リルがベアトリスに薬を盛った三日後の朝、「レイヴン・バーガー」に騎士団からの手紙が届いていた。厨房の中で目を通したヴァネッサは一瞬ほくそ笑むも、直後に"えも言われぬ影"が迫っている気配を覚えて真顔に戻る。
「店長、どうでした?」
「騎士団への食糧援助の話が進みそうよ。だけどそれ以上に、驚きね。クローデットが私の店で会食したいって提案してる。騎士団長が直々に安全を確かめることで、他の騎士にも安心して食べてもらいたいって」
「じゃあ……!」
「思っていたより一つ飛ばしでクローデットに手が届きそうだわ。でも……」
……あまりにも都合が良すぎる。
ヴァネッサの全神経が警告を出していた。最初の喜びは不安に、不安は緊張に、そして緊張はクローデットへの底知れない怖れに変わる。
仮にクローデットがヴァネッサのことを「黒魔女」だと予測していたとしても、今の彼女はただの女店主。騎士団長とは言え、突然店に押しかけて手をかける……そんなことは社会的に許されない。
一方のヴァネッサは、表向きは正当な方法で騎士団へ取り入ろうとしていた。今はリルを通じてベアトリスに動いてもらう手もある。このまま一手ずつ詰めていけば確実にクローデットを「手に入れる」ことができるのだ。
それなのに……自ら「ハンバーガーを食べに来る」クローデットは気が狂っているようにしか見えなかった。前回の「水」と同じハッタリだろうか? もっと時間をかけて丁寧に勝ちきろうとした矢先、ヴァネッサは想像もしていない条件を叩きつけられて眼をかっ開くことになったのだ。
(……少なくとも、今の私は、これを断れないわ)
(多分、この手紙を出すまでの間に騎士団の中で話は通っているはず。下手に断れば余計に怪しまれる。今後ハンバーガーを提供する時にも響きかねない)
(何を考えているの? 貴女は……決して愚かな人間じゃないはずよ)
頭の中で不安が一気に膨れ上がる。それは身体の中で抑えつけられる閾値を超え、手のひらに長い爪を食い込ませる。
罠にかけ、あとはどっちが上か分からせるだけだった……それなのに、クローデットは檻の中で不敵に笑い、こちらがどういう風に出てくるかを窺っている。
「当日は、どうしますか」
「彼女から目を離すわけにはいかないわ。だから、私がクローデットの相手をする。リルは厨房でハンバーガーを作って……惚れ薬が入ったものを、彼女に出すのよ」
「はい、わかりました」
「薬の入ったハンバーガーを食べれば、私の勝ち。私があの女を支配する! アハハ……! いいわ。貴女がそのつもりなら、やってやるわよ、クローデット!」
二年前、王城で屈辱を味わわせた女騎士を、自分のことだけしか見えなくなるように屈服させる。彼女の纏っている知性の鎧を全て引き剥がし、甘く蕩けた表情も恥ずかしがる表情も全て自分だけのものにする……。
黒魔女は、欲しいものは全て手にしてきた。そしてこれからも手を伸ばし続ける。それが、宿敵である"白騎士"クローデットだったとしても決して例外ではない。
(今度こそは、絶対、私が勝つ! 完全勝利するっ……!)
◆ ◆ ◆
レイヴン・バーガーでの
それまでの間、二人は何も事を起こさないよう平穏な暮らしを紡いでいたが……リルが一人でカウンターになっている時、店に一人の客が現れる。
長い白髪をポニーテールに結び、黒いケープを纏った背の高い女性。口元は黒のバンダナで覆われているが、冒険者の類いだろうか? リルは彼女をどこかで見た記憶があったが、その詳細を思い出すことはできなかった。
彼女は一瞬だけ厨房の方へ目をやった後、口元へ人差し指を立てた。
「いらっしゃいませ……?」
小さな声で決まりの挨拶をすると、女性は懐から一通の手紙を出してリルの前へ広げる。そこには――
『ベアトリスが貴女を呼んでいる 三日後の夕方、"モキュチキ"で待っている。大切な話もある このことは店長には秘密にしてほしい』
「あ……もしかして、貴女は……」
リルは以前、ベアトリスが寡黙な女性と二人で店を訪れたことを思い出した。目の前に居るのは、その時彼女と一緒に居た人物だった。
秘密にしてほしい、という一文が引っかかったが……ベアトリスが呼んでいるとなれば、リルはそれを無下にはできなかった。数日前に彼女を騙し、薬入りのハンバーガーを食べさせたことが、今も罪の意識となって尾を引いているのだ。
新しい客が入ってきた。
断ることのできなかったリルは女に対して頷き、その場は帰ってもらった。
(……どうしよう?)
約束をした以上は行かなければいけない。ベアトリスが今どうしているのかも気になる。だがその為にはまず、ヴァネッサから夕方の早引きを勝ち取らなければならなかった。まさか用事をそのまま言うわけにもいかない。客の応対をし、ハンバーガーを運びながら、何か良い理由がないかと探してみる。
すると……
客の中に、フライドポテトをフォークで食べながら本を読んでいる者がいた。軽食と水だけで長いこと同じ場所にいる客だ。
(本……そうだ)
リルは注文のない時間を見計らい、厨房へ戻ってヴァネッサに声をかけた。
「店長、あの、お話いいですか?」
「大丈夫よ。どうしたの?」
「三日後、お昼からお休みもらいたいんですけど……」
ヴァネッサはリルをちらと見る。
その視線は少し怖かったが……負けてばかりではダメだ、とリルは踏ん張った。
「本当はあまり外にでは出て欲しくないのだけど」
「……どうしても、ダメですか?」
「貴女を心配してるのよ、もし何かあったら――」
「私って、そんなに、店長から信用されてないんですか……?」
遮るように放たれたリルの殺し文句は、ヴァネッサから勢いを奪った。
未熟なりに考えた"仕掛け"が発動した。リルがひどく落ち込んでいるとヴァネッサは強く出られない、それを利用したささやかな反抗だ。
「そうじゃないけど……」
「気になってる本屋さんがあるんです。文字が読めるようになったから、もっと色々なことを知りたくて。勿論、料理のことなんですが……でも、店長の力になれます。お店のメニューを考える時だって、あんなに大変だったじゃないですか」
「でも……」
「私だって、子供じゃないんです。店長は、そう、思わないかもしれませんがっ」
「わかった、わかったわよ。ほら、そんな顔しないで。頭撫でてあげる……」
ヴァネッサに優しく抱きしめられながら、リルはなんとか失敗せずに一芝居こなせたことにホッとする。そして、彼女の腕と身体の感触を味わうため、ついでに"甘えん坊の娘"も演じることに決めた。
◆ ◆ ◆
それから三日後。特に事件が起きるわけでもなくリルは店のお休みをもらい、久しぶりに昼の街に出た。ベアトリスとの約束までは時間があるため、ヴァネッサから外出の許可を貰う口実とした「本屋」を訪れる。
少しだけ暗く、紙の匂いに満ちた店内。棚に並ぶ本はいずれもどこかで見たことある背表紙だが、そこに書いてあることをちゃんと読むのは初めてだった。
目に映るもの全てが新しい。リルは時間をかけて料理本を立ち読みして……
(……あっ、そろそろ行かなくちゃ!)
――気が付けば、日が傾いている。まるで目を開けたまま眠っていたようだ。
色々な文章を読んで少し頭の痛みを覚えながらも、リルは料理本「よくわかる家庭料理 第7版」を買って紙袋に包んでもらい、約束の場所に向かった。
「リルちゃん!」
「ベアちゃん!」
夕方。モキュモキュチキンのお店の前に来ると、いつも通り深緑の外套を纏ったベアトリスがリルに手を振ってくれた。挨拶を交わしながら両手でハイタッチしてそれぞれ喜びを分かち合う。どうやら、ベアトリスは以前と変わらぬ様子でリルに接してくれるようだ。
「今日ね、モキュチキで新作メニューが出るの! 一緒に食べたくって」
「それで呼んだんだ! ちょっと気になるかも……」
「絶対美味しいよ! ほら、早く入ろう!」
店に入った二人はスパイスの香りに口角を上げる。店はリルが以前来た時よりも客の数がずっと多く、若い男性や家族連れで大いに賑わっていた。
「ソフィーねーちゃん、今日は人が多いね」
「そうね。お客さんがいっぱいいるのはいいことよー」
厨房では二人が一生懸命チキンの調理に勤しんでいた。ベアトリスは店の隅に空いている席を見つけると目をキラキラさせてリルを引っ張る。
「らっしゃーせ、なににする? ……うおお、おまえはカラスの」
「新作! "レッドチキンサンド"のセットを二つ頂戴!」
「おーけい……」
背の低いミーアがつま先立ちになって「カラスの店員」に気付いた次の瞬間にベアトリスが横から元気いっぱいに注文し、気圧された彼女がよろめいてしまう。そのままフェードアウトするように彼女が去っていった後、オフモードの女将校はちょっと照れくさそうにリルの肩にもたれかかった。
料理が来るまで待つ……
この時間は本来あまりに長く退屈なものになるはずだったが、今は違う。陽気な場の雰囲気も相まって心は満たされていた。これなら、過去の罪悪感も乗り越えられそうである。
「できたぞ! たべろ」
「わあっ……!」
レッドチキンサンドが来た……
外見はレイヴン・バーガーで提供されるようなハンバーガーと似ているが、よく見れば色々なところが違うことが分かる。バンズは粗い粒が見える堅めのパンが使われ、中に挟まっているチキンと一緒に食べた時に歯ごたえで負けないように考えられていた。
それらで店自慢の「レッドチキン」をみずみずしいレタスと一緒に挟み、バンズとの間にフレッシュチーズを使って旨味たっぷりに仕上げる。チキンの美味しさを理解している専門店だからこそ開発できたメニューだ。
「いただきまーす! あむっ……」
二人でタイミングを合わせるようにしてへかぶりつく。そして、口いっぱいに広がるスパイスと肉の脂、チーズの濃厚な風味に上体を反らせるようにして声を上げた。バンズも噛めば噛むほど味が沁みだしてくるものだから、テーブルの下で足をバタバタさせながら二口目、三口目と食が進んでいく。
じゅわ……肉厚なチキンを噛めば、暖かい極上のエキスが口の中へ広がる。
「うまーっ!」
「リルちゃんと一緒に来られて幸せ……」
「わたしも、ベアちゃんと一緒で幸せ……」
手元のサンドがなくなるのに時間はかからなかった。あっという間に完食した後はベアトリスが感極まったように声を上げてリルへ抱きついてくる。しばらく二人で寄り添いながらお腹を休めていると――
――リルは、頬の周りが冷たくなったような心地を覚えた。
(ん?)
誰かが見ている気がする。
妙な違和感に楽しかった心地が冷めてしまったリルは、そうさせた犯人を捜そうと店の中を見渡すが見つかる気配がない。他の客は皆楽しそうに食事と談笑にふけり、隣のベアトリスもくっついたまま離れようとしない。
そう。離れようとしない。まるで
「ベアちゃん?」
「……」
急に返事をしなくなったベアトリス。寒気すら覚え始めたリルは、誰かが自分たちの後ろに立っていることに気付く。これだった。さっきから、何者がリルとベアトリスの仲睦まじい様子を後ろから監視していた。
いや、違う。もしかしたら、ここにいる他の客も一緒に……?
(え……?)
ゆっくりと、首だけで振り返る。
白髪を一本で結んだ冒険者の女が、腕を組んでリルを見下ろしていた。口元を覆い隠す布はない。リルは彼女の正体に気が付いて愕然と口を開ける。
クローデットが、そこにいた。