レイヴン・バーガーを開いてから久しぶりの休日。やることを終えてなお日は高いままで、短い間ながらも仕事一筋だったヴァネッサは暇を持て余していた。
どこで休日を過ごせば良いだろう? 贅沢な悩みを頭の中で巡らせてから思い立ったように足を前へ出す。それは理屈よりも先に、どこか本能的に「彼女」の元へ向かっていくようだった。
アルダブル王国城下町、騎士団寮。石造りの壁がぐるりと囲み、天を衝くように尖塔を生やした国防の重要拠点。正門は鎧を纏った騎士たちに厳重に守られ、ヴァネッサを含めて部外者が許可無く入ることを許さない。
想い人のことを考えていたヴァネッサは門を遠くに見る曲がり角から僅かに身を乗り出し、彼女が壁の中で凜々しく務める姿を妄想して口を緩ませていた。
(最初は驚いたけれど、慣れてきたら悪くはない感覚だわ。クローデットのことを考える、それだけでこんなに幸せになるなんて……)
誇りを背負い、剣を構えて後輩の指導にあたる、常に皆から頼られる存在。彼女の片思いが膨らむ度、頭の中の夢幻はより甘美なものへ醸造されていく。
頬を熱くしながらヴァネッサは願った。あの門から、出てきてはくれないか、と。
(少し、待ってみようかしら……)
門の両脇に立つ衛兵二人に見つからぬよう息を潜めるかつての黒魔女は、ちょっとした奇跡が起きないものか両手を組んで願いをかけてみる。しかし、長らく色のない人生を送ってきたヴァネッサは、意中の相手を引き寄せる肝心のまじないを知らなかった。
魔法に憧れる辺境の村娘のように、純粋な気持ちを練り上げていると……それが届いたのだろうか。門の中から、念願の待ち人が姿を現す。
(……!)
白く輝く鋼の鎧、風を受けて流線型にたなびく白髪、一目見ただけで魂を奪われかねない美しい顔立ち……騎士団長クローデットが門を出る間、ヴァネッサはずっと足腰の力が抜けたままだった。転びそうになるのはなんとか耐える。
「では、これから外に出てくる。長くは掛からない」
(ああ、何度見ても素敵……)
衛兵に挨拶を済ませたクローデットが広い道へ出るのを見送ったヴァネッサは、考えるよりも先に彼女の方へ足を向けていた。
吸い込まれるように同じ道をつけて、目当ての後ろ姿を見つける。流れるような髪が午後の光できらりと輝いていた。遠くでもその暖かい香りが分かるようだ。
(ああもう、私ったら、馬鹿になっちゃったみたい。何をやってるの?)
(直接後ろをつけていくなんて、絶対バレるに決まってる。やめないと……)
(でも……もうちょっとだけ……)
策謀に長けたはずの黒魔女らしからぬ衝動。あと一歩、あと一歩と未練がましく追跡を続けていくと、いつの間にか城下町の門を出て東の辺境地へ出ていた。
青空の下、同じ方向へ進む荷車の陰に隠れながら平原の田舎道を進んでいく。この辺りはところどころに茂みと低木があるくらいで建造物は殆どない。城下町の中と違い、すれ違う人も行商人を除いてほとんど見なかった。
クローデットの足が止まる。そこは、王国の東にある平原へ造られた石の共同墓地だった。
(……誰か親しい人が居たのかしら。私はあの人のことを何も知らないわ)
ヴァネッサは寂しさを覚えながらクローデットの背中を見守り続ける。彼女は墓地の中でも一際大きな墓石の前に立つと、そのまま胸に手を当てて片膝をつき、しばらくの間俯き続けた。
孤独の時間があまりにも長かったヴァネッサは墓参りの意味をよく知らない。する相手も、されるような相手も彼女にはなかった。
(どうか……恋人なんかではありませんように)
(ああ、今日の私は本当にどうかしてる。こんなことで不安になるなんて――)
ヴァネッサの心臓はまるで彼女のものでないかのように勝手な速い脈を打ち続ける。短くも長い間気を揉んでいると、うずくまり続けていたクローデットがようやく立ち上がった。
用事を終えた彼女が振り返った時――目が合ってしまう。ヴァネッサは、自らの失敗にようやく気が付いた。
クローデットの後を追いかけること、行動の意味を推測することで周りが見えなくなっていた彼女は、殆ど人が通らず遮蔽物もないような場所で二人きりになってしまっていたのだった。
「君は……」
「あ、あっ」
自らの不手際が招いた突然の事態にヴァネッサは息を乱し、頬を熱く染めたまま視線を横へ外す。どこかへ消えてしまいたかったが何故か足は動かない。その間にも、クローデットは自分を熱心に見つめていた人物の元へ歩み寄る。
憧れの人物を前に冷静さを欠いた彼女は声を失い、今のどうにかしている自分を少しでも見られたくない思いで頬を両手に包んだ。クローデットは興味を持った様子でまじまじと見つめてくる。
「確か、町でハンバーガーの店を開いていた」
「はい……私です……」
「私一人だけかと思っていたから驚いてしまった。貴女もここへ?」
何を話そうか迷う。当たり障りのないことを答えなければ、と頭を働かせる。
幸いにも今のヴァネッサは言葉を詰まらせていた。時間稼ぎのために、これは利用するしかない。
「えっと、その……その……」
「すまない、あまり聞くべきではなかったか。私は見ての通り、騎士団の先輩方に会いに来た。ここに来ると、騎士団長に任命された日の気持ちを思い出せる」
「とても真面目なんですね。クローデット――っ、さま」
「そう無理にかしこまらなくて良い。逆に感謝しなければならないのは私たちの方だ。我々が剣を取って魔女と戦えるのは、ひとえに民の理解があってこそ。戦う意志だけでは、どうにもならんのだ……」
晴れた平原を吹く風がクローデットの憂い顔の横を抜けた。光り輝く白髪が揺れる様子にヴァネッサは気を保つだけで精一杯だったが、ほんの少し頭に残った理性が今の状況を「またとないチャンス」と叫んでいた。
この今ならば、騎士団しか知り得ない情報――例えば、"騎士団の料理長"の話――を直接聞けるかもしれない。相応のリスクは覚悟しなければならないが、次に同じような機会があるとは限らない。
ヴァネッサは押すか引くかの瀬戸際に立っていたが……クローデットが自分に興味を失う前に腹を決める。
「ねえ、クローデット。騎士団長の貴女に、一つ聞きたいことがあるの。きっと何か知ってると思って」
「職務上、全てを話せるわけではないが、そうだな。まずは言ってみてくれ」
「……前の料理長さん、砂の魔女のことよ」
クローデットの目がヴァネッサをぎろりと向いた。霊園に流れる風が鈍色に変わる。
「何故、そのようなことを?」
夢のような時間から一転。二年前に経験した、ひりつくような緊張感が戻ってきた。ヴァネッサは勢いのままに道化を演じ続けることに決め、冷たく刺すような目つきに変わったクローデットの不審を躱すために、胸元で両手の指を絡ませる。
万が一でも、自分が黒魔女だと疑われてはいけない……そうなれば全てが終わる。リルと城下町で過ごす新しい人生も、彼女の抱える秘密の感情の行く末も。
「知りたがっている子がいるの。噂で聞いたらしいのだけど、私もあんまり詳しいことが分からなくて。ごめんなさい、突然、変なことを聞いてしまって」
「ふうん……」
ヴァネッサは、目の前に立っている女騎士が非常に慎重な性格であると知っている。未だ疑念を払拭できていないような声を漏らす様子を見て、まだ十分でないことを悟っていた。
もう一枚、手持ちのカードを切らなければならない。
「……うちの店の子よ。この間、オーレリアン卿といらっしゃった時に受付をしていたのだけど、すぐに隠れてしまって。あまり印象には残っていないかも」
「ああ、あの子なら遠目に見た。あの時は申し訳ないことをしたと思っている。怖がらせていると分かってはいたが、当時の私は何もできなかったんだ」
クローデットの眉が柔和に戻った――腕を組んで回想する様子を確認して、ヴァネッサはひとまず難所を越えたと静かに息を吐いた。
「分かった、あの時の謝罪も兼ねて、知っていることを教えよう」
「本当に感謝するわ。ありがとう、クローデット」
「そうだな……ここでは誰かに聞かれるかもしれない。ついてきてくれ」
行きと同じように、ヴァネッサはクローデットの後ろをついて城下町の門へ帰っていく。だが今回はこっそりとつけるのではない。まだ「知り合い」にすらなれていないかもしれないが、とりあえずは同じ道を歩むことが出来ていた。
(この道が、どこまでも続いて終わりのないものだったら良いのに。そうしたら、私はクローデットとずっと二人きりで……)
そんな甘い妄想がよぎったヴァネッサは自分で自分を刺し殺したくなった。そうでもしなければ、このままどうにかなってしまいそうだったから。