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8-6 ひび割れた日常

 追い詰められていたヴァネッサは結局、何も入れてない「ただの水」を出した。今は「勝つ」ことよりも「負けない」ことが大切だ、そう自分に言い聞かせながら自分をここまで悩ませた女騎士の元へ出しに行く。

 昼前のレイヴン・バーガーに、暗い悪魔が忍び寄っている気がした。


「クローデット、水よ」

「ああ、感謝する」


 恐る恐るコップ差し出されたコップを受け取ると、クローデットはそれを受け取った瞬間に飲み干してしまった。ヴァネッサの背筋を冷たいものが上る。


 今、自分が相手にしているものは本当にクローデットなのか?

 提供してくれるものを疑わずに摂取してくれるのは本来嬉しいことだ。魔女ヴァネッサとしても店長ヴァネッサとしても……しかし今はそれ以上に不安が勝る。


 異質。

 自分の生きている世界が、知らないうちに変わってしまったような恐怖だ。


「ありがとう、ちょうど喉が渇いていたところだった」

「ねえ、いったいどうしたの」

「どうしたも何もない。それより、君こそそんな顔をしてどうした?」


 間違いない、クローデットはヴァネッサのことを揺さぶりに来ている。何か強いアタックを仕掛ければ今の彼女がを出すと踏んでいる――そう考えないと彼女の行動には説明が付かない。

 どこでそのように疑われたのだろう? ヴァネッサは撤退戦に入った。


「貴女が、クローデットじゃないような気がしただけよ。それだけ」

「ふふ、そうか。君の出したものなら信頼できると思っただけだったが」

「……」

「すまない、君のことを困らせているようだ。しばらくしたら戻るが、少しの間だけここに居させてくれ。寮だと部下たちが居て落ち着かないんだ」

「大丈夫よ、好きにして。それじゃあ……私も仕事に戻るから」


 息をするだけでも辛かった。今にも逃げ出したいヴァネッサは適当なタイミングを見て話を切り上げるとそのまま厨房へ戻る。視界が切れる直前にクローデットをもう一度振り返ってみると、彼女は未だヴァネッサのことを見つめていた。

 服の下が嫌な汗で湿る。無理矢理に笑顔を作ってその場を逃れた。


(どういうことなの)

(あの薬草屋に居たから私が疑われている?)

(いや、それよりもずっと前、私が砂魔女の話を質問した時から?)


 絶えず噴出し続ける疑念の闇。

 屈辱だった……

 相手を一人で徒に消耗させるのはかつての「黒魔女」が最も得意とするやり方。

 だが、そうであるが故に彼女は知っている。最大のチャンスは最大のピンチに転換できる。相手が見つけたと思っている勝ち筋が有効でないことを示し続けることで、逆に向こうの焦りを引き出すのだ。


 厨房に立った魔女は奥歯をぎりぎりと噛みしめた。

 まだ負けたわけではない! ヴァネッサはこれを活かすことが出来る――


「店長、注文が入りました! ハンバーガーセット二つです!」

「……ありがとう、リル。今作るわ」


 リルの快活な声で「店長」に戻ることが出来たヴァネッサは一旦深呼吸をする。じっと耐えることも大切だ。戦いには攻めと守りがあり、今は守りの番だ……。


◆ ◆ ◆


 突然やって来たクローデットが帰り、時間が流れ、夜になって……

 店を閉店した後は新メニュー開発の時間だ。昨晩にリルが思いついたアイデアを実行するために、彼女がフライドポテトを潰してハッシュドポテトを作る間にヴァネッサはスパイスの入った籠を出す。

 昼の緊張は抜けていた。二人で店のことを考える今は、とても満たされている。


「いくつかスパイスの配合を考えてみたわ。一つ一つ試して味を見てみましょう」

「おおーっ……うっ、何か目がしょぼしょぼします」

「そんなに近くで見ちゃダメ。じゃあまずはこれから……」


 やることは簡単だ。いつも通りにハッシュドポテトを作って、その上から赤い特製スパイスを振りかける。ポテトと一緒に練り込んでみる案も試してみた。あまり熱しすぎると辛さが飛んでしまいって二人で涙したこともあったが、なんとかリルの頭の中にあったものを再現する。


 そうしてできあがった赤いハッシュドポテトをパティと一緒にバンズで挟み、そこへほんの少し白のソースアルバス・ソースを乗せて旨味を加えれば……リルのアイデアが形になった「レッドポテトバーガー」の完成だ。


「や、やっとできましたね。大変だった……」

「何度も試す中で舌が馬鹿になるかと思ったわよ……。早速食べてみましょう」


 鼻の頭を熱くしながらも、二人で完成したハンバーガーを半分に分けて食べてみる。柔らかなバンズとパティと共にシャクリとポテトが潰れる音がした。

 肉とポテトの相性が良いことは言わずもがな、そこへスパイスの辛さが舌を刺激して更に食欲を増進させる。そうしてひりついたところへ白のソースのまろやかな味わいが広がって、たっぷりの旨味で心地よい余韻を作り出した。


「う ま ぁ」

「意外とうまくいっちゃったわね。これならすぐ出せるかもしれないわ!」

「やったー! ベアちゃん喜んでくれるかなぁ……」

「きっと大丈夫よ。よし、じゃあ片付けは私がやっておくから、リルは早めに上がってしまいなさい。今日は疲れたでしょ」


 新メニューができて満足したリルは軽やかな足取りで二階へ上っていった。ヴァネッサはその姿を見ながら目を閉じて、この時間がいつまでも続けば良いのにと願っている自分に気付く。クローデットを欲している自分と、リルと二人だけで静かに暮らしたい自分が一つの身体を奪い合っていた。


 ……そして、昼に交わしたリルとの約束も思い出す。

 そろそろ彼女に「母親」のことを話さなければ。


(弱気になってはいけないわ)

(私は黒魔女。欲しいものは全て手に入れるの。クローデットも、リルも……)


◆ ◆ ◆


 ――最近は店長の様子が少しおかしい。

 月の隠れた夜、リルは二階でそんなことを考えながら一人着替えている。


 彼女はヴァネッサのことをとてもよく慕っていた。だからこそ自分に対して隠し事をしていたというのがそれなりにショックだった。だけどその後はいつも通りに接してくれたし、自分が「新しいメニューを作りたい」と言ったことに最後まで付き合ってくれた……これまでに注いでくれた愛を確かめるように思い出を振り返る。


(店長、私には何も言わないけど、なんかピリピリしてるかも)

(……私、店長のことなんにも知らないなぁ)


 着替えを済ませたリルはふと、部屋の隅の籠に古い手紙が山のように乗っていることに気付く。ずっと前にヴァネッサが持ってきたものだ。

 今の自分なら、あれに何が書いてあるか分かるかもしれない――好奇心に駆られたリルは、彼女が一階から上がってこないことを確認してから、恐る恐る一枚を手に取ってしまった。


黒魔女へ


(…………!!!)


 宛名を見た瞬間に戦慄が走った。


(え――?)


 一つだけなら、そういう偶然もあるかもしれない――。リルはすぐに別の手紙を確認するが、その全てが「黒魔女」を示唆するような宛名で始まっていた。

 そこに書いてあることが本当だと信じたくなかった。自分の不学のせいだと思い込んで、今見たものを全部なかったことにしたかった。後に書かれている内容が頭に入ってくるわけもない。


 階段を上る足音がする。

 リルは手紙を籠の中へ放り投げてなんでもない振りを装おうとした。だが、ヴァネッサの正体が黒魔女だと知ってしまった頭は凍り付いたように動かなくなり、地面を這うようにしか動けなくなってしまう。


 そして――籠に積んであった手紙の山が崩れ落ちた。涙が出そうになった。まだ今から積み直せば間に合うかもしれない、彼女にとって「いい」で居られるかもしれない……

 そう思っていたリルは――背中から殺気で貫かれ、声も奪われてしまう。


「リル」


 雷が落ちた。

 雨の降り始めと同時に机上のキャンドルが消え、部屋全体が闇に溶ける。


「――読んじゃったのね」

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