あれから幾日か経ち、ついに半月の夜を迎えた。
雨が降るかはっきりしない夕暮れ、店を閉めたヴァネッサは少し早い晩ご飯を用意していた。午前の営業の余りである
(約束の時間までまだ少し空いてるわね)
(さて……あの子には悪いけど、念には念を入れてアレを試そうかしら)
ヴァネッサはリルの皿へ焼いた切り落とし肉とフライドポテトを添えると、彼女の皿で広がるブラウンのソースへ白い粉をひとつまみ入れた。軽く全体をならして自然を装ってから、店のカウンター席に座って待つ彼女と合流する。
「わっ、美味しそうな匂い……!」
「今日は空が暗かったから、気分を上げるためにちょっと良いソースを使ったわ。早めに食べて今日は
「はい! 店長の料理はなんでも美味しそうですねっ! それじゃあ早速……」
フォーク片手に口角を上げていたリルは、期待に胸を膨らませながら皿の中の一塊を口にして……染み込んでいた肉の油が炸裂すると同時に顔をほころばせた。仕事明けのリルは一口一口を味わいながらも飲み込む程のスピードで皿を平らげ、目を閉じて宙に浮いたような満足感に浸り始める。
リルの料理に仕込んだ白い粉は睡眠薬だ。
以前に旧友から
「やー、すごくおいしかったです! また作ってください!」
「気に入ってくれて良かったわ。じゃあ、今度はもう少し凝ってみようかしら」
「やったー! 今度レシピも教えて、ん、ふぁぁぁ……」
丁度、ヴァネッサの皿が空になった頃だった。喋っている途中でリルが大きな欠伸をして、目の端に大粒の涙を浮かべる。ヴァネッサは優しい笑みで顔を覗き込む。
「片付けは私がしておくから。先に眠ってて良いわよ」
「んん。でもっ、店長と……」
「……仕方ないわね、洗い物は明日にしましょう。横になりましょ、リル」
眠気に抗いながらもリルはヴァネッサのことを呼び続けている。どうしてか、今のヴァネッサはそれを真正面から断れなかった。使った皿を水で浸し、私室へ戻ってから着替えを済ませて同じ布団に入る。
念願叶ったリルは早速彼女を抱き枕にした。猫撫で声で唸る少女に絡まれながら、ヴァネッサは目を伏せる。
(リル。こんなこと言えないけれど、私は貴女の将来が不安なのよ)
(私は魔女。いつまでもあなたの傍に居られる保証なんて無いの)
(……どうして、私はこんなに他人の心配をしてるのかしら)
小さな声で名前を呼んでみた。彼女は幸せそうに口をもぐもぐ動かした。
彼女が深い眠りに入ったことを確認してからヴァネッサは慎重に布団から抜ける。キャンドルに小さな明かりを灯し、よそ行き用の簡素な黒いドレスに着替えてから乱れた髪を直して、今日一時を凌ぐための化粧も手短に済ませた。
(他のことを考える余裕は無いのよ)
(クローデットの心さえ手に入れられれば、私は……)
準備を整えてから、小さな明かりを消して闇にしばらく佇んだ。
◆ ◆ ◆
空の籠を持って階段を下りる。予め用意していたワインを厨房の棚から回収し、あまり音を立てぬようにゆっくりと戸を開けて外へ出た。
黒魔女ヴァネッサは、夜のジラード邸には来たことがない。城下町から魔女を排斥する「反魔女派」はオーレリアンの台頭以前からジラード家と交流があったため、ここへ手を付けること自体が他の場所よりもリスクの高いことだったからだ。
門の前には守衛が立っている。ヴァネッサが挨拶をすると彼は事情を知っている様子で館の中へ入り、見たことのある太った男を連れて戻ってきた。
ジラード家当主のオーレリアン。彼は、暗い庭の中で喜ばしい笑みを浮かべた。
「貴女と会えるこの日を楽しみにしていた。用意はできている、早く中へ」
「はい……」
押しが弱そうな様子を演じるように返事して、ジラード邸へ滑り込む。
館の中は静かだった。ヴァネッサはオーレリアンの後に続き、誰ともすれ違わずに食堂へ入る。そして部屋の真ん中、白いクロスの敷かれた長机でオーレリアンと向かい合うように座った。
ワインの入った籠は一旦床へ静かに置いて「繰り出す」頃合いを伺う。これは会食が終わるまでに必要な情報を引き出すキーアイテムだ。
目的は――「砂魔女の最期にジラード家が関わった証拠を引き出すこと」。ヴァネッサがクリアしなければならない条件は多いが、その程度、彼女には問題ではない。
「本日はこのような場を作っていただき、ありがとうございます。オーレリアン様」
「ははは! ヴァネッサ殿のような麗しい方と二人の時間を過ごせるのだ、何も苦ではないぞ。私も貴女とお話できる機会を楽しみにしていた……貴女のことを何度夢に見たか分からない」
魔女は、照れるような表情を作る一方で――腹の中では残酷な笑みを浮かべていた。