「美弥は、魚が好きなのか?」
「猫だからってこと?」
「含みは無かった」
美弥の言葉に、くすくすと晴斗が笑う。一般的に、猫は魚が好きだと、帝都では言われている。
「鯉は綺麗だと思うよ」
「そうだな。でも、美弥の方がもっと綺麗だ」
「僕が綺麗? 言われたことが無いよ」
「そうなのか? その方がいいが」
「え?」
「美弥が綺麗だと知っているのは、俺だけで十分だ」
晴斗がそう言って楽しげに笑ったので、美弥もやっと小さく口元を綻ばせた。晴斗といると、自然と気が楽になる気がした。体が自由になり、呼吸がしやすくなる感覚だ。十二支の家柄の関係者にも、このように話しやすく――話が出来る者がいたのかと、美弥は驚いてしまう。そう考えながら、美弥は池の水面へと手を伸ばす。
「ん?」
すると晴斗が、驚いたように声を上げて、美弥の手を取った。
「その手首の痕は? 赤黒くなっているが、手形のような」
「これは……、……」
午前中に腹部を蹴られていた時、思わずもがいたら、手首をきつく握られた痕だった。軽く捻挫してしまったようで、今も動かすと手首が痛い。
「貸してみろ」
晴斗はそう言うと、両手で美弥の右手首に触れた。
「痛むか?」
「っ」
触れられただけで、鈍い痛みがあるため、美弥は息を呑んでから小さく頷いた。
すると。
「?」
不意に晴斗の両手の間に、淡い黄色の光が生まれた。それは温かく、肌に触れる度に、痛みが楽になっていく。しばらく晴斗に触れられている内に、すっと手首から痛みが引いていった。
「痛みは取れたか?」
晴斗がそう述べて手を離すと、痕が消えていたものだから、美弥は目を瞠る。
「痛くない。痛くないよ……すごい」
美弥は驚きながら、手首を動かす。
不思議な力を持っていると理解し、十二支の末裔として、本当に晴斗は力を受け継いでいるのかもしれないと、美弥は考えた。
「美弥を助けられるならば、こういった力も悪くはないな。役に立った」
喉で笑った晴斗は、それから美弥の髪に触れた。
「一体誰が、こんなことを?」
「その……」
「正直に」
「……なんでもないんだよ」
「なんでもなくはない。だが、言いたくないのなら無理には聞かない」
「うん。僕は大丈夫。ありがとう、晴斗」
美弥は微笑した。晴斗の優しさに触れた気がしたからだ。すると儚く笑った美弥に向かい、晴斗が笑みを返す。そしてぽんぽんと叩くように二度、美弥の頭を撫でた。
「辛い時は、俺が聞く。だから、抱え込むな」
そう言ってから、晴斗は立ち上がった。そして空を見上げる。
美弥も立ち上がり、つられて空を見上げた。
そこには、晴斗の瞳と着物とそっくりな、青がある。冬の青空は、いつもより澄んで感じるから不思議だ。
「俺はそろそろ戻らなければ。また、な? 美弥」
「うん」
頷いた美弥は、微笑してから歩き出した晴斗を見送った。
それから右手の手首に左手で触れ、痛みが消えた患部を見る。
「優しい人だったなぁ」
そう呟くと、美弥の気分が浮上した。猫神の末裔であっても、分け隔て無く接してくれたことが、嬉しくてたまらなかった。
その日の夜のことだった。
美弥は
十二支の宴は、持ち回りで主催が変わる。その者が、次の年一年間の、十二支のリーダーとなる。来年は、辰年だ。そのため、この年末年始の宴のリーダーは、竜宮家の司だ。司は帝都の華族令息が通う
「久しぶりだな、二人で話すのは」
正面の上座に座っている司は、袴姿で腕を組み、ぎろりと美弥を睨むように見た。
司はなにかと意地の悪いところがあるので、美弥は萎縮する。
ただ、司本人から暴力を受けたことは一度も無い。口は悪いが、美弥から見ると司は、どちらかといえば優しい存在だった。
「お久しぶりです」
それでも敬語は崩さずに、美弥は頭を下げる。それからゆっくりと顔を上げると、司の切れ長の目と、視線がぶつかった。
「
「え?」
神屋家というのは、十二支を選んだ、主神の末裔とされる家柄だ。
「美弥を伴侶に迎えたいという話だ。そのために、まずは見合いがしたいと」
「えっ」
驚いて美弥は目を見開く。すると深々と司がため息をつく。
「既にお前の実家、猫崎家には連絡を入れた。断るのは無理だからな? 分かるだろう? 神屋様――神家の方には、十二支家の者は、反論なんかできねぇからな?」
「は、はい……」
「まったく。俺が幹事の時に限って、何でこんな……来年が辰年のせいだけどな。まぁいい。そういうわけだから、急ぎこちらで見合いの日程を整える。なるべく早くとのご希望だから、もうこうなったら年内に話を決めちまおうって思ってて、明後日! 十二月二十八日に、見合いの席を設けることにした」
「明後日……」
「おう。当日は俺も付き添ってやる。明日はしっかり準備しとけよ」
「準備って何をすれば……?」
「着物とかは竜宮で調えてやるから、まぁ、なんだ? コンディション? か? 適当に、休んで、適当に、会話する内容でも考えておけよ。せいぜい破談にならないといいな」
司の言葉に狼狽えつつも、その後退出するようにと手を振って促されたので、美弥はその場を後にした。
あてがわれている十二支亭の自室に戻った美弥は、ドアを閉めてから、しばしぼんやりとその場に立っていた。
「お見合い……? それも神屋の方と?」
不意な事態に、どうしていいのか分からない。だが、十二支と猫神の末裔にとって、主神たる神屋家の言葉は絶対だ。断れるはずもない。
「……」
これからどうなるのだろうかと、美弥は唇を引き結んで、ソファを目指す。洋風の家具は、まだ大正の世では珍しかったが、美弥は実家が取引をしているため、相応に慣れていた。ソファに座った美弥は、テーブルの上の急須に手を伸ばし、お茶を入れることに決める。湯は、そばに薬缶がある。その薬缶は不思議な力のこもる道具の薬缶で、いつもお湯が入っている。温度を保つ技法が込められた薬缶なのだと、美弥は聞いたことがある。十二支亭には、そういった不思議な品が多い。
こぽこぽと急須にお湯を入れてから、湯飲みに緑茶を注ぐ。
「僕が、お見合いかぁ……」
薄暗い室内では、美弥が呟いた声を聞く者は誰もいなかった。これが、美弥にとっての新しい始まりとなるのだが、美弥自身さえ、まだこの時は、それを知るよしもなかった。