曇りの昼、騒がしい都市部から離れた郊外部。点在するカントリー・ハウスの一つに、騎士団長クローデットはいた。広い草原に浮かぶ館を見上げながら深呼吸を済ませ、中へ続く最初の一歩を踏み出す。表情は穏やかではない。
「失礼する」
「ほほ……お待ちしておりました、クローデット様。どうぞ、こちらに」
玄関で出迎えたのは、紺色のフードで目元を隠した老年の男。
アスール・ブリアン。アルダブル四大貴族の一角、ブリアン家当主。彼の案内で応接間に通されたクローデットは、入ってすぐ、どこからともなく漂う湿った空気に閉口した。
(既に何度も来た場所ではあるが……薄気味悪い場所だ)
上流貴族の応接間は客を迎えるという性質上、基本的には豪華絢爛に作られる。家が持つ"力"を見せつける絶好の機会であるからだ。しかし、ブリアン家の応接間は「良いイメージを持ってもらう」というコンセプトでは作られていない。
黒く厚いカーテンに閉ざされた部屋は外の光が入ってこない。テーブルに立てられたいくつかのキャンドルに火が灯っているだけで、かろうじて明るくなった周りを見れば、呪術的な意味の込められた様々な壁飾りが下がっている。何も知らぬ人へ、ここが何らかの儀式を行う場所だと言っても決して疑わないだろう。
ブリアン家当主のアスールは物語を紡ぐように話す。この独特な語り口調と部屋の雰囲気が合わさり、来客を不安の闇で包み込んで圧倒してしまうのだ。
「クローデット殿、どうですか、鎧の具合は」
「以前のものと変わらぬ使い心地で違和感はない。ブリアン家は魔導技術に強いと聞いていたが、今はそれを実感している。もっともあの魔女とは未だ出会えてないから肝心の性能は実感できてないが……」
「有り難きお言葉ですな。心配なく、貴女様からの要望は全て満たしておりますので、その時が来たら全て分かるでしょう……では早速ですが、砂漠の状況について聞かせてもらいましょう」
長い机を間にして向かい合うように座る。ゆっくりと口を開いたアスールに呑まれないよう、クローデットは暗がりの中で自らを律するように目を開いた。
「現在は調査隊を派遣して、砂漠の生態系の変化を調べている。
「ああ失礼。仮定の話は要りませぬ、机に座ったまま幾らでもできますからな。我々が興味あるのは……そう、例えば、砂漠で何か見つけられましたか」
「……正式な報告書は後になるが、
「卵? ほう、一体どのような生き物が眠っているのでしょうな? しかも、一つだけでなく、幾つも!」
卵の話を聞いたアスールは興味ありそうな様子で唸った。気分で揺れる皺枯れ声は、人間よりも怪物に近い覇気を纏っている。
「報告では、細く長い卵だと聞いている。形状は虫のそれと同じだが大きさが合わない……もしあれから虫が生まれるとするなら、我々人間の両手よりも大きな個体が存在することになる」
「す ば ら し い ! 実に興味深い! 砂漠探索を支援した甲斐があったというものですな!」
「大きな報告としては、これが以上だ。それ以外の些事は、今度貴族会議に上げる報告書を待ってほしい」
「構いませぬ、構いませぬ……ふふふ、そうですな、単独の巨大種を狩るためのものではない、中型個体の群れを狩れる魔道具を開発しなければなりませんな。そうしたら今度、武器を購入される際には一声を掛けていただけますか」
「ああ。悪いようにはしないと誓おう」
まずは一つ話題の山を越えた。だが今日はここからが本番だ。クローデットの難しい表情が、短い蝋燭の刺さったキャンドルの光に揺れている。
「……アスール卿。ブリアン家当主の貴方に、折り入って頼みがある」
「是非」
「今の騎士団は良い状況にあるとは言えない。僅かずつではあるが、回ってくる予算が減りつつある。民からは慕われているが……中流貴族の中には、我々のことを
「……あれから二年。救いの神も、平時には不要とされてしまいますからな」
「その黒魔女も仕留め損なった始末だ。今は大丈夫だが、このままではそう遠くないうちに騎士団は現在の規模を保てなくなるだろう。先立つものが必要だ……そこで一つ、ブリアン家に協力を仰ぎたい」
机に載ったクローデットの手が拳になっている。
闇の中に佇むアスールははっきりとした答えを示さず、ふむ、と続きを促す。
「砂漠の生態調査は間違いなく大きな成果となる。これは良い機会だ。王国の周辺地域で同様の調査を定期的に行いたいと考えている。環境を把握することは、国防にも、人々の生活にも有益なことだ。周辺地域からの交易リスクも下がる」
「……最近の貴女は、"狩人"のような考えをしますな」
「今はそれしかない。居るかも分からない魔女を敵とするよりはずっと理解も得やすい……アスール卿、どうか協力していただけないだろうか。これはデュラン家には通せない話、ブリアン家でないと駄目なのだ」
アスールの眉がぴくりと動く。
一連の話を聞いた彼は椅子に深く腰掛け、腹の辺りで両手の指を絡ませた。
蝋燭は、間もなく消えてしまうのではないかと思うくらいに短くなっている。いったいクローデットはどれくらいここに座っていたのだろうか?
「……もし目の前に黒魔女が現れたら、クローデット様は如何なさいますか」
すぐに答えが来ると思いきや、意外な質問が投げかけられた。
しかし返す言葉は既に決まっている。
「この手で殺す」
「その後は?」
「後……」
「魔女を倒せば、次の魔女が現れるまでは真に平和な時間が訪れましょう。しかしそれは騎士団が頼られなくなるということ。平時における治安維持は、何かにつけて疎かにされがちでありますからな……」
暗に込められていたのは騎士団にとってあまり嬉しくない回答だった。
クローデットは腕を組み、眉間に皺を寄せる。
◆ ◆ ◆
(煙に巻かれた……)
あれから結局、クローデットからの提案が明確に了承されることはなかった。
ブリアン家の門を出てきた彼女は溜め息を吐いて馬に乗る。そして、そう遠くない場所に立つもう一つの館の前までやって来た。
デュラン家。アルダブル四大貴族の一角であり、先程のブリアン家と対立している家だ。当主のロベールは非常に気難しい理屈屋で知られているが、クローデットの気持ちが重いのはそれが原因ではなかった。
敷地を取り囲む柵の正門に、槍を持った衛兵の男が一人立っている。
「ああ、クローデット様。毎度お疲れ様です」
「ロベール卿は、まだ……」
「はい。相変わらず、騎士団からの物は全て送り返せ、と」
「そうか。手紙を持ってきたのだが、それなら仕方ない」
国の予算は民のために使うべきだ、という思想を持つロベールは、騎士団を忌み嫌う最も代表的な人物だった。彼が当主になって以降、騎士団は手紙を一通も彼の元へ送れていない。
それでも諦めず、クローデットは自らの足で赴いて手紙を届けようとしているのだが……今のところ、その全ては無駄足になってしまっていた。
「……ロベール卿の目が黒いうちは、デュラン家が騎士団に協力することはないと思われます。もっと言えば、この空気は一族全体に広がっているので、息子様の代になったとしても、きっと」
「貴方が気に病むことはない、これは私がやりたくてやっているんだ。邪魔して済まなかった、今回も大人しく帰ることにしよう」
挨拶を済ませたクローデットは馬に乗り敷地を離れさせる。
雲に覆われた暗い空の下、彼女の背中は丸くなっていた。
(ひどく、憂鬱だ。気が重くて仕方ない……)
(クソ……このまま支援を受けられなければ、騎士団はいずれ……)