騎士団長室で重厚な椅子に腰を下ろしていたクローデットは、今月分の騎士団の予算に一通り目で確認してからサインしていた。
(また減ったな……)
西砂漠の生態調査は継続されることになったが、それ以外の"些細な"部分……武器の交換や備品の補充に使える額が若干減っていた。
ジラード家当主のオーレリアンが暗殺されて貴族会議のバランスは変わり、騎士団を縮小しようという動きがにわかに感じられた。その一方で、彼の死亡はクローデットにとってはそれ以上の痛手だった。最後に聞きたいことが一つ残ったまま、それを知る人物が逝ってしまったのである。
(砂魔女の件、結局奴に直接聞けなかったな)
(これで二年前の件は迷宮入りか。釈然としない……)
端正な顔にやりきれなさが浮かぶ。
過去へ繋がる扉の一つはもう開くことが無くなってしまったが、もう一つ別の扉が開こうとしている。クローデットの思考は既に次のことを考え始めていた。
黒魔女。
何年も時間を掛け王国で反乱を起こした女は、城下町の貧しい労働者層や壁外のバラック街に住む人々、欲深き貴族たちを言葉巧みに扇動して混沌をもたらした。記録上、直接的な戦闘で死亡した者は他の魔女よりずっと少なかったが、疑心暗鬼に陥った政治界では"副次的な死"が連鎖的に起こることになった。
(奴がもうこの町にいるとするなら、いずれは二人目の犠牲者が出る)
(城下町は広い。まだ情報が足りなさ過ぎる。かと言って大きな動きを見せれば彼女はまた歴史の闇へ消えていく。それに、今このタイミングで黒魔女の存在を警告したとしても、誰も……)
クローデットは押し黙ったまま、頬杖をついて重い溜め息を吐いた。
政治的なサポートを得るならば、アルダブル四大貴族のどこかに後ろ盾となってもらうのが手っ取り早い。だが、事実上の協力関係にあったジラード家はオーレリアンの暗殺によって力を失い、二年前の件の禊ぎに苦しむフランクル家も現状は信頼しきれない部分がある。
残る二家だが、デュラン家はそもそも騎士団に好ましい印象を持っていないため交渉自体が現実的でない。最後のブリアン家は……と考えた時、当主アスールと会談した時に言われた言葉が蘇ってきた。
『魔女を倒せば、次の魔女が現れるまでは真に平和な時間が訪れましょう。しかしそれは騎士団が頼られなくなるということ』
黒魔女は倒さなければならない。
だが、仮に騎士団の総力を挙げて黒魔女を発見し、討伐に成功したとして……それ以降の騎士団はどうなるのだろう? 魔女の脅威が去ったことで騎士団はより求心力を失い、今よりもずっと酷い道を歩くことになるかもしれない。
クローデットはそんなことを考えたくなかった。黒魔女をこの手で倒す、その為だけに二年間生活の全てを律してきた彼女は今更それを理由に立ち止まれない。彼女を倒さない限り、"白騎士"としての過去に決着を付けることはできないのだ。
(……雑念を捨てろ。必ず、尻尾を掴むんだ)
思い出の中で嗤う女を睨みながら立ち上がり、小さな歩幅で書庫へ向かった。
前回は偶然にも「前騎士団長からのメッセージ」を見つけることが出来たが、少なくとも今回は偶然に頼る必要は無い。クローデットは隅の方に置かれていた木箱を引っ張り出して蓋を開けた。
そこには大量の手紙が入っている。どれもこの場所にしまわれてから久しかったが、それらが誰に向けたものであるかは一目瞭然だ。
(砂魔女《サンド・ウィッチ》……失礼する)
(貴女は何か、彼女のことを知っていないか?)
砂の混じった箱から一通一通取りだし、誰と交友関係があったのかを今一度確認する作業に入る。膨大な数の手紙を読まなければならなかったが、少なくとも、有限であることは分かっている。
◆ ◆ ◆
砂の魔女へ
森の煩い蝉が消えて、こちらは随分と過ごしやすくなりました。しかし城下町は人で溢れていることでしょう、無理はなさらないように。
貴女はよく恋人の話を手紙に書きますが、私には未だそういう存在は理解できません。きっとこのまま森と共に朽ちてゆくのでしょう。今のところ、一人での暮らしにも百年は不自由していません。
しかし残念なことに、森では新しい魔法を作っても試す相手が居ません。最近は腕を競える相手も減りました。まだ貴女が砂漠に居たら苛立ちを発散できたのに。もし茨の魔女を見つけたら、私が再戦を願っていることをお伝えください。
最後に、以前貴女が託したサンドワームはすくすく育っています。元飼い主として、たまに様子を見に行ってあげては?
ブラックソルトを添えて送ります。魔除けとして使ってください。
黒魔女
◆ ◆ ◆
(あった。魔女の間でこんな手紙が交わされていたとは)
(この手紙はところどころ震えているが、他のものはより丁寧に書かれている)
(……しかし、綺麗な字だ。あの女が書いたのか? 本当に?)
いつ頃に送られたものかを推測することは難しいが、手紙を書いたこの地点では森から出るつもりがなかったのも読み取れる。そして何より、黒魔女が一人の女性として暮らしている姿がクローデットの頭の中で形を作り始めていた。記憶に刻まれた残忍で狡猾な黒魔女は、あくまで彼女が見せる姿の一面でしかない。
『騎士とは、幾ら叩き潰してもその下から虫のように這い出てくるものなのね。どれほど策の網を張り巡らそうと、必ずその目を抜けて、この私を苛立たせる……!』
『薄汚い鼠へ格下げね。私をここまで不愉快にさせた人間は初めてよ!』
『名前は確か、クローデット、だったかしら?』
彼女の本当の姿はどちらなのだろう? そんな考えが生まれ始めた時、書庫に慌てた様子の槍兵が駆け込んできた。その手には一通の手紙がある。
「団長、ここにいましたか」
「どうした?」
「フランクル家から手紙が届きました。使いの者曰く、レイモン卿が話をしたいとのことです」
「レイモン卿が? 分かった、手紙も読もう」
「よろしくお願いします、団長」
クローデットは砂魔女の手紙の通読を諦め、箱を元の場所へしまう。
そして届いた手紙を開き、軽く目を通し……何も言わずに書庫を出ていった。