――どうして、猫神の末裔に生まれたのだろう?
大正の世。
帝都でも名だたる名家がいくつかある。その中で、十二支の始祖神の末裔家とされる十二の家柄は、特に特別視されている。彼らは、年に一度、大晦日から年始にかけて、この十二支亭に集い、宴を開いている。
その時だけ、十二支に選ばれなかった猫神の末裔とされる、猫崎家にも誘いが来る。
断ることは許されず、美弥も父の代わりに、年の瀬の師走、この十二支亭へと訪れた。この宴が終わったら、それぞれの家の者は、十二支を取り決めた主神の末裔である神屋家へと挨拶に向かうと決まっている。その挨拶の日取りまでは、嫌でもこの十二支亭という古き良き和の香りが漂う旅館で、過ごさなければならない。それが、決まりだ。
「どうしてそんなに寂しそうな顔をしてるんだ?」
その時声がかかったものだから、驚いて美弥は顔を上げた。するとそこには、背の高い青年が立っていて、空色の紋付き姿で佇んでいた。
「あ……その……」
ふわふわの髪の色は、金色に見える。目の色は、空のように澄んだ青だ。
整った容姿のその青年を、美弥は初めて見た。ただ、この色彩はどこか既視感がある。
「……」
美弥は言葉が出てこない。
今年で十九年間、生まれてからずっと猫神の末裔として生きてきた美弥は、今もなお漠然と考える己の出自について、口に出す気にはならない。
そうすれば、嗤われるか、嘲笑を向けられるか。
選ばれなかった猫、鼠に騙された猫は、他の十二の家柄から馬鹿にされている。
この十二支亭にいるのだから、この青年も十二支の関係者なのだろうと判断し、美弥は口を噤む。
「そんなに沈んだ顔をしていては、愛くるしい顔が台無しだ」
「愛くるしい?」
「うん。猫崎の美弥だろう? ずっと部屋から庭を見ていたが、この宴が始まってこの方、美弥は一度も笑わないな。いつも寂しそうな顔をして、そこに座っている」
見られていたと知り、美弥は驚いた。
だが、無理に笑おうとしても、上手く表情筋が動かない。
「なにかあったのか?」
「……その」
そもそも誰かに、嫌味を放たれる以外で話しかけられたのが久しぶりだったため、美弥は返答に困る。第一。
――何か。
――何かが無かったわけではない。だがそれは、例年のことだ。
『招待されたからって図々しく来たのか、馬鹿な猫が』
『掃除くらいは出来るだろ?』
昨日はそう言って、頭から温い日本酒の入る徳利をひっくり返されて、ずぶ濡れの着物姿で、美弥は床を拭かされた。
『猫は本当に愚鈍だよなぁ』
『まぁ憂さ晴らしの案山子役くらいはできるか? あ?』
今日の午前中は、そう言われて散々腹部を蹴られた。
陰湿な虐め、それを猫崎の者は、他の十二支の家の多くから受けている。
父も同じだった。母は、美弥が物心ついた頃からいない。
時にはこの宴以外の時期にも、帝都にて他の十二支と交流がある。猫崎の家は貿易商を営んでいるため、父は特に何かと関わりがあるようで、出かけて帰ってくる度に、殴られてきたのだと分かる痕があるのも珍しくなかった。それがたたって、父は十月に体調を崩したので、今年は美弥が一人でこの宴へと訪れた。父は弟と家で体を休めている。
「美弥?」
「……なにも。なにもありません」
この青年がいずれの十二支の家の者なのかは分からなかったが、迂闊に話せば罰を受けるだろうと判断し、俯いて美弥は首を振る。猫崎の者には、人権がない。
そもそも猫神だ、十二支の始祖神の末裔だと、そう言うが、本当にそのような昔話が正しいのかを、美弥は知らない。見た目は、普通の人間となにも変わらないからだ。一説には、それぞれが不思議な力を宿していると言うが、美弥はそれを見たこともない。多くは、人間の血が濃くなるにつれて発現しなくなったからだと聞かされているが、そもそもただの民間伝承ではないのかと、美弥は考えている。
しいていえば、男同士でも子を成しやすいのは、特性かもしれない。一般的に、子供は男女の間で生まれることの方が多いが、男性同士でも女性同士でも子は成せる。ただしその確率が非常に低い。だが、十二支とそれにまつわる猫崎のような家柄は、男性同士でも女性同士でも、子供が生まれてきやすいと、美弥は聞いたことがあった。その中では、特に猫神や鼠神、兎神は、子を孕みやすいとさえ言われている。
「本当に?」
すると青年が歩み寄ってきた。そして屈むと、そっと手を差し出して、美弥の頬に触れた。突然のことに驚いて、美弥は目を丸くする。触れられた指先の温度は、とても優しい。
「話してごらん? 美弥の話が聞きたいんだ」
「……あなたは?」
美弥はまじまじと青年を見上げた。己よりも少し年上に見えるので、20代前半だろうと判断する。
「俺は……――
「晴斗さん……」
「晴斗でいい。呼び捨てで構わない」
そう言って晴斗は微笑した。形のよいアーモンド型の目に、とても優しい色が宿っている。通った鼻筋、薄い唇。どれをとっても端正だ。空色の和服も、よく似合っていて、背が高いのが分かる。
一方の美弥は、貧弱だ。華奢で色が白い。生まれつき筋肉がつきにくく、日焼けしても赤くなるたちで、十九歳になってもあどけなさが抜けず、美少年という方が相応しいような顔立ちだ。身長も、お世辞にも高くはない。もう少し体格がよかったならば、虐められても抵抗できただろうかと時々考えるが、それは困難だと判断している。逆らった場合、十二支の大切な家柄の者を傷つけたとして、糾弾されるのは猫神末裔家の方だからだ。そうなれば、父や家族にも迷惑をかける。
「晴斗……」
「うん。俺は、美弥は笑っている方が似合うと思うぞ」
「え……」
「だから辛いことがあったなら、なんでも聞く」
晴斗はそう言うと、美弥の頬から手を離し、目を細めて笑った。
そして美弥の隣にしゃがむと、池の中へと視線を向ける。
「鯉を見ていたのか?」
「はい」
「敬語も不要だ。俺は美弥に敬われたいわけじゃないんだ」
「……そう?」
不思議な物言いをする晴斗を一瞥してから、美弥は小さく口元をほころばせた。
宴が始まって三日目。
このように人間らしい会話をするのは、ここに来てからは初めてだ。