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8-7 「ヴァネッサ」

 ――店長の正体は黒魔女だった。


 手紙の前でへたり込んでいたリルは振り返る勇気もなく、叫んで助けを求める余裕もなかった。少しでも動いたら、自分は後ろに立っている女に殺されてしまうのではないか……

 きい、と床板の軋む音が近付いてくる。這おうとしても足に力が入らない。


「安心しなさい。私は貴女をどうするつもりもないわ……」


 暗闇の中、後ろから伸びた腕がリルの身体を絡め取るように包み込んだ。捕まってしまったリルは歯をガタガタ震わせながら一生懸命に涙を堪える。

 記憶の中で優しい笑みをたたえていた店長が、今は黒のローブを纏っていた。どうしてこのようなことになったのか後悔していると、耳元で囁きかけられる。


「私を見て」

「ぁ……」

「深呼吸して。そして、ゆっくりと振り向いて。怖くない、怖くない……」


 言われるがまま、リルは浅い息をなんとか整えての顔を見る。

 そこには三角帽子を被った魔女――ヴァネッサがいた。真正面から優しく抱きしめられたリルは涙すらも出ない様子で、恐怖と不安と不思議な安堵で身体が引き裂かれるような混沌を極める。

 殺されるかもしれないことが怖くて仕方ない。それなのに、抱きしめられるとどうしても身体が安心してしまう。もはや、自分自身のことも分からない。


「ああっ……あぁ……」

「良い子よ、リル。一緒に寝ましょう。昨日までと同じ、貴女のことを抱きしめてあげるわ。そして……約束通り、を聞かせてあげる」

「いやっ――!」


 リルは目の前の魔女を突き飛ばそうとしたがうまくいかなかった。ヴァネッサは悲しみの籠った瞳に変わり、自分を拒否しようとする少女を見下ろす。


「おかあさんは、あなたが……!」

「……そうね、貴女はそう思っていたわね。ごめんなさい、説明してなかったわ」


 ヴァネッサはリルの頬を優しく撫でた。流れ落ちた涙を人差し指がすくい、未だ怯える彼女の額にキスが贈られる。


「全部話すわね。私のことも、貴女のお母さんのことも……」


◆ ◆ ◆


「貴女の思った通り……黒魔女は私よ」


 ヴァネッサはまず、自分を「黒の森」で生まれた魔女だと明かした上で……少し言葉に悩んでから、腕の中で震え上がるリルの頭を優しく撫でる。


「そして、貴女のお母さんは砂の魔女サンド・ウィッチ。彼女は城下町の西に広がる砂漠で生まれた。貴女が見たのは、その時にやりとりしていた手紙」

「私の、お母さんが……魔女?」

「そうよ。あの悪戯好きも色々あって、最後は町で人間と暮らす道を選んだ。そして生まれたのが貴女。リル、貴女は魔女の娘なの」


 魔女として生まれた者は人間よりも遙かに長い時を生きる。そのため魔女同士での交流は決して珍しいものではなく、温和なやりとりもあれば、地図を多少書き換えなければならない程度の遊びに興じることもある。

 世間で砂魔女と呼ばれる女……リルの母親は、ヴァネッサの悪友だった。


「知らない――。お母さん、そんなこと、一度も言わなかった」

「彼女を責めないであげて。当時の町には、その人が魔女だと言うだけで恨む人が今よりもずっと多かった。まだ幼い貴女が魔女の娘だと知られたら、ね?」


 リルは未だ疑心暗鬼で瞳を潤ませている。まだ、彼女にとっての最大の疑問が解けていないのだ。


「お母さんは、どうなったの」

「彼女は殺されたわ。私じゃなく……ジラードに」

「え……」


 リルにとってはあまりにも辛すぎる現実だった。


 母のような料理人になるため使用人メイドとして奉公に出ていたリルは、ジラード家に住み込みで何年も厳しい境遇を耐え続けてきた。それこそ……大好きな母が亡くなったことを知るのが遅れてしまうほどに。

 それなのに、自分が身を粉にして仕えていた主人が大好きな母親を殺していた。苦汁を飲む日々が作っていたのは料理人のキャリアでなく母殺しの結末だった。

 最後、館を追い出された彼女は自分が戻る場所さえも失っていたのだ。


「そんな」


 あらゆる気力が失われたリルはその場で姿勢を保つことも出来なくなり、ヴァネッサへ寄りかかったまま瞳の光を失った。彼女の肩にもたれながら首を横に振り、言葉にならない呻き声を上げ続ける。


「でも聞いて。今の私は、クローデットが欲しいだけなの。信じてくれないかもしれないけれど、もう富や権力には興味がない。彼女の心が手に入れば、あとはもうどうでもいいの……」

「私のことは、どうなんですか?」


 リルの悲痛な声が漏れた。はっきりと。

 ヴァネッサの表情から"遊び"が抜ける。


「あの人が手に入ったら、私は……また捨てられるんですか?」


 その言葉には、少女の抱える底知れない闇が宿っていた。ヴァネッサは気付く。出会った時から既に、彼女の心は二度と元に戻らないくらい変質していたことを。

 このまま放っておけば死んでしまう顔だ。ヴァネッサは力強く抱きしめた。


「そんなこと言わないで。貴女は家族よ、変わらないわ」

「でも、ごめんなさい。信じたいのに、信じ切れません」

「それでもいいわ。でもこれだけは覚えてて頂戴。貴女が私の正体を知っても私がすることは変わらないわ。昨日までと同じことを明日もする。仕事に対しても、貴女に対しても同じ。……わかってくれる?」


 リルは静かに頷いた。本当に理解できているかをヴァネッサは知ることが出来ないが、色を失った彼女の心に少しでも安心の灯を点けられたことを祈るしかない。


「……寝ましょう。もう遅いわ。明日が来る」


 ふらつくリルを支えるようにして二人でベッドに入った。しかし彼女はくるりとヴァネッサへ背を向けると何の一言もなくなってしまう。

 それでも小さな背中が寂しくならないように後ろから身を寄せて同じ布団を被った。ヴァネッサは今後リルとどのように接するべきかを考えながら口を結ぶ。


(こうなることは分かってたわ)

(想像よりずっと早かったけど、私の計画には影響がない)

(むしろリルにお願い事をしやすくなるわね。店長じゃなく、魔女として――)


 黒魔女としての自分と、ヴァネッサとしての自分。

 相反する二つの人格の間で揺らぎながら、殻に籠ったリルの頭を撫でた。


(ごめんなさい。結果的に貴女の良心につけこんでしまったわ。貴女はこの場所を失うことを恐れているから、私が黒魔女だと知っても誰にも言えないでしょ?)

(でも、それでいいのよ)

(大好きよ、リル。可愛い娘……)

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