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6-6 「黒魔女」

 夜のアルダブル城下町郊外、ジラード邸の玄関に籠を持った背の高い女が居た。その風貌は闇そのもの。頭からつま先まで黒の装いに染め、顔のほとんども暗い色の布で隠している。

 手元でランプを灯した女性は静かに戸を開け、明かりの落とされた館へ入る。階段を上り、三階の奥――オーレリアンの私室の戸を中指の関節で軽く叩いた。


「もし」


 客人の声を聞いて、主の男性が戸を開けて出てくる。周りに見られないうちに二人は部屋に入り、何事も無かったかのように扉を閉めた。


「よく来てくれた、ヴァネッサ殿」

「こちらこそ、お願いの通りにしてくださって有り難うございます」

「貴女の頼みならなんでも聞こう。そこに掛けてくれ、ゆっくり話をしよう」

「はい……」


 部屋は何本もの蝋燭で明るくされており、彼が普段の生活で使っているベッドやテーブル、小さな書斎のスペースが設けられていた。暖炉の中では小さな炎が絶えず燃え続け、両開きの硝子窓からは満月の光が直接差し込んでいる。


 ヴァネッサは贅沢な装飾の施された椅子に腰掛け、腿の上へ籠を乗せた。滑らかな濡鴉ぬれがらすと陰のある端正な表情が月光に浮かび上がっていた。小さなテーブルの向かいでは、それを見たオーレリアンが両手をゆっくり、念入りに擦り合わせている。


「今日来たのは、大切な話を聞いてもらいたくて」

「ああ。言ってみるといい」

「ずっと考えてましたが……ジラード家で是非、ご一緒させて頂けないかと」


 それを聞いたオーレリアンは目を開き、身を乗り出すようにして感嘆の声を上げていた。ヴァネッサは腹の中で笑みを浮かべながら視線を落とし、籠の中に入れてきた献上品の確認をする。

 そして――恥ずかしそうに目を逸らしながら、ヴァネッサは持ってきた籠ごとオーレリアンへ差し出した。


「私の、気持ちです。受け取ってください……」

「おっほ……ほほ、分かったぞ、ヴァネッサ殿。そうか、決めてくれたか!」


 籠を受け取ったオーレリアンは心底嬉しそうに籠を受け取り、まだ温かいハンバーガーを包み紙ごと手に取った。ヴァネッサは立ち上がって窓辺に向かい、月に見守られながら両手を頬へ当てる。

 その様子はまるで、夜にしか咲かない白く美しい花。木々の隙間から差し込む月光を頼りに開き、たった一日で閉じてしまう夢と幻。


「ああ。やはり貴女は美しい。私はここ数日、ずっと貴女のことを考えていた」

「照れさせないで。言われ慣れていないの」

「じきに慣れる。……そうだ、折角だから貴女も食べてみてはどうか」


 断る、という選択肢がヴァネッサの頭をよぎった。

 あのハンバーガーには毒が入っている。それを食べると言うことがどれだけ危険か分かっていたが、彼女はにこりと笑ってこちらへ来るように手招きした。


「是非。ですが私は食べ慣れておりますので、一口だけ」

「構わぬ、分け合うという行為が素晴らしいのだ……」

「では、頂きますね」


 窓辺に立つ二人。彼が持っているハンバーガーをヴァネッサは一口囓り、丁寧に咀嚼してから飲み込んだ。彼女が唇に付いたソースを蠱惑的に指ですくっているのを見ながら、オーレリアンも大きな口を開けてかぶりつく。

 しばらく、二人は満月を見上げながら談笑した。「贈り物」を完食したオーレリアンはどこか不気味に笑いながらヴァネッサの肩に手を乗せ、静かに引き寄せる。


「ヴァネッサ殿、こちらを向いてくだされ」

「いけません、恥ずかしい……」

「まあまあ、良いじゃろう。ほら――っ?」


 突然、オーレリアンの言葉が詰まった。身体の動きが木人形のように止まる。


「こ……これ、は……」


 手が上がっていない。そして、胸元に込み上げる強烈な違和感――

 思わずヴァネッサの身体にすがりついた男だったが、次の瞬間、彼女によって窓際へしまった。


 細く長い腕が、オーレリアンの喉へ向かって伸びていた。

 彼を見据えるのは、死者のように白く揺らめく冷酷な目つき。オーレリアンは、自分が毒を盛られたことに初めて気が付いた……!


「ヴァネッ……サ……!」

「その昔、毒の林檎を食べて眠らされた、哀れで可憐な娘が居たわ」


 オーレリアンは睨み付けようとするが目に力が入らない。身体がどんどん動かなくなっていく。ゆっくりと心臓が鼓動する度に力が抜け、死が近付いてくる。


「その子は森の中で眠って……王子様の口付けで目を覚ます。それで物語はハッピーエンド、二人は末永く幸せに暮らすことになるのよ」


 ヴァネッサの着ていた美しいドレスは闇色のローブへ替わっていた。それこそ、御伽話で語られる魔女が着るような、"いかにも"な装いだ。つばの広い三角帽子を被っていた彼女はオーレリアンの身体を片手で持ち上げながら、もう片方の手で指を鳴らして部屋中の蝋燭の火を消してしまう。

 寒い風が吹いた。オーレリアンは初めて、彼女の背後で嗤う死神を見た!


「貴方は疎まれ者よ。目を覚ましてくれる人は誰一人居ないわ、オーレリアン」


 彼は全てを理解した。だが……全てが遅すぎた。


「――死になさい」


 開いた窓からオーレリアンの太った身体が突き飛ばされる。

 彼は最後の最後、腹の底から声を絞り出しながら、腰に差していたナイフを抜いて投げつけた。掠れた叫びは誰にも届かず、彼の運命を変えるものにはならなかったが……ナイフの刃はヴァネッサの頬を掠めて黒い血を纏った。


「豚の分際で、余計なことしないでもらえるかしら」


 オーレリアンは、三階の高さから頭を下に落ちた。

 その一部始終を見届けた後、ヴァネッサは頬に付いた傷に人差し指を当てる。そのままゆっくりと滑らせていくと……先程付けられた外傷が、元に戻っていった。


 まだすべきことは残っている。

 床に落ちていたナイフを炉の中へ放り込み、ハンバーガーの包み紙と籠を回収した彼女は自らのローブの胸元へ手を入れ、一本の細い瓶を取り出す。

 中に入っていたのは、ジギタリスの毒を緩和する逆薬。それを飲んでけぷりと息を吐き、暗闇の中で歯を見せるように笑った。


(最期までしぶとかったわね、オーレリアン)

(でもこれで終わりよ。貴方はもう、私とクローデットの間を邪魔できない)

(……あの子を、怖がらせることもない)


 満月が雲に隠れた瞬間、ヴァネッサは自らの身体と荷物をカラスの群れに変えて開いた窓から飛び去っていった。それを目撃した者は誰もいない。オーレリアンは翌日になってから遺体として発見されることになる。


(次は貴女よ、クローデット)

(ようやく貴女に手を伸ばせる! 貴女の愛は全て私の物になるわ……!)


 黒魔女が糸を引いた王国の内乱から、既に二年余りが過ぎている。

 彼女が城下町に潜伏していることを知る市民は、今や誰一人存在しない。

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