「店長、これからお出かけですか?」
「ローラのところ。この間看病してくれたお礼をしてくるわ」
「気をつけてくださいね!」
昼過ぎ。リルと二人で客の多い時間帯を乗り越えた後、ヴァネッサは名前のない薬草屋へ向かった。馬車の走る表通りから細い路地へ曲がり、掠れた看板を横目に古い扉を開けて中に入る。
ちょうど同じタイミングで中から人が出てきた。深緑の外套に身を包んだ黒髪の女性は、何やら粉の入った瓶を籠に入れてどこかへ去っていった。
「いらっしゃい、ヴァネッサ」
「さっきの人は?」
「どう見ても客だろ。なんでこの店に気付いたかは知らんが、いつもスパイスを買っていくんだ……おっと、客のことを喋るのは好ましくないな。それで、どうした?」
「この間の
カウンターの向かいで、揺れ椅子に腰掛ける
「どうだ、ぐっすり眠れただろ」
「お陰様でね。危うく昼と夜がひっくり返るところだったわ」
「おお怖い怖い、そんな風に睨まないでくれよ。ビビっちまう」
「……冗談よ、今はそれはどうでもいいの。話に進展があったわ」
ヴァネッサは店に他の客がいないこと、出入口の戸がしっかり閉められていることを確認してから、椅子に腰掛けて前のめりになる。話題が何であるかは確認するまでも無かった。
「予想してた通り、黒はオーレリアンよ。当時の関係から騎士団の内情を知り、壁外のならず者を刺客で送り込んだ。たった一日、警備が甘くなった時を狙って」
「――うん、やはりジラードが噛んでたか」
「彼とは満月の夜にもう一度会うわ。……この間言ってた物はある?」
「ああ。丁度昨日届いたところだ」
彼女はそう言って、何か細く長いものを包んだ厚紙の袋を台に置いた。
ヴァネッサが丁寧に開くと強いピンク色の花をいくつも付けた草が出てくる。釣鐘状の花は一つ一つが指抜きのように長く、不気味に下を向いて垂れ下がっている。
ジギタリス。以前、ヴァネッサがここで注文をしていたものだ。茨の魔女は珍しく立ち上がると、その台に乗った商品を見下ろしながら声を低くする。
「……昔から、傷薬で使われていた植物だ。心臓の病を抑える時にも使える。だが中毒になれば無事では済まん。良い死に方はしない」
「私を誰だと思ってるのよ。説明はいいわ」
「はは、職務上の決まりでね。ともかくこれで取引完了だ。金は次のスパイスを買う時にツケておくよ。名目は……そうだな。お前の看病代ということにするか」
「好きにしなさい。でも助かったわ、前と違って何処に行ってもないから」
「誰かさんが、毒殺なんて野蛮なやり方を貴族連中に流行らせたからね……。気をつけろよ、知ってる奴に見つかるとちょっと面倒になる。私もそれを"薬"と説得して買ってるからな」
「ええ」
必要な物を受け取ったヴァネッサは、その脳裏にかつての「現役時代」を思い出す。しかし不思議なことに、当時の自分と今の自分が連続していないような奇妙な感覚に陥って回想は打ち切られた。
誰かが店に入ってこないうちに紙を閉じ、懐へしまい込む。茨の魔女は他にカモフラージュ用の包みを二つ用意し、帰りに持たせてくれた。
◆ ◆ ◆
レイヴン・バーガーに住み込みで働いていた少女リルは、最近不思議な夢を見るようになっていた。……いや、夢と断定するには妙に実感があって、まどろみの中の記憶が本当の出来事を捉えていたかは彼女自身もはっきりとしていない。
浅い眠りについていると、誰かがこちらへ背を向けて夜なべしていた。小さな燭台の蝋燭に火を灯し、両手を使って何かを
幼い頃、転んで手を擦りむいた時に母が傷薬を塗ってくれたことを覚えている。その時も夜になると、ぎい、ぎい、と石の擦れる音が聞こえてきたのだった。
『……おかあさん?』
布団の中でリルが呼びかける。彼女は作業の手を止めてゆっくりと振り向いた。ぼやけた視界と逆光で表情は分からなかったが、自分を大切に思ってくれていることは伝わってきていた。
『ねないの?』
『もう少しだけ』
その声は、彼女が最もよく知る二人のものによく似ていた。返事をした後は再び背を向けて作業に戻る。
ぎい、ぎい……
リルは横になったまま丸い背中を眺め、再び深い眠りへ戻っていった。
◆ ◆ ◆
そうして、朝になって。
温かい布団の中でリルが目を覚ますと、隣ではいつも通りヴァネッサが横になっていた。長い腕で自分を優しく包み込む彼女へ擦り寄りながら、さっきの「夢」を思い出しては軽い罪悪感に苛まれる。
窓の外からはカラスの鳴き声がした。空の色はまだ蒼かったから、もう少しだけと身を寄せた。
「……二人して寝坊するなんて、うっかりしてたわ」
「ふええ、ごめんなさい……」
「謝らなくていいわよ」
気持ちの良い朝を寝過ごした二人は昼になってようやく店の看板をひっくり返した。遅れて営業を始めた店はいつも通りに賑わい、まるで何事も無かったかのように店内は元の慌ただしさを取り戻す。
ヴァネッサが外に出る用事はなかった。
リルはそれが嬉しかった。二人での仕事は一人ででスルよりも楽だったが、それ以上に……