クローデットとベアトリスの二人がお忍びで来店している中、何も知らない女店長ヴァネッサは習慣的な夜更かしが祟って二階での休養を余儀なくされていた。
朝方に強烈な眠気で寝落ちしたヴァネッサは、窓から射す赤い西日を受けて初めて茨の魔女に睡眠薬を盛られたことに気付いたのだった。たちまち彼女は怒り、狂い、それはもう窓からそのまま外へ出ていかねない程ではあったが……身体を起こした瞬間に気だるさが全身へ襲いかかると、それらの全てを投げ出してもう一度枕に頭を預けていた。
そしてそのまま夜になって、今に至る。
一階の店に想い人がお忍びで来ていることなど夢にも思わない彼女は、ようやく動くようになった身体で机の前に座った。そこには、リルが持ってきてくれたのだろう一枚の手紙が置かれていた。近くのキャンドルに火を灯す。
(封蝋は……ジラード家のものね。中身は――)
送り主はオーレリアン・ジラード。いつものように、文章の大半に読むべき価値はなかった。その中でヴァネッサは目当ての話題を探して……見つける。
以前手紙に書いて送った「会食」の日程について、半月の夜に行いたいという提案は通ったようだ。土産のワインも楽しみにしている様子で、前回の手紙を書いた時に彼女が目論んだことは一通り実現できそうだった。
(あとはその時に考えましょう。さて……)
(……そう言えば、"彼女"からの手紙をちゃんと読んでなかったわね)
ヴァネッサは部屋の隅に置いてある籠へ手を伸ばし――私室への入口を見てリルが上がってきていないことを確認してから、人差し指と中指で招くように動かす。たちまち部屋の中に風が吹き、手紙の束だけが入った籠は軽く床に擦れる音を立てながら彼女の足元まで引き寄せられた。
束を全て机の上に上げ、古い順に並べ替える。そうして一番最初にもらったものを出して開いてみる。紙はやや黄色に汚れていた。
◆ ◆ ◆
黒の森の魔女へ
お初にお目に掛かります。唐突な手紙に驚いたかもしれませんが、私もこのようなことになるとは思ってもいませんでした。手紙はしもべに持たせましたが、貴女のもとに届いていることを願っております。
さて、私は近々アルダブルの城下町へ移り住むことになりました。そのため、かねてよりお世話になっていた者へこうして手紙を送っているのです。無論、貴女がたの秘密は守っておりますのでご安心ください。
そういうことで、貴女が砂漠へ向かわれたとしても私はそれを歓迎できません。無駄足にならぬよう先に伝えておきたかった次第です。もし機会があれば、うちのサンドワームのつがいを散歩させてやってください。
城下町を見てきましたが、あちらの暮らしは良さそうです。もし貴女も来たなら、きっと気に入ることでしょう。今後も街のことや身の回りのことについて、書ける範囲で手紙にできればと思います。
素っ気なくても構いませんのでどうか返事をください。居を新たにすると、どうしても旧い知り合いが恋しくなりますので。
そう言えば、町では手紙の最後にこの定型文を添えるらしいです。
"女神ラファーラの風が届きますように。"
砂の魔女
◆ ◆ ◆
ヴァネッサは再び紙を三つ折りに戻すと、次の手紙を開いた。
それを何度も、何度も繰り返して……
◆ ◆ ◆
黒の森の友人へ
短い秋が終わります。北は冷えるのでしょう、暖かくしてお過ごしください。
手紙を読みました。内容はいつも通りでしたが、いささか字が震えているようで心配しております。これが寒さによるものだと願っておりますが……力の制御が利かなくなれば、貴女はかつての私のように周りを混沌に陥れてしまうでしょう。前向きに解決したいのであれば、犬か猫を飼ってみてはどうでしょうか?
城下町で暮らして何年も経ちますが、旧友で手紙をくれるのは貴女だけになりました。幸いにも私は街で様々な人間の仲間に恵まれましたが、やはり魔女でなければ理解しがたいことはあるようです。私も、こちらの調理場の釜が小さいことには未だに慣れません。
また、私の伴侶が王国北西の「悪魔の道」へ派遣されることが決まりました。一緒に行きたいのですが、どうしても街に留まらなければならないため、寂しい日々になります。貴女へ送る手紙の数が増えても笑って済ませてください。
最後に、ようやく"茨の魔女"と出会えました。貴女のことを気にしている様子だったので手紙を書いてあげてくださいね。分からなければ私の元に宛ててください。彼女と仲良くなれれば、街で薬草と調味料に困ることはありませんから。
月の光が貴女の行く道を照らしますように。
追伸:お腹が少し大きくなりました。あと半年もない内に生まれそうです。 砂の魔女
◆ ◆ ◆
――そこまで読んだところで、階下から足音が聞こえてきた。ヴァネッサは手紙を籠にまとめてから机の下に隠し、近くに積んであった薬草の書物を引っ張っては適当にページを開く。
今日の営業を終えたリルが、どこか充実した様子で階段を上ってきた。
「店長。元気になったんですね」
「……身体は未だに怠いわね。あの女の薬で眠らされたのに、まだ寝足りない」
「じゃあ一緒に寝ましょうよ。夜更かしは……ふぁぁ……」
店の営業で纏っていたエプロンを畳みながらリルが大きな欠伸をした。ヴァネッサは穏やかな笑みを浮かべると本を閉じ、キャンドルの火を消す。
ベッドで横になると、後から潜り込んできたリルが心地よさそうに唸りながら身を寄せてくる。まるでよくなついた犬のようだった。
「そう言えば、今日は店にお友達が来たんですよ」
「良かったじゃない。ちゃんと接客できた?」
「はい。とっても美味しそうにハンバーガーを食べてくれて――」
上機嫌なリルの頭を撫でながら、ヴァネッサは目を閉じて疲労感に身を任せた。
その日……ヴァネッサは、黒の森の住処でリルと二人暮らしをする、幸せな夢を見た。