか。十時から昼と夜を兼ねた会食という形で見合いは行うから、朝飯は我慢しろよ。遅刻しないようにそろそろ出る。神屋様のお宅までは、距離があるからなぁ。来い、既に馬車は用意してある」

 司はそう言うと踵を返した。慌てて美弥はその後に従った。

 そして十二支亭の玄関を通り抜けて、傘を差して池の横の路を歩き、門へと向かう。そこには司の宣言通り、大きな馬車が停まっていた。家紋は竜宮家のものである。四人乗りのようだ。

 御者が戸を開ける。

 司が先に乗り込み、美弥も傘を閉じておずおずとその次に乗り込む。中央には長方形のテーブルがあり、ポットとカップが置いてあった。

「それで?」

 馬車が走り出すと、カップに紅茶を注ぎながら司が訊いた。

「なにを話すかは考えてきたのかよ?」

「えっと……その……なにも……」

「あのなぁ。成功させる気、あんのかよ?」

 司が呆れた声を放ちながら、カップを一つ美弥の前に置いた。司は口こそ本当に悪いが、美弥のことも、“人”として扱ってくれるため、こうして紅茶だって振る舞ってくれたことが過去にもある。

 己の分のカップに手をかけた司は、一口の見込むとため息をついた。

「俺もまあ、付き添いとして色々考えては来たんだが……本日はお日柄もよく……と、言いたいところだが、雨だしな」

 それを耳にして、美弥は困って頭を下げた。

 実際今日は灰色の雲が空を覆っていて、先ほどからしとしとと雨が降っている。

「今から気まずいお見合いのビジョンしか見えん」

 司が不機嫌そうな声を放つ。そう言われてもと、美弥は困ってしまった。

「好きな食べ物とか嫌いな食べ物とか、そういう話題は振れるか?」

「え……ええと……」

「俺が適当に質問してみるから、答える練習をしろ。おどおどすんな!」

「は、はい……」

 美弥がおずおずと頷くと、深々とため息をついてから、司が問う。

「好きな食べ物は?」

「……好きな食べ物……」

 十二支亭にいると、残飯や生ゴミを食事だと言って皿に盛られて出されるため、ここのところめっきり食欲は減退していたし、ほとんど食べていなかったに等しい。無論、実家の猫崎家にいる時はそうではないが、咄嗟には出てこなくなっていた。

「はきはきしろよ!」

「ご、ごめんなさい……」

「そのすぐ謝るところも、俺はお前を鬱陶しいと思うんだよな、本当」

 はぁとため息を重ねてから、司が舌打ちする。美弥は萎縮して縮こまった。

「学園の頃は、給食にたまにチョコレートが出ると喜んでなかったか?」

「あ……」

 そんなこともあったなと、美弥は思い出した。

 しかしそれを司が覚えていたことが意外だった。

「うん。僕、洋菓子が好きです」

「だったらそう言えばいいだろ。嫌いなものはニンジンだろ。残してだろ、いつも」

「……よく覚えてますね」

「まぁな。俺と亮とお前は、藤波学園でずっと同じクラスだったわけだからな」

 亮というのは、音澄亮ねずみりょうという、鼠神の末裔家の跡取りだ。三人とも十九歳である。

「いくらお前が猫神の末裔って言ったって、俺達は仮にも伯爵位を賜ってる華族だぞ? 他の公家華族や武家華族より、ずっと家柄も古い。注目だってする」

 当然だという顔で、司が言う。

 そんなやりとりを二人が中でしつつ、馬車は進んでいった。

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