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10-6 ワン・ラスト・キス

 レイヴン・バーガーが咆哮に震えた。


 黒魔女ヴァネッサと対峙したクローデットは背中から真っ白な炎を上らせる。ブリアン家傘下の魔導技術が籠められた鎧は胸元へ鷲の紋章イーグルを浮かべ、大気中に残った魔力を取り込む圧縮機関として作用。彼女へ莫大な生命力と運動能力を供給する――。


だ! 二年間ずっと、この日を、待っていたんだっ……!」


 それはまるで、悲しみに狂う怪物のように。

 二度と戻らない時間の大河を乗り越えた"白騎士"は砲弾のように飛び出した。 


 籠手の中には透き通った剣が一本。ヴァネッサの魔法を吸収した鎧が、クローデットに反撃の刃を与えていた。

 正真正銘の"白騎士"となった彼女は、流星の如き軌跡を描きながら、長らく求め続けてきた宿命の相手へ身体ごと突き刺しに迫る!


「死ね! 死んでしまえ、ヴァネッサぁぁぁぁ!!!」


 がいん――

 決死の突きが弾かれる。クローデットは想定外の事態に驚きの声を漏らす。

 ヴァネッサは、盾のような類いは持っていなかったはず……何が起きたか確かめようと、剣を弾いたものを見た瞬間に唖然とする。


「な……」


 トレイだ。

 ヴァネッサの左手に、料理を運ぶときに使う木のトレイが握られている。

 近くに落ちていたそれは僅か一瞬のうちにヴァネッサの手元に引き寄せられ、彼女の魔力を流し込んで「エンチャント」されたのだ。硬度が極限まで引き上げられたそれは、およそ木材とは思えない強度でクローデットの攻撃を受け流していた。


「いいわ、そこまで言うなら……」


 ヴァネッサは――黒魔女は、攻撃を弾いた直後の隙を突いた。

 右手をかざし、手のひらに仄かな焔を上らせる。それはクローデットの胸部を至近距離で捉えていた。逃げられない!


「貴女を、支配してあげる!」


 爆発魔法。ゼロ距離で炸裂したそれは女騎士を弓なりに打ち上げる。

 だが、幸か不幸か、殺害を目的としないそれはクローデットにもう一度チャンスを与えていた。転がって俯せになったクローデットはすぐ立ち上がろうとする。上体を起こして魔女を睨み付け……


「……っ?」


 背中が上がらない。

 何か見えないものが、クローデットを上から抑えつけている。


「クローデット、貴女を殺しはしないわ。ゆっくりと時間をかけて、私好みの味に調えてあげる……私が特別扱いするのは貴女だけよ? リルに手を出したことも、私に刃向かったことも、全部なかったことにしてあげる。もう終わりにしましょう」


 冷酷かつ、恍惚とした声色でヴァネッサは投降を呼びかける。彼女の右手はクローデットへ伸び、自由を奪う魔法の触媒となっていた。


 魔女の力に耐えきれず、鎧の一部が音を立てて変形する。

 しかし、それでもクローデットは諦めない。歯を食いしばって顔を上げた。


「跪いて、私に忠誠を誓いなさい、クローデット。私の大好きな人……」

「このような小細工で……私が折れると、思うな……!」


 床に突かれていた右手がひっくり返る。

 火球――魔力を宿した籠手が、ヴァネッサを真似るように作り上げていた。


「それは――」


 反撃。黒魔女への意趣返しも込めて放たれる一発。

 それは、本家本元の鴉と比べれば雛鳥でしかなかったが、ヴァネッサの不意を突くには十分。ほんの僅か、注意が逸れる一瞬の隙を生み出した。


 ヴァネッサが火球をトレイで防ぐ次の瞬間、自由になったクローデットは落ちていた鋼鉄の剣を拾い上げる。そして肩いっぱいに振りかぶり、鋼の一閃を投げつけた!


「食らえ――――!」

「小癪な真似を……!」


 鎧を通した魔力で剛刃化した刀身は、鋭く尖った一点でトレイへ叩きつけられる。


 目には目を、刃には刃を。

 極限状態で放ったクローデットの一撃は、できあいの盾を四つに打ち砕いた。


「私は待っていた……ずっとだ! 来る日も来る日も、黒魔女の再来を待ち望んでいた……! 貴様と、こうして決着を付けるためにっ――!」


 獣のごとき突進。

 ヴァネッサはすぐさま風魔法で吹き飛ばそうとするが、クローデットはそれを察知したようにテーブルの陰へ転がり込む。


「それなのに貴様は、こんなところでぬくぬく"家族ごっこ"か! クソっ……!」

「ごっこじゃないわ! 私とリルは"家族"よ!」

「冗談じゃない! それじゃあ……それじゃあまるで……!」


 テーブルが宙を舞った。

 ヴァネッサは一瞬だけ愕然としたが、すぐに自分へ迫る物を空中で静止させる。


 だが――自らを守ろうとした、そこにほんの僅かな間隙が生まれていた。

 それは、クローデットがずっと求め続けていた一瞬。

 二年間、数多の苦痛と苦悩に耐え続けた彼女が、見逃してくれるはずがない!


「しまった……」


 白き怪物が咆えた。

 僅かの間にゼロ距離まで近付いたクローデットは、白銀のオーラを纏った拳を振りかぶる。鍛えられた身体能力、魔力による増幅、全てが一点に収束する――!


鹿っ……!」


 チェックメイト。

 執念の一撃はヴァネッサの胸部を確かに捉え、三日月の軌跡に飛ばした。


「かはっ……!?」


 攻撃を真正面から食らった彼女は後ろへ突き飛ばされ、宙に浮いたまま店の窓ガラスを粉微塵に割り散らす。

 全てがゆっくりに感じられた……

 やがてすぐ、噴水広場の石畳に叩きつけられ、勢いのままに何度も転がった。


◆ ◆ ◆


 ……透き通るような青空が広がっている。

 俯せに倒れたヴァネッサは膝をつくが、すぐに立ち上がれない。


(そんな)

(この私が、負けた……)


 咳が出る。口から黒い血が噴き出す。

 太陽の下で顔を上げると、周りには騒ぎを聞きつけた人々が集まっていた。

 孤独だった。クローデットの心は得られず、城下町での潜伏もバレてしまった。


 完全敗北。ヴァネッサは、自分が欲しいと願った物を全て失ったのだ。ひどく惨めな自分に耐えきれず、両手を握りしめながらインクのような涙を流す。


 ぎい、と戸が開き、ふらついた足取りのクローデットがゆっくり出てきた。彼女は倒れたままのヴァネッサへ一歩ずつ迫る。手には剣が握られていた。

 それは日の光を受けてきらりと輝いた。ヴァネッサは立ち上がろうとするが、身体能力の回復が追いつかず、両膝を突いて動けなくなってしまう。


「……もう、いいわ。全部、どうでもよくなっちゃった」

「まだ、何か、あるんじゃないのか」

「何もないわよ。貴女が私のものにならないなら……何をしても、意味がない」


 瞳からは一切の光が消えていた。彼女は、変わり果てた想い人をじっと見据えながら黒い涙を流し、自暴自棄の笑みを浮かべていた。

 直後、がしゃりと音を立てて鎧が崩れ落ちた。

 ヴァネッサの正面で、クローデットも力尽きたように膝を折っていた。


「クローデット……?」


 這うように近付いて呼びかけるが、微かに息をするだけですぐに返事はない。

 彼女はヴァネッサの顔をじっと見つめながら、持っていた剣を落としてしまった。


「一発殴ったら……すっきりしてしまった」


 掠れるような声で、そう言って……クローデットはヴァネッサへもたれかかるように倒れた。


 彼女の身体には力が残っていなかった。

 纏っていた鎧からも魔力は消え、精根尽き果てた女騎士は身動き一つ取れない。


「ずっと、騎士とは何かを、考えていた」

「……聞くわ」

「今の騎士団は、月が巡る度に何らかの予算を減らされている。魔女がいないからだ。金が無ければ騎士は食っていけない、だが金を得るためには魔女が要る……! そして、魔女が出てきたら、我々はそれを倒さなければならない……」


 怨嗟――。


「私は騎士団に入ってからずっと、その矛盾の中で生きてきた。答えなんてない。そこへ来たのがお前だ。お前のことを考える間、私は息をしている実感があった。だが、あの時の一騎打ちで、お前はいなくなって……騎士団長になっても、私はずっと苦しい暮らしを続けた。日常に戻ってしまえば、また、矛盾に苛まれる」

「……」

「だから、ジラード邸で、血のついたカラスの羽根を見つけて、嬉しかった。うれしかったんだ……。手紙も読んだ。綺麗な字を書く人だって思った……どうして、我々はこんな立場で生まれてしまったんだろうな?」

「…………」

「私は、お前を殺したくないんだ、ヴァネッサ……。お前がここで死ぬなら、私もここで終わりだ。こんな私には、皆の上に立つ資格なんてない」


 クローデットは、初めて声をくぐもらせていた。ヴァネッサは失意の人を抱きしめながら、自分より何回りも短い人生を苦悩に生きた、彼女のこれまでを想った。

 齢143歳の魔女の最初で最後の恋は、たった二月と少しで「劇的な結末」に辿り着こうとしている。あまりにも短く苛烈な日々だった。何年も土に潜っていた蝉が、地上で騒々しい七日を過ごしてから生涯を終えるように。


 ヴァネッサは、クローデットに見えるように手をかざした。

 そこには、暖かな炎の光があった。


「わかったわ。一緒に死にましょ。誰も追いつけない場所へ、一緒に……」

「……たのむ」


 じっと、二人の視線が絡み合った。

 そしてほんの一瞬……その唇を、優しく触れ合わせた。


「クローデット。貴女となら、きっと冥府でも暇しないわ」

「そうに決まっている」


 炎が大きくなる。それはやがて、風と魔力を宿して爆発に変わるだろう。

 二人を呑み込むための小さな魔法。そこへ――


「――もうやめてください!」


 二人のやりとりをずっと見ていた少女が、狂気の舞台へ待ったをかけた。

 リルは店の入口で座り込んだまま、もはや戻ってこないことが確定してしまった日常を想って泣きじゃくっていた。誰よりも強い感情で、誰よりも大きな声で腹に溜まったやりきれなさを声に変え続ける。


「まだ、きっと、やり直せます! 前みたいに、なにもなかったように、にっ……! もとどおりに、なって……」


 あまりに悲痛な叫びは二人を正気の淵へ引き戻す。ヴァネッサは、娘のように可愛がっていた少女を自分が泣かせたのだと気が付いた。しかしもはやどうにもならない、黒魔女の物語はここで終わるのが綺麗なのだ。


 ――だが。

 リルの周りに、不穏な風が吹いた。


「いや……なんで、こんなことに、なっちゃったの……」

「リル?」

「もういや! ぜんぶ、ぜんぶ、どうでもいい……お母さん……!」


 何かを察したヴァネッサが地面を這うように迫ろうとするが、次の瞬間、少女を中心とした旋風が吹いて身体を巻き上げられてしまった。


 それは一陣の砂嵐。

 群衆の上を抜けるように空へ上ったそれは、砂漠の方向に向かっていった。リルの姿は消えている。彼女がいたところには少しばかりの砂山が残るだけだ。


「そんな。リル、貴女、まさか……」

「今のは……」

「クローデット様!」


 周りに集まっていた群衆をかき分けるようにして黒髪の女将校――ベアトリスが駆け込んでくる。あまりに切迫した表情だった。彼女は黒魔女の姿へ変わったヴァネッサを見て驚きながらも、それどころではない様子でクローデットの前に跪く。


「西砂漠から報告です。飛蝗ばったが……群れを作っています! このままだとあれは街を襲い、食べ物という食べ物を全て食い荒らします……!」

「何だと?」

「既に西方部隊は群れの気を逸らすために動いてますが、とんでもない数です。今すぐ人々を避難させてください!」


 クローデットはそれを聞いて目を見開いて、黒魔女を見た。体力の戻ったヴァネッサは彼女の元に向かうと鎧へ手をかざす。


 それは、もはやただの鋼鉄と化していたが……手のひらから魔力が供給されると白の輝きを取り戻した。それはクローデットの生命力、ひいては血潮へ変換される。


「ヴァネッサ……」

「あの子は砂魔女の娘。彼女のエネルギーが、砂漠の生物を極度に活性化させたのでしょう。クローデット。残念ながら、続きはこれが終わってからよ」

「――ああ。そうしよう」


 リルの消えた空を見上げる。ヴァネッサの頭には、かつての文通友達の姿があった。彼女とその娘が仲睦まじく戯れる光景を想像して、深く溜め息をついた。


「手が掛かる子ね……育ての親として、あの子に"躾"をしなきゃいけないわ」

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