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8-2 クローデットという女

 夜の騎士団長室――。椅子に座っていたクローデットは薄い明かりの中でじっと一人考え続けていた。白髪に指を通しながらどこへ焦点が合っているか分からない目をしていたが、彼女は狂っている程に正常だ。


 ただ、頭の中で霞んでいた二年前の記憶を何遍も何遍も繰り返している。

 闇の中に佇む黒魔女の顔、背丈、そして声色。生きるか死ぬか分からない環境での記憶は今となればそれが本当だったかさえ怪しい。しかしそのおぼろげな像を薄い目で見れば、クローデットの脳裏には一人の女性の姿が浮かぶ。


 ヴァネッサ。軽食屋「レイヴン・バーガー」の女店主。

 何度か言葉を交わした程度しか交友はなかった彼女だが、今のところクローデットが知る中で最も「記憶の中の魔女」に近い人物だ。とは言え城下町を探せば外見が似ている人は山のように出てくるだろう。そもそも今の黒魔女が二年前と同じ姿をしている保証もない。


(まだ証拠もないのに市民を疑うなど、私も随分擦り切れたものだな)

(分かっている、余裕がないんだ。いるのは知っているのに……)


 黒魔女は毒と策謀で多くの民を惑わして王国を混乱へ陥れた。しかし彼女が去ってから二年、かつての討伐部隊の一人でしかなかったクローデットは騎士団長になった今でも当時の影を引きずっている。

 これは呪いだ。断ち切ることのできない赤い鎖だ。黒魔女という存在に対して慎重すぎるほどに警戒し、彼女の影に最も敏感になっているのは自分なのだ――。


(早く決着を付けないと、私が、壊れてしまう)

(手段を選んでいる暇などない。手がかりを、一刻も早く集めなければ)

(動くための道具は手元に揃っている、はずなんだ……)


 クローデットは必死に頭を捻る。

 何かあるはずだ。黒魔女に繋がる、細くも確かな糸が。


◆ ◆ ◆


 デュラン家。

 アルダブル四大貴族の一つで、騎士団との関わりを絶っている家。

 雨が降っていた日の夕方――執務室では当主ロベールが眼鏡を動かしながらバラック街の調査報告書に目を通していた。そんな中、使いの者から受けた報告は彼に怪訝な表情を浮かべさせる。


「騎士団長殿が帰ろうとしないだと?」


 以前にも、騎士団長クローデットはデュラン家との交流を再開しようと手紙を届けたことはあった。全て衛兵に突き返すよう指示されていたため、ロベール自身はそれを見たこともないが。だからこそ、クローデットが来ていること自体は驚くことではない。問題は、彼女がいつまでも帰ろうとしないことだ。立場を知らない悪戯にしか思えなかった。


「何度も戻るように言いました。当主様がお相手することはないだろうとも伝えました。しかし、"今回は騎士団長としてでなくクローデット個人として頼みがあって来た"と言ってから、何も言わず動かないんです」

「……」

「外は雨です。このままでは、いくら彼女のような屈強な御方でも――」

「構わぬ。そのままにしておけ」


 クローデットの奇妙な振る舞いはロベールの心理的障壁をノックするだけに留まり、有効手にはならなかった。結局その日は一度も彼が顔を見せることはなく、長雨が降る中、日は厚い雲の後ろで沈んでいった。


◆ ◆ ◆


 次の日の朝。未だ、雨は降り続いていたが……


「ロベール様。クローデット殿が、まだ」

「なに……」


 朝になって見張りに立ったはずの衛兵が、まるで恐ろしい幽霊でも見たかのように震えながらそう知らせてきた。尋常では無いことが起こっている――ロベールは二階のカーテンを人差し指で僅かにずらし、小さな隙間から門の付近を窺う。


 すると、女が立っていた。

 雨除けの帽子と外套を濡らしながら亡者のように立つ影があった。

 何かに取り憑かれたような彼女は誰もいない場所をじっと見つめながら雨に打たれている。身体の濡れていないところは探す方が難しく、ろくな食事も取れていないはずなのに、彼女は意志を絶やさずに立ち続けている。


 ロベールは騎士団の人間を前に何十年ぶりかも分からぬ戦慄をしていた。

 だがそれでも動くわけにはいかない。明日になれば流石に帰っているだろうと自分に言い聞かせながら執務室へ入った。

 結局、外に立つ彼女のことが度々頭をよぎって仕事は捗らなかったのだが……


◆ ◆ ◆


「ろ、ロベール様……」

「まさか……」

「今日も、クローデット殿が、門の前に居ます。もう三日目です。雨だって降っていました。常人なら死んでいます。あれは、もはや人間ではありません……!」


 三日目の朝。

 空は晴れ渡っていたが、デュラン邸の中は土砂降りが降ったように暗く沈み込んでいた。報告中に腰を抜かして立ち上がれなくなった衛兵の話を聞きながら、ロベールは自らの背筋が凍り付くような感覚を覚える。

 クローデットの話は他のデュラン家の人々にも伝わっていたようで……館に居る一族の意見を緊急的に聴取した彼は、それらを踏まえた上で衛兵に再度声をかけた。


「もうよい。出る」

「よいの、ですか」

「このまま死なせでもしてみろ、デュラン家の名に泥を塗ることになる……」


 そうして遂に、デュラン家の重い戸が開かれた。

 門の真ん中には俯いたまま仁王立ちし続ける不屈の女がいる。彼女は戸が開いた瞬間にロベールの顔をじっと見据え、人間のあらゆる感情を煮詰めて頭から被ったような佇まいで存在していた。

 どう声をかけたら良いか分からないまま一歩ずつ歩み寄る。クローデットは初めて腕を上げて帽子の位置を直すと、低い声でゆっくりと話を切り出した。


「ロベール卿。お久しぶりです」

「……入りなさい」

「有り難いことですが、そのような配慮は必要ありません、ここで済みます。貴方に一つ、クローデットとして、仕事をお願いしたい……あなた方デュラン家でなければできないことです」


 一つ、と聞いてロベールは驚きに瞼を開いた。それだけを伝えるために彼女は雨の夜を二度も越えたのだ。

 そうなれば、どのような「お願い事」がこんな行動をさせたのだろうか? そんな疑問が生じると同時に、いったい何を要求されるかという別の不安も生じる。しかし今更聞かないわけにもいかず、彼は腹を括る。


「……分かった。聞こう」

「城下町の全ての住居と店舗の中で、直近二年間……黒魔女が去ったとされる日から今までの間に、所有者と契約者の変わった場所を全て教えてください。このことは、民の暮らしを支える立場にある貴方たちにしか分からない」

「なんと、それだけの為に――しかし、貴女にとってはそれほどに重要なことだったのだろう。……分かった、詳細な情報と地図を添えて、騎士団に送る」

「感謝します、ロベール卿。報酬はあとで私個人の名義で届けます」

「……貴女は極めて理知的な人と聞いていたが、どうやら、類い希な情熱を腹の底に秘めた人物でもあったようだ。今度からは貴女の名前の手紙は取ることにしよう。毎回毎回門の前に立たれては面倒だからな」


 門の前で行われた会談はあまりにも短く終わった。用件を済ませたクローデットは満足した様子で口元だけの笑みを浮かべてから、振り返って元来た道を歩いて帰り始める。ロベールはふらついた後ろ姿に気付くとすぐ彼女を呼び止めた。


「クローデット殿、馬車を出そう。ここから騎士団寮までは遠い。それに、貴女は三日も立っていたんだ……我々はそれくらいの礼儀はしなければならない」

「大丈夫です、一人で帰れます。それに……」

「?」

「……三日ではありません。です」


 そう言い残したクローデットは無事を装いながらも消耗した様子で一歩ずつ踏みしめるように帰っていく。空で日が輝く青空の下、あまりに薄汚れた後ろ姿が遠ざかっていくのを見ながら、ロベールは呆然と立ち尽くしていた。

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