屋根に止まっていたカラスが、暗くなった空を見上げて鳴いていた。
その下を深緑の外套を羽織った女が駆けている。
彼女は「レイヴン・バーガー」のドアの前に立ち、深呼吸を一つする。緊張がほぐれた後、ガラスに映った自分の姿を見ながら髪を直して、ぐっと胸元で拳を握ってから店内へ足を踏み入れた。
「いらっしゃ……あ。ベアちゃん、いらっしゃい」
彼女を迎えてくれたのは友人のリル。ベアトリスが騎士であることを知る数少ないうちの一人。快活に、そしてちょっと落ち着いた様子で案内してくれる。
「こんばんは、リルちゃん。遅い時間に約束しちゃってごめん」
「大丈夫、大丈夫。奥のソファ席空けてるから、そこで座って待ってて」
用意されたのは、以前にクローデットと訪れた時も座った店の一番奥の席。窓も遠く、他の客からの視線も入りづらいから二人で話すにはうってつけの場所だ。
席に座ったベアトリスの前で、リルは盆を使って口元を隠す。彼女は緊張しているのか、さっきから自信なさそうに視線をきょろきょろ動かしていた。
「あの……新しいハンバーガーを考えたんだけど、もし良かったらベアちゃんの意見を聞かせてくれないかなって。お金は取らないから」
「いいの? じゃあ是非お願いしちゃおうかな。楽しみにしてるね!」
リルはちょっと照れくさそうに見える微笑みを浮かべながらくるりと背を向けて、とたとたと厨房へ駆け込んでいった。ベアトリスはその愛らしい後ろ姿につい口元を緩めてしまう。
――彼女が何を考えていたかも、つゆ知らず。
◆ ◆ ◆
厨房に戻ったリルは
厨房で一人になる。今まで何度もここに立ったはずなのに、動悸が激しい。
(……やろう)
二枚のフライパンを
(ベアちゃんは辛いものが好き。だから、昨日のレシピより辛さを強くする)
(ヒリヒリした舌なら、もし薬の味を知っていたとしても分からない、はず)
(……絶対に成功させて、店長に、褒めてもらう)
額には汗が浮いていた。
頭の中でヴァネッサに抱きしめられている自分を想像しながら手を動かす。パティをひっくり返し、焼き面の付いたバンズを上げ、成形したハッシュドポテトを熱い油に入れる。
ちら、と棚の上を見ると……ヴァネッサから教えてもらった「惚れ薬」の入った小瓶が置かれていた。
(じゃあ――)
下半分のバンズを置き、その上に両面を焼いたパティを乗せる。そこへ、両面に赤いスパイスを振りかけたハッシュドポテトを乗せ、上に
リルは惚れ薬の蓋を開け、しくじらないよう神経を尖らせながら数滴零す。赤透明な薬がソースと混ざるよう匙でかき混ぜ、上のバンズを被せた。
(ベアちゃん……ごめんね)
完成したハンバーガーを紙袋に入れて皿に置き、横にフライドポテトを添える。一杯の水も汲んで、リルはそれらを「客」の元へ持って行った。
リルが戻ってきた。落ち着いた笑みを浮かべながら、彼女はベアトリスの前に料理の皿を置いた。ハンバーガーの入った紙袋からはスパイスの刺激臭が上り、それを鼻で感じたベアトリスが嬉しそうな声を漏らす。
「お待たせしました」
「すごい良い匂いするね! これは……ハッシュドポテト?」
「うんっ。それにベアちゃんの好きな辛味をつけてみたの。店長と一緒に味見しながら頑張って作ったんだ」
「わぁ……じゃあ早速頂くね!」
ベアトリスはキラキラと輝くような笑顔で大きな口を開け、友達の作った新作バーガーに喜んでかぶりついた。
リルはそれを直視できなかった。
視線を横へ逸らし、結んだ口の端を必死に上げて必死に普段通りを装う。
「ん、これすごく美味しい! 辛さも丁度良くて好きかも……!」
何が入ってるとも知らず、ベアトリスは自分を信じて食べてくれた。その光景を見ていると腹の底に押し込めたはずの罪悪感が浮き上がってくる。
目を閉じて心を守るが……。
ヴァネッサに褒められたい、愛されたい、その一心でリルは自分の大切な友達を利用してしまった。その現実が突然、彼女を圧倒的な写実で飲み込んだ。
(私が作った、薬入りのハンバーガーを、ベアちゃんが食べてる)
(どうしてこんなことを? なんで? なんで……)
ハンバーガーの美味しさに唸り声を上げるベアトリス。
その一方、リルは、今の自分が取り返しのつかないことをしてしまっているのではないか、と不安を募らせていた。
(私は、店長のために……)
敬愛する店長――ヴァネッサの願いを叶えるためにリルは尽くしてきたが、そもそも彼女は王国を支配しようとした恐怖の魔女。実際、リルが彼女の正体に気が付いた夜は、後ろから見られるだけで声の一つもあげられなかった。
そんな彼女のために、友達を売っている?
よく考えればそれが正常なはずがない。ヴァネッサは目的を達成しても一緒だと言ってくれたが、その言葉に嘘が混ざっていない保証はない。相手は黒魔女だ。
(もしかしたら、今なら、まだ……)
食べきる前にベアトリスを止め、ヴァネッサが黒魔女だと告発したら、この後起こるかもしれない「結末」を避けられるかもしれない。それができるのはリルただ一人だけ。
だが……彼女は曲がりなりにも「母親代わり」のように振る舞ってくれる存在。もし仮にレイヴン・バーガーを離れ、他の家に勤めたとしても、そこでリルを今のように可愛がってくれる人はまずいないだろう。肉親の死で心に空いた穴は、一生、決して塞がることはない。
(でも、でも……)
ヴァネッサに甘えたい心を正義と一緒に天秤へかける。それはしばらく拮抗していたが……脳裏に母親の言葉が浮かんだ時、それは彼女の勇気が示す道へ傾いた。
料理で大切なのは心。決して、薬を使って他人を独占することではない。
ようやく進むべき道を思い出した。リルはぱっと明るい表情で前を向いて――
「すごく美味しかった! これ新作なんでしょ、売り始めたらリピートするね!」
――ハンバーガーもポテトも、全て、完食済みだった。ベアトリスが早食いだったのか、リルが考えすぎたのか……彼女の葛藤は、全てが無に帰した。
「リルちゃん、どうしたの?」
「あ……はは、嬉しくて、感極まっちゃった」
本当に取り返しの付かないことになった――
リルは目に浮いていた涙を手の甲で拭って、ベアトリスの隣に腰を下ろした。柔らかいソファなのに中で虫が這いずり回っているようだ。頭の中で自分はどうしたら良いのかを考え直す。でも、まとまらない。この場で今すぐに泣きたかった。
「あの、リルちゃん」
「なに?」
「……リルちゃんにだけ伝えるね」
ベアトリスは周りを素早く確認した後、彼女にしか聞こえない声でこう言った。
「町に黒魔女がいるの。もしかしたら、リルちゃんの近くかもしれない……」
全てが遅いのだ。リルは、溢れそうになる涙を必死に堪えながら、不安になった振りをして肩へ寄りかかる。
もはや、事前にヴァネッサと打ち合わせた通りにやるしかない。正義の道は閉ざされ、黒魔女の手先として歩み続けるしか選択肢は残されていなかった。形の不確かな愛を得るために友達を売ったリルは、俗な言葉で――地獄へ堕ちるのだ。
(私は……店長も、お母さんも、ベアちゃんも、裏切っちゃったんだ)
そうなれば、最早リル個人でできることはなかった。
ヴァネッサと打ち合わせたことを必死に思い出す。薬が効いた後は……
「教えてくれてありがとう、気をつけるね。……あの、ベアちゃん、いいかな」
「ん……? なあに、リルちゃん……」
ベアトリスの返事は普段より甘い猫撫で声だった。そこでリルがぴたりとくっついていた身体を離すと、彼女は
こてり、と肩に重みを感じた瞬間、リルの動悸も激しいものに変わった。
やるしかない。目の前に伸びた棘だらけの道を歩むしかない。
「最近、ずっと考えてたんだけどさ。私、ベアちゃんの力になりたいんだ」
「そっか。ふふ……そう言ってくれて嬉しいよ」
「それで、騎士団が今お金がないって聞いたんだけど……よかったら、うちの店のハンバーガーをあげたいなって。店長にはお話通してるんだけど、どうかな?」
「んーっ……?」
ベアトリスはリルの腕をぎゅっと抱きしめながら惚けた声を上げる。既に目はとろんと柔らかく、頬も仄かな赤色で暖かくなっている。
だが、もう一押しだ。先程の黒魔女の話の流れもあるためか、まだ彼女の頭には理性がひとかけら残っている。そこで、リルは――道化になった。
「急にこんなこと言ってごめん。やっぱ、駄目、だよね……忘れていいよ」
リルは一度ベアトリスを振り払ってから視線を落とし、人生で一番悲しかった時の出来事――母親の死を知った日のことを思い出した。あの時から自分は何をしてきたのだろう? 思考はそこまで飛躍して、今の自分が嫌になって仕方なくなる。
だがそれは演技には貢献したようだ。ベアトリスは耐えきれずにリルを抱きしめると涙ぐんだ声で返事をした。
「ううん、駄目じゃないよ。リルちゃんが助けたいって言ってくれるならとっても嬉しい。リルちゃんの言った通り、今の騎士団はお金がなくて、食堂のメニューもちょっと寂しいの……クローデット様に相談してみるね」
「本当……? ありがとう、ベアちゃん……!」
今度は精一杯の笑みを浮かべてベアトリスを抱きしめ返す。リルの心はもはや、どこが
(ベアちゃん、ごめん、ごめん……)
今のリルは、優しい母親が自分を慰める穏やかな妄想に逃げられない。そしてベアトリスに警告しようと考えたことで、実行には移さなかったがヴァネッサへの裏切りの念を抱く結果となってしまった。
(私、ダメな子だ。こんなどっちつかずじゃ、どっちにも捨てられる……)
(ごめんなさい、ごめんなさい……!)
こんな自分が愛されるわけがない。
"母"の言うことも聞けず、友達すら売ってしまう、最低な自分が……。