夜遅くになってから、ベアトリスは騎士団寮へ戻った。廊下で一人考え事に耽っていたクローデットがその姿を見つけるが、帰ってきた彼女の瞳は普段と違って焦点がどこか定まっていない。ずっと、誰かのことを考えている様子でもある。
「おかえり」
「ああ、クローデット様。夜遅くまでお疲れ様です」
「足がふらついているぞ。飲んできたのか?」
「そう見えますか? あはは、楽しいことがあったからかもしれませんね……」
くだけた口調で接してくるベアトリスだったが、クローデットは彼女の頬が妙に赤いことに気が付いた。酒を疑うが、飲んだ後にしては受け答えがはっきりしている。ベアトリスが早々に通り抜けようとする様子を前に眉をひそめた。
「部屋まで一緒に行こう。その足取りだと、見てて不安だからな」
「すいません……わあっ!?」
何もないところで転びそうになったベアトリス。慌てて受け止めるが、彼女は姿勢が安定するとすぐに一人を求めて腕から離れていってしまった。
……どこか様子が違う気がする。少なくとも、以前なら振り払われることはなかった。クローデットは二人の間に妙な
「ごめんなさい、今日は疲れてるみたいです。一晩寝れば元に戻ります」
「そうか。ではまた明日。もう遅い時間だからしっかり休んでくれ」
「はい。――明日、お話があるのですが伺ってよろしいでしょうか」
「問題ないが……本当に大丈夫か?」
「大丈夫です、ありがとうございます。では、おやすみなさい……」
部下たちの私室へ続く廊下でクローデットは別れの挨拶をする。そうして一人になってから腕を組み、無言でじっと考え込みながら騎士団長室内の自室へ戻った。
(……?)
妙な引っかかりがある……クローデットは楽な格好に着替えてベッドで横になる。
まず、ベアトリスは今日、夕方からどこかへ行っていた。それまでの彼女はどこか楽しそうな様子だったことも覚えている。そして帰ってきた彼女はどこか恍惚とした様子で、騎士団寮の中を真っ直ぐに歩くのもやっとだった。
前提として、これらのことは揺るがない。
そしてここからはクローデットの推測だが……帰ってきたベアトリスはこのまま眠る話をしていたため、食事を外で済ませてきた可能性は非常に高い。
(飲食店に行ってきたのだとすれば……)
だが、ベアトリスが酒を飲むという話はあまり聞いたことがない。飲まないわけではないとは思うが――あそこまで悪酔いするほど分別ない人間ではないはずだ。クローデットは黒魔女の話を既に伝えていたことから、このような場面で明日に影響が出るほど没頭するというのも考えづらい。
目を閉じた時……ふと、頭に一つ解決の取っかかりとなるものが浮かんだ。
(待てよ)
(まさか、薬か?)
クローデットの頭に浮かんでいたのは、以前話として聞いたことがある「惚れ薬」の存在。男性の多い上流貴族と交流する時にクローデットが最も警戒するべき薬。二年前の件で毒殺が流行した後、彼女は外で一切の飲食をしないよう行動してきたが、その理由の中にはこの薬を避ける狙いもあった。
もしベアトリスが何らかの狙いの元に薬を盛られていたのだとしたら……何か良くないものが騎士団に迫っていることになる。時間は残されてないかもしれない。その推測が真かを早急に確かめ、次の一手を打つ必要がある。
(いくつか調べる道筋は付いた)
(寝よう。動かずに考えすぎれば嵌る。そうなれば、いよいよ終わりだ)
(私も、疑心暗鬼になりすぎているのかもしれない……)
◆ ◆ ◆
そして翌日――。
騎士団長室で西砂漠の調査報告書へ目を通していると戸がノックされた。
「入って良いぞ」
「失礼します。あの、クローデット様……」
日課である訓練より少し前の時間に、妙によそよそしい態度でベアトリスが部屋へ入ってきた。こちらの出方を窺っているような視線を向けられたクローデットは不信感を芽生えさせるが、それは一旦腹に納めて普段通りに笑う。
「どうした?」
「騎士団の食糧事情について提案があります。よろしいですか」
昨晩言っていた「お話」は、このことだろう。
「ああ、構わない。是非話してくれ」
「――オーレリアン公が欠けた後、ジラード家は次の当主を決定しましたが、それでも貴族会議は運営そのものが不安定になりました。そのためいくつかの事柄……例えば、我々騎士団への予算の割り当てなどで、会議に遅れが出ています」
「うん……やはり、そうなってしまったか」
「兵器の更新は前回の臨時会議で決まっていましたが、食糧供給に関しては今もなお後回しになっています。その為、現在は予備の蓄えで何とかしていますが、このまま混乱が続くようでは近いうちに首が回らなくなります……」
ベアトリスはクローデットの顔をじっと見て――大丈夫だと判断したように表情を改めて「提案」をした。
「クローデット様、民間からの食糧援助も考えていただけますか? どのみち、このままでは長く持ちません。食べ物は士気に直結します。お願いします……」
「当てはあるか?」
「昨日の話ですが、『レイヴン・バーガー』で友人と会ってきました。その時に、店の者が"騎士団を手伝いたい、心配している"と話しているのを聞いてます。あそこは、クローデット様が未だ疑われている場所ではありますが……」
「彼女がそんなことを? ……分かった、考えてみよう。ありがとう、ベアトリス」
「お時間を頂いて申し訳ございませんでした。失礼します」
一礼したベアトリスは部屋から去っていった。
クローデットは彼女が立っていたところをじっと眺めながら、表情一つ変えずに先程の会話をじっと考え込んで――やがて勢いよく立ち上がる。
形のない悪意の獣が、近くで隙を窺っている気がする。クローデットの頭の中で、何度か出会った軽食屋の女店主が魔女の三角帽子を被っていた。
手がかりを探さなければ。直感に従うように、騎士たちの私室が並ぶ廊下へ出る。
(皆は訓練場にいるはずだ。隠れて部屋に入るのは心が痛むが……許してくれ)
窓の外から女将校が檄を飛ばす中、クローデットは廊下をできるだけ早く抜けて目当ての部屋に辿り着く。
ベアトリスの部屋だ。
誰にも見られていないことを確認してから中へ滑り込む。他の団員と変わらないベッドには筒状に丸まった布団が一本。ごみ箱には「ゲイリー・ドッグ」「モキュモキュチキン」の包み紙が入っている。
……そして、慎ましい机の上には何通かの手紙があった。
(失礼するぞ、ベアトリス)
◆ ◆ ◆
親愛なる友達へ
ベアちゃんに食べてもらいたいハンバーガーができました。
お店でいろいろお話もしたいです。明後日あたりどうですか?
リルより
◆ ◆ ◆
あの夜、ベアトリスはレイヴン・バーガーに「招待」されていた。
クローデットの私室には魔女の居場所を絞り出すための地図があり、いくつもあった調査箇所は一つ一つが丁寧に潰されてその数を減らしてきている。その中でまだ、あの店は調査すべき対象として残っていた。
(まさか、あの女が、本当に……)
すべては計画されていたのではないか? クローデットの疑念が確信めいたものへ変わった。手紙を元に戻した彼女は他に調べられるものに大体目を通してみたが、その結論が揺らぐことはなかった。
翠眼に
――あの店には何かある。