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10-1 魔女の家

 クローデットとの「会食」前日の朝。

 静かな朝食を済ませた後、ヴァネッサとリルは足が自由な格好で外へ出た。

 向かったのは城下町の北門。壁の外へ出た後、行商の馬車が通る太い道に沿って"黒の森"へ入る。


 何層にも覆い被さる木々の葉の下、細い道を何度も枝分かれした先で妙に空いている広場へ出た。一見して草木が生い茂るようにしか見えず、ヴァネッサが立ち止まりでもしなければ、何かがありそうな違和感にすら気付けない。


「リル、ちょっと耳を貸して。――――」


 それが何の言葉か分からないうちにリルの視界が明るくなり、目の前に一軒の小屋が姿を表した。透明な布をかけられていたようなその建物は古く、木々のあちこちには黒ずんだ汚れが付いている。


「これは……?」

「私の家よ。さっきの呪文であなたにも見えるようになったはず。中に入って」


 自然の中でひっそり佇む家屋へ入る。

 窓から差す光が見せたのは、長い間ヴァネッサが一人で使っていた魔女の部屋。石畳の床には儀式を想像させる文様のついたカーペットが敷かれ、あちらこちらには魔導書や調合道具の類いが置きっぱなしになっている。奥の作業台の前に立ったヴァネッサは落ち着いた笑みでリルへ声をかけた。


「少し時間を頂戴。しばらく使っていなかったから、ちょっと手入れしなくちゃ。好きなところで休んでていいわよ」


 黒魔女が何十年、百年と過ごしてきた家には不思議な匂いが満ちていた。それは何かを料理した時に香るようなものではない、ヴァネッサ本人の匂い。長い年月を経て染み込んだ形のないものが部屋全体から包み込もうとしている。

 ヴァネッサはしばらく作業台を向いたままだ。リルはベッドを見つけると、そこに薄く乗っていた埃を落としてから横になった。


(あ……)


 とても優しい布団だった。寝不足気味のリルはすぐ昼寝に入った。


◆ ◆ ◆


 ……遠い日の記憶が、リルの夢になって蘇った。


 これはまだ少女が幼かった頃の話だ。彼女の母親は家に居ない日も多く、その間は別の人がまだ小さなリルの世話を担っていた。

 だが、沢山の人から見守られて育ったリルにとって、自分の母親という存在はやはり特別なものだった。小さな頃に出会った人々の顔は記憶から抜け落ちても、母との大切な思い出だけはハッキリと覚えている。


『おかあさん、おかえり! おやつつくって!』

『はいはい、わかったからちょっと待っててね』

『はーい!』


 リルは、家の台所から漂ってくる甘い香りが大好きだった。それは甘くて美味しい食べ物を作っている時の香りでもあるし、家に母が居る時の香りでもあった。


『むこうで、どんなごはん作ってたの?』

『じゃあ、できるまでしちゃおっか。昨日はね……』


 "お母さんは騎士団の料理長である"。リルは最初その意味がよく分かっていなかったが、色々な人から彼女の評判を聞く中で、それがとても凄いことだと理解するようになった。


 食堂にはたくさんのお腹を空かせた騎士がやってくる。普通の人よりもずっと多く食べる人たちを満足させるために大量の美味しい食事を用意しなければならない。そのために多くの料理人が働く中、彼らを一手にまとめ上げるのが料理長……かつて「砂の魔女」と呼ばれた女性だった。


『ええーっ、おさかなハンバーグ!?』

『海で小さな魚がたくさん取れちゃったの。それをなんとかしてくれって言われて、厨房のみんなで一生懸命ハンバーグにしたんだ。……すっごく大変だったけど』


 好奇心に駆られたリルは一生懸命背伸びして作業台の上を見ようとしていた。だが、まだ小さな彼女ではあと少しが届かない。それを案じた母は作業の手を止めると、家の隅に置いてあった空の木箱をひっくり返して足場ステップにした。


『どう? 見える?』

『見えた! わああ、なにこれ……!』


 作業台の上では、甘い香りのするクリーム状の何かがボウルでかき混ぜられているところだった。近くには目に鮮やかな色のニンジンが一本転がっている。


『おかあさん、なにかてつだうことある?』

『ううん……じゃあお野菜をすり潰してもらおうかな。ちょっと力がいるかも』

『やるっ!』


 そうして幼いリルは、半分に切ったニンジンを握るようにして持つと、その断面を凸凹した板へ押しつけるようにしてすり潰し始めた。

 身体の小さな子にとってはそれだけでも重労働だ。

 母は決して急かすことなく、娘の頑張っている姿を見守りながら微笑んだ。


『ゆっくりでいい、ちょっとかっこ悪くてもいいよ。料理で大事なのは、食べてもらう人が喜ぶように心を込めることだからね』

『じゃあ……おかあさんのことかんがえる』

『もーっ、こんなにかわいくなっちゃうんだから……』


 そうして、時間をかけてすりおろした後は、目の高さを合わせるように見つめながら頭を撫でてくれた。材料を混ぜた後は四角い型へ流し込んで、暖炉の近くでしっかりと蓋してしばらく置いておく。


 頃合いになると、焼けた生地の香ばしい香りが上ってくる。完成したおやつを二人で食べながら、昔話や騎士団での思い出話で家族の時間を過ごしていた。リルはその時間が大好きだった。



 キャロットケーキ。リルが料理人を志した原点の料理。

 決して忘れることのない、母の味。

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