レイヴン・バーガーが通常通りに営業していると、人入りの少ない時間に一人の壮年男性が入店してきた。小綺麗なその男は他の客と比べて纏う空気が違い、リルはカウンターの中でやや緊張しながらお迎えする。
「いらっしゃいませ……!」
「失礼します、デュラン家の者です。ヴァネッサ様はいらっしゃいますか?」
「店長ですか? ちょっと呼んできますね……」
厨房で次のフライドポテトを揚げる準備をしていたヴァネッサはリルから「客」の話を聞くと、首を傾げながらも調理を任せて表へ出た。
デュラン家の者たちはは非常に理知的である……男の身なりは平民に紛れられるよう簡素ではあるが、腕にシルバーのチェーンが細く巻かれていたり帽子もよい素材だったりと、局所局所に上流貴族としてのさりげない振る舞いが見られる。
「お待たせしました、店長のヴァネッサです。今日はどのような用事で?」
「簡単な確認を一つさせて頂ければ。ヴァネッサ殿は、二月ほど前にここの店の所有権を買われたとお伺いしましたが、それは間違いありませんか?」
奇妙な質問だった。普通に考えればなんてことない問いだが、「所有権を買った」という言葉に対して引っかかりが残った。これを知っていると言うことは、デュラン家から来たこの男は商人たちと繋がりが深いことになる。
今の自分が疑われる理由はない……はず。違和感を抱きながらも平然を装う。
「ええ、間違っていません。……もしかして、手続きに不備がありましたか?」
「いえいえ、その答えだけで十分です。貴重な営業時間に失礼しました。では」
不思議な客はそう言って早々に立ち去っていった。形に出来ない不安を腹の底に抱えながら、油はねを食らって「ぶぇぁ!?」と叫んだリルと調理を交代する。
◆ ◆ ◆
いつも通り、夜になったらリルへ読み書きを教える。最初の頃よりもずっと多くの言葉を覚えた彼女はついに、自分一人だけの力で知らないレシピを読むことが出来るようになっていた。
ここまで来たら指導をせずとも勉強を進められるだろう――後ろから口を出すことが無くなったヴァネッサは少し寂しい気持ちで欠伸をした。
「店長、新メニューなんですけど、この間のレッドチキンが良さそうだなって」
「ああ、リルが話してたあれね」
「でも、モキュチキの店員さんに私たちの顔が覚えられてるみたいです。万が一でもメニューをパクったなんて言われちゃったら揉め事になっちゃうかなって」
「それもそうね……」
近くの店と似たようなメニューを出してしまうことは、それが故意でないならばある程度は仕方のない部分もある。ただリルは既にあの店のレッドチキンの味を知ってしまった。同じ手を使えばそのような誹りを免れない。
さてどうするか……悩んでいたリルはしばらくしてお腹を空かせる。
「うう、さっきご飯食べたのにお腹空きましたっ」
「明日まで我慢しましょ。そうしたら朝ごはんを美味しく食べられるわ」
「それじゃあ今日はもう寝ます。早く店長の作るごはん食べたいです……」
インクと紙を片付け、キャンドルの火を消してからベッドに入る。相変わらずリルはヴァネッサにべったりとくっついて離れなかった。
このまま彼女を抱いて眠ろうと目を閉じていたら、腕の中に居たリルがふと何かを思いついたように声を上げる。
「てんちょう」
「どうしたの?」
「この間、店長が作ってくれたハッシュドポテト……あれを辛くしてハンバーガーに挟むのはどうですか?」
以前、夕食のまかないを作るときに余り物のフライドポテトを利用してハッシュドポテトを作ったことがあった。それにスパイスで辛みを付ければ「レッドチキン」にも負けず劣らずのものができるのではないか……
悪くはない考えだ。実際、ヴァネッサも空腹感に顔をしかめていた。
「……明日、また考えましょう。今考えるとお腹が空いてしまうわ」
「はーい」
◆ ◆ ◆
翌日。客を捌いていると、昼前の時間に見覚えのある女騎士が入店してきた。
鎧を纏った、白髪翠眼で背の高い女性……クローデットだ。
(クローデット……!?)
昼の盛りを前にテーブルを拭いていたヴァネッサとリルはすぐに向かう。長雨で体調を崩し、薬を飲んでからずっと寝込んでいた、そう聞いていただけにヴァネッサは眼を大きくして彼女の頭からつま先までを確認する。
「クローデット、体調はもう大丈夫なの」
「……薬が効いた。以前と同じように動ける」
「良かったわ。ところで今日は何の用事?」
「ああ、今日はそこの彼女に渡したいものがあって」
そう言いながら、一通の手紙をリルへ手渡した。彼女はしばらく文面を読もうと眉間に皺を寄せていたが、それでもところどころの単語が理解できる程度で全体の読解には繋がらない。
「我々騎士団の書庫に保管してあったものだ。ここに来るまで、少し君の遍歴を調べさせてもらった……リル、これは君が持っているべきものだ」
「あ、ありがとうございます? 誰からの手紙ですか?」
「前任の、騎士団の料理長――
クローデットの一言で、二人の身体が凍り付いた。リルは、紙に書かれているインクの跡を指でなぞりながら「お母さん」と愛おしそうに呼びかけている。
だがヴァネッサの心情は逆だった。何かとてつもない不穏が彼女の心臓を握って離そうとしない。
「あの、お母さんは最後、どうなって」
「ん……ヴァネッサ、まだあの件を話していなかったのか?」
「え、店長、何か知ってたんですか?」
違和感を覚えたクローデットとリルがじっと見つめてくる。
腹を割かれたような痛みが走った。このままでは疑われてしまう――たちまち窮地に陥ったヴァネッサだったが、ここで慌てる彼女ではない。冷静に道化を演じて状況の打破を図る。
「ごめんなさい、話が話だったから、リルにいつ伝えるべきかずっと悩んでいたの。彼女は、ほら。あの時ジラード家に勤めていたのでしょう?」
「……そうか」
「店長? 何か知ってるなら教えてください」
「分かったわ、リル。今日の夜に話しましょう。……ごめんなさい、貴女を心配していたのだけど、かえって不安にさせてしまったわね」
「? わかりました」
なんとかリルの警戒を解くことは出来たようだ。だがクローデットはどこか納得していない様子で、顎に手を当ててじっと考え込んでいる。
ヴァネッサがここで切れるカードはない。何かハッタリをかますことも考えられるが、今の彼女相手に迂闊な隙を見せれば取り返しが付かないことになる。
最善手はごまかし。じっと、身体がばらばらになりそうな時間を耐え忍ぶ。
「……クローデット?」
「ああ、すまない。考え事をするとつい黙ってしまうんだ」
「少しゆっくりしていく時間はある? 席を一つ貸しても大丈夫よ」
「そうか」
ヴァネッサはクローデットがこのまま帰るものだと踏んでいた。だが彼女の反応を聞いて、自分が風を読み違えたことを悟る。
「ではヴァネッサ。水を一杯貰ってもいいか?」
「……え?」
それはあまりに予想外の提案で、最大のチャンスで、最大のリスクだった。
決して外食をしないはずのクローデットが
非常に用心深い彼女のことだ、何か裏があるに違いない……。ヴァネッサは水に惚れ薬を仕込むことも出来るが、先程からクローデットはどうもこちらを疑っているように見える。
もし仮に――コップの中に薬を仕込んでいることが何かしらの方法で分かってしまえば、ヴァネッサの全てがここで終わる。
「わかったわ。ごめんなさい、貴女からそんな注文を受ける日が来ると思ってなかったから……今持ってくるわね。リル、あとは普段通りにやってて大丈夫よ」
「はい」
リルには表のテーブル掃除へ戻るように指示し、ヴァネッサは一人で厨房に入る。そしてコップ一杯の綺麗な水を用意して……薬棚に並ぶ「惚れ薬」の瓶を見た。
額には汗が浮いている。
リスクとリターンを天秤にかける。
激しくなった胸の鼓動が、魔女の頭をどうにかしてしまうかのようだった。
(どうしたら……)