暮れになって、ようやくクローデットは騎士団寮に戻ってきた。彼女を迎えたのは
「お疲れ様でした。あれ、クローデット様?」
「ベアトリス……今日は、何か食べたか?」
「いえ、これからですが」
「――君の好きな店に、私を連れて行って欲しい」
あまりに唐突な提案だった。非常に用心深いクローデットは騎士団寮の外では決して食事を取らないし、外食なんてもってのほかだ。そんな彼女のお願いを聞いたベアトリスは、何か余程のことが起きたのだと悟る。
「いいですけど……クローデット様、本当に大丈夫ですか?」
「ああ、誤解させた。君が好きなものを食べている姿を見たいだけだ。今日は、うまくいかないことが多かった。一人になると、気が滅入ってしまう」
「そうですか。差し支えない範囲で、お話も聞かせてください」
「ありがとう、ベアトリス。支度をしててくれ。"食事"を終わらせてくる」
クローデットはそう言って、やや前のめりで歩きながら私室へ戻っていった。あとからベアトリスも自分の部屋に戻り、外行きの格好に着替えるために、鎧を脱いでから布巾で身体を清潔に拭き始める。
……酷く憔悴したクローデットの表情が頭から離れない。
食事と言っていたが、彼女のそれは「補給」でしかない。そして、他人の手が加わった物を殆ど食べられないことも知っている。ベアトリスは一人で口を結んだ。
◆ ◆ ◆
深緑の外套を羽織ったベアトリスは、そのまま街の民に紛れられる格好で外に出た。しばらくして黒いケープを纏ったクローデットも出てくる。二人とも普段の鎧姿とは異なり、一目見て騎士団とは分からない余所行き用の姿だ。
顔が割れているクローデットは長い白髪をポニーテールに結び、鼻から下を黒いバンダナで覆って変装していた。飲食には不都合だが気にすることではない。
「では行きましょう。そうですね……ちょっと気になるお店があるんですけど」
「構わない。君の行きたいところに行ってくれ」
「じゃあ『レイヴン・バーガー』にしましょう。あそこのハンバーガーが気になってたんです。新しいお店って、一人で入ろうとすると変に緊張しちゃって……」
「ん……?」
どこか覚えのある店名だった。
記憶の引き出しを探っているうちに店の前までやって来て、そこでクローデットは全てを思い出す。看板にカラスの絵が彫られたこの場所は、以前オーレリアンの護衛で訪れたことがある場所だ――。
「ああ、ここか」
「クロ――貴女も知ってたんですか?」
「仕事で縁があってな。店主と話をしたこともある。妙な人だったが……」
まだ日は沈んでいないものの空はそれでも端を赤く焼け始めている。店に入ると、ちょうど目の前で
「いらっしゃ……あ! ベアちゃん!」
「わ、覚えててくれたんですね! リルちゃん、仕事姿もとってもかわいい……」
「やあっ、そんなこと言われたら照れちゃいますって!」
半月振りくらいの再会を果たした二人は両手を取りあって喜びを爆発させる。よほど通じ合うものがあったのだろう、ベアトリスとリルは周りに花を咲かせるような笑顔に変わっていた。
「あっすいません、今日はお客さんとして来てくれたんですよね。何か注文は決まってますか? 好きな席に座っててください」
「今日来るの初めてだから、どうしようかな……」
「あ、それじゃあメニューを持ってきます。先に座って待っててください!」
「それじゃあ一番奥の席にするね。しばらくお邪魔させてもらうよ」
リルが慌ただしく動く中、ベアトリスはクローデットと共に店の奥にあるテーブル席についた。柔らかい座り心地の椅子に腰掛けて一息吐いていると、先程の二人のやりとりを見ていたクローデットが身を乗り出して囁きかけた。
『知り合いか?』
『半月ほど前、私用で外に出ていた時に知り合いました。そこでお話をして、なんとなく気が合いそうだなって雰囲気に』
『そうか』
『店に行く約束もしたんですが、いざ入ろうとすると変に緊張してしまって、結局今日になっちゃいました。……ここはいいですね。落ち着けます』
夜が近い店内は心地よい静けさに包まれている。料理を楽しんでいるのは、夕暮れ時を静かに過ごすカップルや微笑ましい子連れの夫婦、大きなハンバーガーを二個平らげて静かに寝入る仕事帰りの労働者、尊い家系に生まれた少年とお付きの
立地が良く、客層にも恵まれている。ベアトリスは穏やかな微笑みを浮かべながら周りを見ていて、ふとあることに気が付いた。ちょうど、リルが水の入ったコップ二個とメニュー表を一枚持って来る。
「お待たせしました、こちらがメニューです」
「ありがとう、リルちゃん。ところで今は一人だけなの?」
「あー、いつもは店長と二人で回してるんですけど、今日は店長が具合悪くしちゃったみたいで……」
「わあ。もしかして大変な日に来ちゃった?」
「そんなことないですよ。店長がいなくても回せるように頑張ってましたから。あっそうでした、注文が決まったらカウンターまで来てください!」
「ふふ、ありがと。じゃあ決まったらすぐ行くね」
「はい、お待ちしてます! ……ん?」
一通りベアトリスとの応対を終えたリルは、同じテーブルに座っている寡黙な女性の視線に気付く。金髪を一本に結び、鼻から下を黒に覆った彼女はここへ来てから一言も喋っていない。
リルが視線を向けると、その女、クローデットは何も言わずに視線を逸らす。
「ああ、この人はいつもこう。滅多に喋らないけど、悪い人じゃないよ」
「ん、そうなんですね。ゆっくりしていってください!」
リルはにこりと笑顔を見せてから駆け足気味で厨房に戻っていった。その後ろ姿が見えなくなってからクローデットは腕を組み、どこか遠いところを眺めながら低い声で唸る。向かいでは、ベアトリスがメニュー板にじっと目を通していた。
『……』
『すいません、気を悪くしてしまいましたか』
『いや。今日はあの女には会えないな、と思っただけだ。興味あったんだが』
『そんなに面白い人だったんです?』
『まあな。何を考えているかはイマイチ掴めないが……見知った友人のように話が出来る、不思議な女性だった。彼女は私がどういう人かも分かっているようだ』
『私もちょっと興味出てきました……パティ増やせるんですね。二枚にしちゃお』
ベアトリスが"気づき"を得てちょっと嬉しそうにする前で、クローデットは目を閉じて過去の回想に浸る。今でこそ、自分が食べて問題ないと認めたものしか口にしないクローデットだったが、彼女にも食堂や酒場で仲間と自由に飲み交わす時期があったのだ。
二年前、黒魔女が毒と策謀を用い、王国を恐怖で支配したあの時までは。
(私はいつまで、このような暮らしをしているのだろう?)
(黒魔女を倒したところで、騎士団の風向きが良くなるわけではないのに……)
(そもそも魔女など来ない方が良いのだ。町は平和が一番だと決まってる)
(……奴と戦いたいのは、私だけなのか?)
クローデットは、ちらとベアトリスの様子を窺う。長い人差し指をメニュー表の上で往復させながら、どこか嬉しそうに逡巡する彼女を見て……今はまだ口を閉じていようと決めた。