ヴァネッサの言っていた通り「昨日と変わらない明日」がやってきた。
何事もなかったかのように開店するレイヴン・バーガーではいつも通りヴァネッサが朝食のサンドイッチを作り、時間になれば店の料理を目当てに多くのお客さんで賑わう。リルは店員として接客に奔走し、厨房ではヴァネッサが料理を作り続けている。
何もかもが同じ。ただ一つ、リルがヴァネッサの正体を知っていること以外。
「リル、ハンバーガーセット一つとモーニングプレート一枚上がってるわ」
「はいっ……」
店を訪れる客にとっては何ら変わらない光景。店主のヴァネッサと店員のリルはにこにこと微笑みながら言葉を交わし、中で飲食する者たちにとっての癒やしの一部となっている。
しかし……当の本人であるヴァネッサは、リルの堅苦しさに気付いていた。
「あの、テーブル、拭いてきますね」
「お願いするわ。布巾はそれを使って」
「わかりました」
仕事に差し支えることはないだろう。これまでと変わらずにリルは頑張って働いてくれている。
それでも違和感は拭えない。日常に掛かっている薄い布を一枚取り払えば、そこには昨晩見せたような怖れが隠れているような気がしてならなかった。
(……急がないといけないわね)
(私のことは、しばらくは黙ってくれるはず。でもいつまで持つかは分からない)
何かクローデットに繋がる道があるはずだ。そう思いながら作業していると顔が気難しくなっていたのか……夜、店を閉める頃になると、リルが今にも泣き出しそうな顔で訴えかけてきた。
「あの……わたし、お役に立てませんでしたか……」
「リル? 何を言っているの」
「今日、ずっと、不満そうな顔をしてたから」
「……大丈夫よ。貴女の働きには何一つ不満はないわ」
それでもリルは戦々恐々と視線を落としてヴァネッサを向けていない。
聞こえないように溜め息を吐いてから、彼女へ何を話せば良いか吟味して精一杯の笑顔を作った。
「クローデットのことよ」
「私にお手伝いできることはないですか?」
「そうね……」
リルを試すような物言いになってしまうことを、申し訳なく思いながら――
「クローデットはとても疑い深いから、まずは彼女からの信頼を勝ち得ないといけないわ。そのために騎士団へうちのハンバーガーを広めたいの。あまり時間はなさそうだから、どうしたらいいか迷ってて」
ヴァネッサの頭には一つ「あて」が浮かんでいた。
果たして、リルは彼女が思い描いていた通りに顔を強ばらせると、目を閉じてじっと悩み始める。なんでもなさそうに厨房の拭き掃除をしていると、しばらくしてから彼女はトコトコおぼつかない足取りで近付いてきた。
「店長」
「なあに?」
「もしかしたら、店長の応援が、できるかもしれないです」
うまくいった――
心の中でほくそ笑みながら、ヴァネッサはよく分かってない振りを演じた。
「どういうこと?」
「えっと、前に話したかもしれませんが……」
「私に、騎士団の友達がいます」
クローデットを自分のものにするには、現状でも「惚れ薬」の力に頼るのが最も間違いがない。そのためにはどうにかして薬を摂取させなければいけないが、彼女の性格を考えるとそれが最も難しい。
ヴァネッサは店を開いた当初から練っていた計画のあらましをリルへ説明した。そして、赤く透明な薬の入った小瓶を示しながら今後の考えを話す。
「リル……まずは貴女が、そのお友達へこれを盛る」
「ど、どうなっちゃうんですか」
「大丈夫、安心して。この薬は……簡単な言葉で説明するなら、相手をドキドキさせる効果があるの。好きな人ができたことはある? その人に対してなんでもしてあげたくなっちゃうような、そんな気持ちにさせる薬よ」
「……」
未だ踏ん切りが付けられない様子でリルは黙り込んでいる。もうヴァネッサにとっては引き返せない状況だ……少し意地悪な言葉で彼女の背中を押した。
「貴女にとってはきっと辛い選択になる。できないなら無理はしなくていいわ」
「――っ、やります」
見捨てられることを怖れているリルは、現状少しでもヴァネッサに対して点数を稼ぎたい思惑を隠せないでいた。それを利用させてもらう。相手の心理状況を利用することは難しくないことだったが……リルの追い詰められた表情を見ると、どうしてかつい抱きしめてしまっていた。
自分はもう、かつての冷酷な「黒魔女」ではない。
だからこそ黒魔女時代の因縁には早急に決着を付ける必要がある。クローデットを手に入れ、リルとも一緒に暮らし続けるために。
「お友達を呼んで、出す料理の中にこの薬を仕込んで。数滴あればいいわ。それを食べさせれば、貴女の頼み事は聞くようになるはず。そして彼女を通じて、徐々に店の評判を広めていって、最後はクローデットの信頼を勝ち取る」
「なんて、お願いしたらいいですか」
「"騎士団に食糧提供をしたい"で十分よ。最近の話だと、騎士団は食糧補充の申請を一度断られている……それを知った私の店がリルを通じて提案する。大丈夫よ、至って普通のことだわ」
「……わかりました」
少女の顔には覚悟が決まっていた。ヴァネッサは自分の身体へすがりつく強さが増したことを感じると、そっと背中を撫でながら目を閉じる。そのまま自分の気持ちを悟らせないようにリルを抱き続けた。
「店長のために、がんばります。だから……」
「大丈夫、心配しないで。さあ、片付けをしたら今日も一緒に寝ましょう?」