アルダブル王国の北には「黒の森」と呼ばれる広大な針葉樹林が広がっている。
その名前が付いた理由は主に三つある。一つは、針葉樹は冬になっても葉が落ちることがなく、雪が乗る中も黒々と茂っているため。もう一つは、背の高い木々がひしめく森は日の光が入りづらく、常に薄暗いため。
そして、三つ目の理由は……この森に、黒魔女の住処があると言われるためだった。
◆ ◆ ◆
月の見えない深夜。森のどこかにある古い小屋の戸がきい、と音を立てて開いた。明かりのない内装は影も形も分からないが、暗がりの中を探る誰かの手が、机の上で埃を被っていたランタンを探り当てた。
ぼう、と炎が上がり、端麗な女の顔が浮かび上がる。切れ長の魔性じみた瞳は猫のそれと同じように形を変え、揺れる炎を頼りに部屋を一巡りした。
光を受けて露わになったのは、年季の入った木の机とその上に置かれていた水晶玉、床に積まれていた何冊もの分厚い魔導書、壁に掛かった魔除けの飾り、部屋の隅に寄りかかる箒、液体を保存する薬品棚、大量の金貨銀貨の入った宝箱……少なくとも普通の暮らしが営まれるような場所ではない。
家の主である女は緩やかな暗いローブを床に滑らせながら、部屋の戸を一枚抜けて下り階段に入る。石造りの螺旋階段に備え付けられたキャンドルがひとりでに火を纏うと、黒魔女ヴァネッサの顔がはっきりと照らし出された。
(戻ってくるのは久しぶりね。来客はなかったみたい。家の外も中も、私が出てから何一つ変わってない)
階段を下りきると冷えた空気がヴァネッサの肌を撫でる。
地下廊の両脇には大きさの異なる棚が何段も設けられており、それぞれの場所に適合した大きさの細い瓶が寝かせられている。表に貼られたラベルには、瓶の中身について記した手書き文字が残されていた。
"サン・ロマーレ・スロワ・ヴェール 紅魔女歴"。中には緑色に澄んだ
(貰い物だから、あのクソ豚に飲ませるのは本当の本当に癪だけど……背に腹は代えられない。冥府への土産の一つと思ってもらいましょう。さて――)
もう一本手頃な瓶――"ゼフィール・ブラン"の白葡萄酒を出したヴァネッサは私室に戻って二本とも籠に寝せる。そして今度は、部屋の隅から箱を引っ張り出した。中には手紙の束がいくつも入っている。送り元の名前を確認してからヴァネッサはそれらをワインと同じ籠に入れ、帰りに持って行く荷物に数えた。
(彼女からの手紙、想像以上にあったわね)
(そろそろ帰らないと。リルに気付かれるといけないし、明日の仕事もある。あの子は本当にいい子だけど、あまり頼り過ぎるのもいけないわ……)
荷物の確認を済ませたヴァネッサは、思い残しがないかを今一度確認してから家を出る。急がないと東の空が明るくなる。
◆ ◆ ◆
「てんちょー、起きてください……」
朝。リルの懇願するような甘い声がヴァネッサを起こそうとしていた。それに応えるように、ヴァネッサが割れるように頭が痛む中でほんの一瞬瞼をこじ開ける。
心配そうに彼女の様子を見るリルは既に着替えも済ませていた。自分も、と思ってベッドから出ようとするが、身体がどうも思ったように動かない。
「……もう朝?」
「朝ですよ。起きて準備しないと、外でお客さん待たせちゃいます」
細い線のような目がリルの困り顔を捉えた直後、ヴァネッサの上腕が一回り小さな少女の肩を包み込んで布団へ引きずり込む。身体に残った記憶が"普段眠っている時にあるべき物"を探して見つけたようだった。
「はうっ!? あ、あの、店長っ、お店は」
「リル」
「はい……」
名前を呼ばれ、ヴァネッサが続ける言葉を待ってみる。
だが彼女が喋ることはなく、安らかな寝息が漏れ聞こえるだけだった。腕の中に収まったままのリルは魔女の誘惑に引き寄せられるままヴァネッサの胸元に顔を埋め、目を閉じて朝の穏やかな時間を過ごす。
しかしこれではいけないと目を覚ましたリルは布団の中から身をよじるように這い出て、未だ起きようとしないヴァネッサに何度も何度も声をかける。その度に、彼女はひどく辛そうな声を上げて返事した。返事というよりは、苦悶に呻いているような声だったが……
「店長、もしかして、体調悪いですか?」
「頭……」
「水、持ってきますね!」
リルは髪を整えてからすぐに駆け出し、一階の厨房から水の入ったコップを持って戻ってくる。俯せに変わっていたヴァネッサは芋虫のように身体を揺らし、寝起きの激しい頭痛に悶え苦しみながら潰れている。
ベッド横の机にコップを置いたリルは、今の状況で必死に頭を働かせて……この事態を解決できるかもしれない人物が一人居ることに気が付いた。
「店長、外に行ってきます。店が開くまでには戻ってきます!」
善は急げ。リルは店を飛び出した。行き先は路地裏にある名も無き薬草屋……店が開いているかどうかはともかく、今頼れるのはそこに居る"彼女"しかいない。
◆ ◆ ◆
そうして辿り着いてみると、ドアには無慈悲にも「CLOSED」の看板が掛かっている。他にどうしたら良いか分からないリルは、祈るような思いでドアノックを何度か叩いて……建物の中で、誰かが反応したような音がした。
戸が開く。目当ての人物が怪訝な顔をして立っていた。
「……ああ、リルちゃん。どうしたの?」
「ローラさん、あの、店長が具合悪くて」
「具合が悪い? いったいどうしたってんだ」
「その、朝になって、起きなきゃいけないのに、すごく頭が痛そうで……」
両手を動かしながら説明を試みるリル。その顔は青ざめており、無下にするのはあまりにはばかられるほど。彼女が震えながら紡ぎ出す言葉を聞いた薬草屋の女店主はしばらく考え込んでから、結論を出した。
「話は分かった、多分なんとかなるな。ちょっとお邪魔させてね」
「お願いします!」
なんとかなる、と聞いて期待の眼差しを光らせるリル。彼女のお願いを受けた薬草屋のローラは支度を調えてすぐ、道具の入った籠を持って玄関から出てきた。
白い長袖の上に緑色のワンピースを重ね、彼女のトレードマークでもあるエメラルドグリーンのヴェールとマスクが顔を覆っている。神秘的で、その一方で奇妙でもあったが……彼女ならなんとかしてくれるだろうという信頼があった。
「ああそうだ、リルちゃん……お店はどっちだっけ?」