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10-2 面影

 優しい夢から覚めたリルは、ベッドの横で膝をついたヴァネッサが、穏やかな表情で自分を見下ろしていることに気が付いた。


 身体を起こす。先程まで彼女が向いていた作業台の上に一本の箒が見えた。形と長さの揃えられた先端部分には非常に繊細な加工が施されており、実用性もさることながら、壁に掛けておくだけで絵になるような美しさも兼ね備えている。


「リル、おはよう。ちょうどさっき終わったところよ」

「あれは、箒ですか?」

「ええ、見ての通り。でも、貴女が考えている使い方はしないかもね」


 よく分からない様子で首を傾げるリル。

 ヴァネッサは箒を手にすると、このまま外へ出るように促した。


「見てて、リル」


 森の天井が開けた場所で、ヴァネッサは箒を軽く前へ放り投げた。

 それは本来下へ落ちて転がるはずが――彼女が人差し指をすこし動かすだけで空中にぴたりと留まり、彼女が操るままに宙でくるくる回った。


 ヴァネッサが実際に「魔女」である様子を目の当たりにして……リルは驚いたように口を開け、キラキラと輝くような笑顔になる。

 かつて策謀の間で擦り切れ、忘れられていた少女のときめきが蘇った。


「わぁ……!」

「ふふっ、まだ驚くには早いわよ。二人でこれに乗りましょ」


 箒を腰と同じ高さに据えたヴァネッサは試しにその上へ跨がってみせ、リルにも後ろへ来るよう手で示した。彼女は恐る恐る同じように跨がってみる。

 二人を乗せた箒は、まるで見えない力で突き上げられているように動かない。


「リル、私にしっかりと掴まって」

「はいっ」


 言われた通りに後ろからヴァネッサに抱きついた後……ぐらり。リルは、自分の身体が持ち上げられる奇妙な感覚を得た。下を見ると同時につま先が地面をかすめる。そうして、箒ごと二人の身体が空へ上がっていった。

 浮いている……!

 リルは落ちないよう必死にヴァネッサへしがみつく。直後、二人で一緒に前傾姿勢になると箒の先端が上を向いた。


 ぐわん、とリルの視界に空が入る。

 二人を乗せた箒は徐々に加速して、いっぱいに広がる青空へ飛び出した。


「わぁ――――!」


 どうしても怖くて目を瞑ってしまうリル。じっと耐えている内に「黒の森」の天井を抜け、辺りが透き通るような色彩で開けた。


 姿勢が安定してから、恐る恐る目を開く。

 先程まで二人がいた森の先に黄金の砂漠が広がっていた。左を見れば遠くには王国が見えるが、自分たちが出てきた北門が豆粒のよりもずっと小さく見える。

 壮観な風景の美しさに恐怖を忘れたリルは、感嘆の声を漏らしながら下の景色を眺めていたが……上を見れば、今度はどこまでも続くような空が待っていた。とびきりの笑顔でヴァネッサの背中に顔を寄せたリルは、今までの悩みも不安も全て吹き飛ばすように喜びを爆発させる。


「すごいっ! 本当に、すごい!」


 矢のように空を切り裂く二人。

 向かう先は西砂漠――かつて「砂の魔女」が住んでいた場所。周りの空気が乾燥し始め、質量を持ったような熱気が塊のように迫ってくる。


「貴女のお母さんが生まれた場所に行くわ! あそこ!」


 ヴァネッサが叫ぶのに合わせてリルは首を伸ばし、砂漠の中に浮かんでいる小さなオアシスを見つけた。湖を囲うように生えた木々の傍に石造りの家屋がぽつりと建ち、何かを飼っていたような柵も残っている。

 ふわっと身体が浮くような感覚――箒はゆっくりとオアシスの中へ下り、二人はしばらくぶりに地に足着ける。


 リルはしばらくその場に立ったまま空を見上げていた。

 自分は今、あそこを飛んでいたのだという事実を静かに噛みしめている。


「……ちょっと、怖かったかもです」

「でも良かったでしょ? 魔女は遠出をする時、皆これに乗っていくの」

「じゃあ、私も練習したらできるようになりますか?」

「ふふっ、当然よ。貴女は"魔女の娘"なんだから」


 あらためて周りをぐるりと見渡してみる。

 オアシスの外は全て背の高い砂丘に覆われていた。斜面を見ると風で砂が吹き流れている。草木もごく希に立ち枯れた細い木が見える程度で命の気配は薄い。


 そして、身体の中に熱いエネルギーのようなものが入ってくる感覚もあった。これは決して日の光で温められているからではない。何か、目に見えない大きなものがリルに内側から力を与えているかのようだ。


「あつい……」

「中に入りましょ。このままだと干上がっちゃうわ」


 残されていた小屋に入った。

 日干しレンガで組まれた中へ入ると暑さは随分楽になる。乾燥した木の扉を開けた先には、ベッドや机、本棚などがずっと残されたままだった。

 主を失った家はしばらく手入れされていないようで、ヴァネッサはここへ来る時に使った箒で侵入した砂を外へ掃きだしている。リルも家の中でもう一本箒を見つけてそれを手伝った。


「そこの棚に料理の本があるの、分かる?」

「えっと……はい。こっちは魚料理の本で、こっちは……あっ!」


 掃除の手をやめたリルは本棚へ手を伸ばし、砂埃を被っていた本を一冊取り出す。古びた装丁には「よくわかる家庭料理 第2版」と書かれていて……ページをめくっていると、栞代わりの蛇の抜け殻が挟まっていた。


 そのページは、リルの大好きなキャロットケーキのレシピを記したページ。

 分量も、作り方も、あの時の思い出と全く同じだった……


「お母さん、本当に料理が、好きだったんだ」

「ええ。彼女は必要な物を定期的に町から買ってたわ。料理は、砂の魔女サンド・ウィッチにとっては贅沢だったの。こんな砂漠だもの、牛も魚も、本でしか見たことがなかったでしょうね……」


 本を閉じ、ぎゅっと抱きしめてから元の場所へ戻す。

 掃除を続ける中で、リルはヴァネッサの家には無い設備を見つけていく。トカゲやヘビを吊しておくための梁、部屋の湿度を保つための水壺、土の入った植木鉢と肥料袋……


 リルの思い出の中、砂の魔女が台所に立つ時はいつも笑顔だった。それはもしかしたら「料理すること」そのものが楽しくて仕方なかったのかもしれない。


(お母さん、本当にここで暮らしてたんだ)


 母親の生活の痕跡に触れている中、リルはどうしてかがどこかで見守っているような感覚を覚えていた。砂漠の真ん中にあるこの場所が過酷であることは言うまでもない。ただ、この場所に居ると「自分が一人でない」気持ちになれる……ここはリルにとって心の故郷になり得る場所だ。


「ありがとうございます。ここに来られて、本当に良かったです」

「……まだ時間が少し残ってるわ。リル、もうちょっと遊んでいかない?」

「何をするんですか?」

「それよ」


 ヴァネッサは、リルが手にしている箒を指さした。


「最後に、それの乗り方――魔法を、教えてあげる」

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