リルは気が付くと、たった一人で白く霞んだ家を見上げていた。
昔、母親と住んでいた場所と同じ形だ。甘い香りがしたため中に入ると、家の台所で白髪の女性が背中を向けて何かを摺り潰している。
『おかえり、リル』
母の声だ。
リルはこれは夢だと思うも、それにしては妙に感覚が鋭く現実味がある。少しして振り返った彼女は、リルの記憶の中とさして変わらぬ姿で微笑んでいた。
『もうちょっとしたら手が空くから、良い子で待ってるんだよ』
『……うん』
懐かしい椅子に腰掛けて馴染み深い後ろ姿を見守る。ついでに家の中を確認すると、彼女の記憶と全て一致してはいなかった。当時にはなかった形の食器や、最近になって流行りだした新しい野菜が籠に入っている。
『夢?』
『ううん、夢じゃないよ。現実でもないけれど』
『私はどうなったの?』
『眠ってる。貴女は疲れ過ぎちゃったから、暖かい砂の中でお休みしてる』
身体全体で何かをすり潰す作業が終わった後、彼女はそれを四角の型に入れて蓋をする。リルはそれが何であるかをすぐに理解した。型を暖炉の横に置き、上へ熱くなった炭を乗せてから、目の前の彼女――
彼女は両手で頬杖をつきながら、視線を上に上げて……今の自分の行動が嬉しかったようににっこりと笑う。
『久しぶりだね……背はまだお母さんの方が高いかな?』
『……元気にしてた?』
『うん、でもまだ一人には慣れてないかな。ご飯作る時もつい二人分作っちゃうことがあって……私の正体は聞いたでしょ? 百年以上も生きてきた中でリルと出会って、それから十年――いや、数年しか一緒に暮らしてなかったのに、その時の手癖がまだ残ってる』
『あの。膝の上に座ってもいい?』
『もちろん!』
リルは胸の中をくすぐられる心地に笑みを零しながら、大好きな母親の腿を椅子代わりにして座った。後ろから回った腕がお腹を包み、優しく受け止められる。砂の魔女は感極まった様子で声をくぐもらせた。
『おおっ……あんなにちっちゃかったリルが、こんなに大きくなって……お母さん嬉しいよ。もう前が見えなくなっちゃった』
『あれから色々あって、てんちょ……黒魔女さんのお店で働いてたんだ。厨房で、お母さんみたいに料理を作ってたの』
『それーっ、砂の噂で聞いたけど本当に驚いた。彼女も料理に興味があったなら少しは手を貸してくれて良かったのに。
『ソーン……?』
『ああそっか、まだ知らないんだ。じゃあいいや』
『あっでもお母さん、聞いて! 昨日、箒の乗り方を教えてもらったんだけど、あれ絶対お母さんが助けてくれたんだよね』
『ふふ……』
暖炉ではパチパチと火が上っている。
後ろから娘を優しく抱きしめていた彼女は、その質問に微妙な表情へ変わった。
『ちょっとだけね。でもそこからはリルの力だよ。……そんなことより!』
『へっ!?』
『お母さんは悔しいです! リルに箒の乗り方を教えるのは私の役目でしょ! むかーっ! あの黒魔女め、子育てのすんごく美味しいところだけを横取りしちゃって! 黒いのは見た目と住んでる場所だけにしとけってんだい!』
『あー』
『私は! リルと一緒に箒で飛ぶのが夢だったの! それなのにあいつはー!』
◆ ◆ ◆
……その頃、西砂漠に作られた騎士団の前線基地からは黒い竜巻が見えていた。馬を飛ばしてクローデットたちが辿り着くと、不審な影の監視に当たっていた兵士が敬礼をして後に報告する。
彼らは最初、黒魔女ヴァネッサの姿に目を丸くしたが、クローデットと一緒にいる姿を見て落ち着きを取り戻し、当初の業務に当たる。
「団長、わざわざありがとうございます」
「礼には及ばん。状況はどうなってる?」
「大型の飛蝗が群れを成して、嵐のように移動しています。……十八年前の砂魔女の時の記録から、今の状況に合致する文が見つかりました」
クローデットはある程度予想できていたのか、大して驚きはせずに腕を組んでじっと考え込み、後ろに立つ宿敵へ質問を投げた。
「ヴァネッサ、どう思う」
「想像通りね。クローデットは魔導工学を学んだことはある?」
「教養で少し本を読んだ程度ならば」
「だったら問題ないわ。……彼女は今、自力で"スイッチを切る"ことが難しい状況になってるの。消耗した身体を回復するために大地からエネルギーを取り込んでいるのに、彼女の身体からほぼ同量のエネルギーが漏れ出ている。それが
砂漠の砂が螺旋に巻き上がってバリアのように機能する中、周りでは飛蝗の群れが何十も蠢いている。
町の方角へ向かうものは騎士団の小隊が馬で囮を担い、別働隊が火球を吐き出す
それは「砂魔女」の厄災が城下町へ襲いかかることを示す。
「十八年前はどうしてたの?」
「文献では、砂漠にいくつもの前哨基地を作って環境生物を駆除し続けた。今居るここは当時作られたうちの一つだ。勢いが収まってから、少数精鋭の部隊を送り込んでようやく解決……とは言え、彼女を倒したわけでない」
「何があったの?」
「砂魔女は一人の騎士と恋に落ちた。それで戦う理由がなくなって……だが今回はそれに期待できそうもない。君の話だと、彼女は意識がないのだろう?」
話の中で解決策を組み立てる。
すぐに思いつくような強引な方策……リルの生死を問わない解決策は簡単だが、ヴァネッサがそれを選択できるわけがない。しかし、出来ることがないわけでもない。
「……まずは、あの煩い飛蝗共を抑えつけましょう」
「待て、ヴァネッサ。今の兵の規模だったら群れ二つ分が限界だ。連中は目に入るだけで何十ある、一つ一つ潰していたらきりが無い」
「別にいいわよ。私がやるから」
その言葉にクローデットが眉を上げた。
歩き出したヴァネッサは見張りを担っている兵士より前……野営地の外に立つと、遠くで群れている害虫の群れを見据えて呼吸を整えた。
「手伝うことがあるなら……」
「心配要らないわ、遠くで見てなさい」
黒魔女の手のひらには赤く燃え盛る炎の球が生まれていた。
彼女はそれを空へ掲げ、両手を使って火球の直径を育て上げていく。まるで、火を崇めて舞を踊っているように……。リンゴの大きさから始まったそれはカボチャより膨らみ、馬の太さを上回って空へ上った。
他の兵士と共に呆然と見ていたクローデットだったが、巨大化し続ける焔を前に彼女はこの後起こることを予見する。我に返った様子で叫ぶように命令した。
「総員、壁の後ろへ下がれ!」
"黒魔女"という名が付いた理由は主に三つある。
ひとつは、彼女が常に黒いローブと三角帽子を纏っているから。
もうひとつは、彼女は策謀と毒を好む「腹黒い」魔女であるから。
そして三つ目の理由は……
生まれた瞬間、辺りの森を焼き払って黒炭の世界を
「さあ……行くわよ!」
ヴァネッサの頭上に生み出された巨大な熱量体。
第二の太陽を思わせるそれは、「群れ」がひしめくど真ん中へ投げ込まれた。
――――黙示録だ。
目が眩むほどの閃光。火薬庫を一度に吹っ飛ばしたような爆音。地面が啼いて足元が不明になる程の衝撃。砂漠で行き場を求め彷徨っていた虫の殆どは一網打尽にされ、直撃を逃れた多くも熱と風を食らって霧散した。
その光景を目撃したクローデットは度肝を抜かれた様子ながら、どこか呆然と魅入った跡を引きずって、一仕事を終えた後ろ姿へ力の抜けた声をかける。
「ヴァネッサ、君は……」
彼女は平然と三角帽子を直し、最愛の人へ自慢するように振り返る。その顔には、自信と誇りに満ちたいかにもな笑みが浮かんでいた。
「私は黒魔女。王国史上、最強の魔女よ」