ヴァネッサがレイヴン・バーガーに戻ると、できたてのハンバーガーから漂う肉の香りが午後の街並みまで流れ出ていた。
そういえば今日はまだ昼食を摂っていない。入口を抜けると、受付にいたリルが彼女へにこりと笑ってくれた。クローデットとの会談で暗い歴史に触れてきたヴァネッサは彼女の純粋な笑顔を前に一瞬だけ顔を曇らせるも、余計な心配を掛けまいとすぐに微笑み返す。
「おかえりなさい、店長! 今日はもう上で休みますか?」
「その必要は無いわ、すぐに手伝うから。でもまだお昼を食べてないのよね」
「じゃあ、今日は私が店長のご飯を作ります! ちょうど今は空いてるので!」
それはあまりにも意外な提案だった。全てを自分でやろうとしていたヴァネッサだったが、リルの言葉を聞いた途端に胸の内へじんわりと沁みる感覚を覚える。
「あら、嬉しいわね。それじゃあ、お願いしちゃおうかしら」
「座って休んでてください。すぐ作っちゃいますね」
挨拶を済ませた後、ヴァネッサは隅の席に座って頬杖をつき、先程クローデットと話していたことを思い返した。まだ吟味すべきことは山のようにある。しばらく一人でいられるのをいいことに、目を閉じて思考の世界に入った。
◆ ◆ ◆
朝から一人で業務を行っていたリルは、やって来たお客さんを捌くことに慌ただしく動き回りながらも、一日の流れを身体で理解できるようになっていた。そのように成長してくると、頭の片隅には別のことを考える余裕ができる。
(店長、ちょっと疲れてるように見えた……もしかしたら、しばらくちゃんと休めてないのかも。今日だって、お休みするって言ってたけど――)
思い出すのは、夜遅くまで二人で準備をしていた日に飲んだ、あのスッキリした飲み心地の特製ドリンク。あれで夜はぐっすりと眠ることができ、日を跨いで疲れを引きずることはなかったが……。
あれがすぐに出てくると言うことは、無理をしていた日は少なくなかったのだろう。一人で仕事を回す大変さを体験したリルはそのことが身体で分かっていた。
(今日は、私がごはんを作ってあげなくちゃ)
身寄りの無い自分を受け入れ、生きる場所を与えてくれた。その恩返しだと気を引き締め、厨房に立ったリルは頭の中でハンバーガーのレシピを組み立てた。
火の掛かった焜炉に油を敷いたフライパンを用意し、パティに使う肉を壺の中からひと掴み取り出す。それを簡単な塊にしてからフライパンに乗せ、円状の形になるように上から潰して成形する――
イメージするのは、店長であるヴァネッサが何度も見せてくれた一連の動き。パティを焼く間にバンズも揃え、同じフライパンでこんがり焼き目を付けていく。
『リル……』
作業の途中で……記憶の中から、今は亡き優しい母親が呼びかけてきた。同じ台所に立ち、一緒に夕食の準備をする光景がレイヴン・バーガーの厨房に重なる。
過去色の母は背が高く、長い白髪が綺麗で、優しい目をしていて……今日みたいにリルが手料理を振る舞うと、食べた後はその美味しさを問わずして褒めてくれた。それが嬉しかったから、今のリルはこのように料理の道を進んでいるのだ。
「わっ、考え事してたら、ちょっと焦がしちゃった……」
へらでパティを裏返した時、普段よりも焦げの色が濃く入っていた。提供できないわけではないが、舌に触れたときの味がやや変わってくるだろう。
こんなミスをするのは初めてだった。本当ならもう一枚焼いてそちらを使うべきだが、店の食材を徒に使うのはそれはそれで憚られる。心の中でごめんなさいと謝りながら……リルはこのまま進めることにした。
『あっ、焦がしちゃったの? もう、そんな泣かなくて良かったのに』
『いい? 料理で大切なのは、食べてもらう相手に喜んでもらいたい、その心』
『リルは私を想って作ってくれたんでしょ? それが、私はとっても嬉しいの』
記憶の声はそんなリルを優しく慰めてくれる。
据わっている目のままパティとバンズの調理を終えた。下側のバンズを置き、焼け色の上に壺からすくった「魔女のソース」を塗ってレタスを乗せる。
もう何度も作ったレシピだが、これはヴァネッサの昼食になるものだ。記憶と突き合わせ、作り方が間違っていないか丁寧に確認をする。その後、レタスの上からパティを乗せ、仕上げのスパイスを軽く振ってから上側のバンズで閉じた。
『よくできてるじゃん、とっても良いね、リル……』
袋に入れたハンバーガーを皿にのせ、揚がっていたフライドポテトを脇に添える。 完成だ。パティは少し黒いかもしれないが、そんなに見た目も悪くはない。運ぶためのトレイへ慎重に移し、悪くはない、とリルは目を輝かせる。
「よしっ。できたよ、お母さん――」
返事はなかった。
「……」
視線の先は、窓から射した光で明るくなっていただけだった。寂寥感に潤んだ瞳をまばたきで誤魔化してからトレイを持って、彼女の手料理を待っている人――ヴァネッサの元へ向かう。
◆ ◆ ◆
リルが料理を持ってきた時、ヴァネッサは背もたれに寄りかかったまま頬杖をついて心地よいまどろみの中にいた。起こそうかどうか迷っていると、フライドポテトの油の香りが届いたのか、彼女は一人で現実へ戻ってくる。
「ん……寝てたの、私」
「おつかれですか、店長。ちょうどお昼ができました」
「ふふ、良い香りがするわね。それじゃあ早速頂いちゃおうかしら」
ヴァネッサは、目の前に置かれた皿の様子をまずじっと見つめて、その後に手を伸ばした。ハンバーガーを袋ごと掴み、大きな口でがぶりと歯跡をつける。
彼女が咀嚼する間、横に立っていたリルは居ても立っても居られない様子で視線を泳がせていた。やがて……半分ほど食べ終わったヴァネッサは目を細くして、これを作った人物へ微笑みかける。
「少し肉を焦がしたでしょ。スパイスの効きも甘いわ」
「あう……」
「でも、悪くないわ。不思議ね……このハンバーガーは店を始める前に何度も作って食べたけれど、私が今まで食べた中で一番美味しかったわ」
ヴァネッサは優しい瞳のまま、半分残ったハンバーガーをじっと見つめていた。
リルはそんな目をしたことがある人物を一人だけ知っていた。でも、それを表に出さないように隠しながら、大切な人の言葉を思い出してにっこり笑ってみせる。
「その、店長に喜んで欲しいって気持ちを、入れました」
「ふふ、なあにそれ。面白いことを言うじゃない」
「なあにそれ、じゃないです! ああもう、自分で言ってて恥ずかしくなってきましたぁ……!」
リルは顔を真っ赤にしたまま店の中でキャンキャンと吠える。周りには食事を楽しむ客の姿もあったが……ヴァネッサとリルのことを知る常連たちは、温かい視線を送ってくれていた。