西砂漠のオアシスに立つ家屋の影で、ヴァネッサが箒を指さしていた。リルはそれを少し離れたところで見つめている。
「本当はもっと体系立てて教えたかったのだけど、今日は時間が無いから大事なことを一つだけ教えるわ。この魔法が使えるようになれば、貴女は正真正銘の"魔女"になる。"魔女の娘"じゃなくてね」
「わかりました。お願いします」
「いいわ、始めましょう。まずは目を閉じて、砂漠の風を感じて。箒を持ち上げてみましょう……」
目を閉じたリルは、ヴァネッサに言われるがままに「砂漠」のありのままを感じようとした。遠くで吹き上がる風の音、流れる砂が擦れる音、遠くで鳥が鳴いている音……そして、肌を茹だらせる熱気と彼女自身を支える大地。頭が勝手に作っていたイメージを、身体で感じた本当の大地の姿へ書き換える。
何か大きなものがリルへ話しかけようとしていた。身体の周りが柔らかな布を被ったように熱を持っている。
「ちょっと怖い、かも」
「大丈夫よ、貴女は砂魔女の娘。砂漠は貴女を知っているはずよ……」
リルは、身体の前へ片手を出して手のひらを下へ向ける。
風が吹いている感覚があった。それを少しずつ、丁寧に手元へたぐり寄せるように……小さな火を大切に大きくするように、身体で感じられる世界の境界を広げていくと――
『リル、大きくなったね』
砂風の中に、大好きな人の声が聞こえた。
目を開く。その瞬間、彼女を中心につむじ風がぐるりと吹いた。髪がふわりと舞い上がると共に足元では円の文様が波打ち、彼女の掌に箒が吸い寄せられていた。
物を浮かせることができた。身体中に、痺れるような力が満ちている……
足の裏を通じて大地と身体が一本に繋がった心地だった。決して枯れない水が湧き出すような無限の気力が
「……できた」
「素晴らしいわ、飲み込みが早いのね。それじゃあ早速飛んでみましょ」
ヴァネッサは先程森で教えたように箒の乗り方を指導し始める。リルは腰の高さに浮かせた箒へ跨がり、両脚で地面を勢いよく蹴って空へ躍り出た。
一度できるようになれば、こんなに簡単だったのかと驚くようになる。
ひとたび魔法の感覚を掴んだ後、辺りが痺れるような力で満ちあふれていたことに気が付いた……怖れることを忘れたリルは自分でも恐ろしいほどに平穏な心で青空をひっくり返す。
不安よりも、驚きよりも、今の自分には何が出来るんだろうという探究心が彼女の目を開かせている。
世界はこんなにも輝いている。
初めての「自由」を謳歌するリルの横にヴァネッサの姿も浮き上がった。それはかつて失意に苛まれた少女が一人の「魔女」に成長したことを示す光景でもあった。
「どう? 自分で空を飛んだ感想は」
「お母さんも、この景色を見てたんでしょうか」
「そうかもしれないわね」
「もう少しだけ一緒に飛びませんか。もう少しだけ、二人で……」
午後の日は既に傾いている。素晴らしい時間がいつまでも続かないことを恨みながら、それでもこの残り僅かな時間を楽しもうと箒で砂漠を疾走する――。
◆ ◆ ◆
それから二人は空が赤く灼けるまで砂漠を飛び続けた。だがいつまでもこうしていられるわけではない。明日は
箒で「黒の森」の住処へ帰って北門まで歩く。空の色は藍を超えた黒へ変わっており、静かになった街並みを通って「レイヴン・バーガー」へ戻った。店の入口には、記念に持って帰った砂魔女の箒が立てかけられた。
「さて、明日は本番よ。今日はもう終わり。休みましょう」
「……そうですね」
二階で着替えている間、リルは冴えない顔をしていた。ヴァネッサはそれでも余裕を失うことなく微笑みながら椅子に座っている。机に向かって羽ペンを流し、誰かへの手紙を書き終えたようだった。
ヴァネッサはベッドへ向かおうとするが、リルは着替えを終えても立ったまま動かない。何か深刻なものを無視できない、鬼気迫った顔で涙を堪えていた。
「大丈夫よ」
「大丈夫じゃ、ありませんよ」
「あなたはもう一人の魔女。自分で考えて、これが良いって思ったらその道を行くの。誰も貴女の心を曲げられない……私でさえもね」
明日何が起こるかを予知しているような言い方にリルが黙り込む。ヴァネッサは彼女を後ろから優しく抱きしめた。言葉よりもずっと大きな何かが少女を優しく包み込んでいた。
「貴女は立派になったわ、リル」
「そんなこと、言わないでください。私はそんな立派な人じゃありません……それに、そんな言い方だと、まるでお別れみたいじゃないですか」
「そうね。まるでお別れみたいね」
「もしかして、最初から、全部……」
何かを言いかけるも、後ろからヴァネッサがリルの口を柔らかく手で塞いで喋れなくさせてしまう。
「私は何も知らないわよ。何も。このまま、普段通りにクローデットを迎えるわ」
「……」
「さあ、もう遅いから寝ましょう。夜更かしはいけないわよ」
ヴァネッサはそう言って離れると、キャンドルの火を消して布団の中へ入った。リルは立ち止まったままじっと俯き、月の光が差す中、小さな声で言った。
「あの」
「どうしたの」
「今夜だけで良いです。……"お母さん"って、呼ばせてください」
闇の中でヴァネッサは天井を向く。
そして、目を閉じて長い息を吐き、布団の端をめくった。
「いいわよ。――おいで、リル」
床の板が軋んだ。胸から湧く衝動を抑えきれないように足が出る。リルは吸い込まれるようにベッドで横になると、同じ布団の中でヴァネッサに真正面からすがりついた。
小さな声で「お母さん」と漏れた。
嗚咽と震えの中に、どうしようもないやりきれなさが混ざっていた。
「お母さん」
「なあに?」
「お母さんのことっ……大好き、だからね」
「私も、貴女のことがとっても大好きよ、リル……」
「えへへ……」
リルはとても安心した様子で、穏やかな眠りについた……
◆ ◆ ◆
朝になって目が覚めると、リルはひとりだった。
寂しさに襲われながらもすぐにベッドから出て着替えを済ませ、階段を下りて一階に出る。すると、油の良い香りが厨房から漂ってきた。
「おはよう。朝ごはん出来てるから、今のうちに食べちゃいなさい」
「……うん」
カウンターには玉子サンドの乗った皿と水が置いてある。
お腹を空かせていたリルは丸椅子に座ると、こんがり焼けたトースト部分を持って大口でかじりついた。しゃくり、と音がするとすぐに中の柔らかな玉子が舌へ流れ落ちてくる。
もうすぐ、店には
店先には「本日貸し切り」の張り紙がなされ、二人の間にも会話は殆どない。
「店の物は全部、いつも通りのところに置いたわ。……
「うん」
話したいことなど沢山あるはずだった。でも、それを頑張って話題に出してしまうと、まるで今食べているのが最後の食事になってしまう気がしてならない……リルは一口一口をしっかりと味わいながら、時間をかけて咀嚼して飲み込んだ。
レイヴン・バーガーの準備は整った。
来る。