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9-7 ハッピーバード

 友達と一緒に食事をしに来たつもりのリルは、ヴァネッサが倒そうとしている人物……クローデットの策に嵌ってしまっていた。逃げようにもベアトリスが身体をしっかりと押さえ込んでいるため身動きが取れず、他の席に座っている客も何故か、彼女たちと示し合わせたかのようにリルには見向きもしない。


「久しぶりだな、リル」

「なん、で」

「そんな顔しなくても良いだろう? お母さんの手紙を渡した仲じゃないか」


 クローデットの大きく開いた目は、まるでこれまでの恨みつらみ全てを目の前の少女へ向けている様子だった。これまでで最も恐ろしい表情だった。激昂することなく、悲痛に沈むことなく、よくできた自動人形オートマタのように顔色一つ変えず立ち続けている。


「丁度ここに来てみたら知っている人が居たからな。声をかけてみた」

「ちがう。うそをついてる……」


 リルが必死に走らせた推理は最悪の結果へ辿り着く。

 この店の客は最初から、リル以外の全員が騎士団の関係者だったのだ。そして彼女が逃げられないようにベアトリスが一芝居打ってリルを拘束し、それからクローデットが接触を図ってきた。


 何のために? 当然決まっている、ヴァネッサや店の情報を聞き出すため……


「私とお話をしてくれないか。『レイヴン・バーガー』のリル」

「いやっ……!」

「……困った子だな、まあいい。ベアトリス、そのまま押さえててくれ」


 クローデットは自分の傍に置いていた水を取ると、それをリルの唇につけて飲ませようとした。リルが不穏を察して渋ろうとすると、今度は彼女の鼻をつまんで呼吸を封じ、そのまま無理矢理に喉へ通してしまう。

 少女は一生懸命に逃げようと暴れるが、ベアトリスに力で勝てるわけがなかった。友達が尋問まがいのことをされている中、彼女は女将校の顔でにっと口の端を上げて耳元で安心させるように囁きかける。


「これで、私とだね。リルちゃん」

「……!」


 ベアトリスの言葉を聞いたリルは自分が何を飲まされたのかを知ってしまった。クローデットは彼女の顔を覗き込んで満足げに微笑むと、顔の高さを合わせてから穏やかな表情へ切り替わった。

 先程までの威圧的な風貌からはまるで別人だった。同じ人間がここまで表情を使い分けられるのを目の前で見せつけられて、リルはもはや声も上げられない。


「騎士団の薬品庫にあったものだ……毒ではない。効果は君も知ってるんじゃないのか? だが……まずは謝らないといけないな。本当にすまなかった。しかし私にも事情がある。君に手伝ってほしいことがあるんだ」


 小さな身体の中を、甘く暖かな蜜がゆっくり下りていくのが分かる。リルは既に自分が正常な判断が出来ないことを悟っていた。何も話したくなかった。何かを話すことはヴァネッサを裏切ることになってしまう。


「リル……私は、君の店の店長が、魔女ではないかと疑っている」


 背筋が凍り付く。クローデットの手がヴァネッサのすぐそこまで伸びていたことを、リルはその時初めて知った。


「そして、君はもしかしたら何か知っているかもしれない。もしかしたら魔女に脅されているかもしれない。もしかしたら……"何か悪いことをやれ"と言われているのかもしれない。どうだろう?」

「そっ、それは――」


 口が喋りかけてリルは戦慄する。もう薬が効き始めている。頭の中に霧がかったようで、思考の動きが鈍い。


 今のリルは、ヴァネッサを完全に信じ切ることができていない。だがその全てを投げ出せるほどに決裂してもいない。あの店に帰れば、彼女は毎晩自分を抱きしめて一緒に眠ってくれるのだ。


 ヴァネッサの正体を明かすのは、そういった愛の全てを失うことになる。

 どうにか、どうにかしなければ。リルは必死に喋らなくて済む方法を考える。その間にも頭の中を幸せな感情がゆっくり侵食してくる。


「君の店長について、知っていることもあれば教えてもらいたい。場合によってはいくつか手伝ってもらいたいこともある」

「い、いやっ!」

「大丈夫。私は君の味方だ。……君のお母さんが騎士団の料理長をやっていた、と言う話は、流石にもう聞いただろう?」

「っ……」

「君のお母さんは、騎士団員であれば嫌いな人は誰一人居ない。それほどに凄い料理人だったんだ。最初は魔女だったけれど、彼女の料理に我々全員が夢中になった。そして……リルは、お母さんと同じ料理の道を歩もうとしている。違うかな?」


 クローデットの目は優しい目になっていた。この状況だ。どうして彼女が自分の母親の話をしているのかも意図が透けて見える。それなのに、リルはどうすることもできない。


「もし協力してくれたなら……貴女の為に騎士団の料理人のポストを用意しよう。厨房の経験があるならすぐ溶け込めるし、"砂魔女の娘"を嫌う人は誰もいない。住む場所もある。丁度、君のお母さんが使っていた部屋が空いているんだ」

「そんな、こと……言わないで……!」


 同じ質問をジラード家を追い出されたばかりのリルにしていたなら、おそらく断る理由なんて微塵もなかっただろう。しかしリルはそうならなかった。ヴァネッサに拾われ、短い間ではあるが彼女の元で仮初めの家族として暮らしてきた。彼女がと慕う女性はも同然だった――

 頭がふわふわと心地よくなっていく。だが、リルは、寸で耐えきってみせた。


「私は、店長と一緒に、暮らしたいだけ……」

「君の言葉が届くなら、あの女性を心変わりさせられるかもしれない。そうしたら幾分か罪は軽くなるんだ。もし君がそれでも彼女を慕っていて、しばらくの別れの時間が来てしまったとしても――君次第で、その期間を短くできるかもしれない」

「でも、でもっ……ダメです……!」

「そうか」


 クローデットはそう言ってリルへ背を向ける。


「残念だよ、リル」


 振り返った彼女の手には、先程と同じ「水」の入ったコップが握られていた。


(ああ……)

(そんな……店長、ごめんなさい、ごめんなさい……)


 リルは涙目になりながら身をよじる。だが、ベアトリスから逃れられるわけがない。自分がどうなるか分かってしまったリルは心の中でヴァネッサに謝り続けた。

 誰も助けてくれる人は居ない。リルの悲痛な声は陽気な会話でかき消される。


「リルちゃん、大丈夫だよ。とっても甘くて美味しい水だから」

「水ならまだある。辛いものを食べた後だ、喉が渇いているんじゃないか……?」

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