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4-1 過去より伸びた影

 レイヴン・バーガーにジラード家から手紙が届いていた。


 店が普段通りに営業を終えた日の夕方。ヴァネッサは私室で一人丸椅子に腰掛け、ジラード家の封蝋が押された手紙を広げていた。

 文書の内容はヴァネッサの想像通り。すっかり惚れ込んだ彼が気持ちよく羽ペンを走らせながら記した愛の言葉に、よりよい明日を追い求める夢想家であるとの自己アピール、ジラード家での暮らしは非常に良いという遠回しな側室の宣伝。そのどれもにヴァネッサは大して興味を持たず、目の大きさを変えることもなかった。


(今のところ、表立った面倒はないわね。動くにはもう少し日を待ちたいわ)


 窓の外、暮れの空の頂に、上弦の月が小さく浮いている。

 薔薇の香りが付いたインクの瓶を開け、新しい便箋に返事の文をしたためた。それを乾かしてから、三つに折り込んだ上に紋のない封蝋を施し、明日まで引き出しの中で眠らせる。ひどく疲れた――頭を軽く振って気持ちを切り替え、一階の店へ下りると、ちょうど店員のリルが店先の看板を「CLOSED」へ切り替えたところだった。


「あっ、店長! さっき最後のお客さんが帰りました。今日はおしまいです」

「お疲れ様、リル。私の方も用事は済んだから、二人で掃除を終わらせましょう」

「はい!」


 上水道で引っ張ってきた水を流し、シンクに溜まっていた皿の汚れを落とす。前屈みになりながら、ヴァネッサがちらと横を向いてみると、リルも同じような姿勢になって皿に残った水滴を拭いていた。

 リルは本当によく働く。あの《雇用》したのは場当たり的ではあったが、ヴァネッサは既に彼女がいる暮らしに慣れてしまった。それに……今までずっと一人だった魔女にとって、リルは初めて「同じ屋根の下で暮らす人」だった。


「ん、店長、どうしました?」

「……手際が良いと思って感心してたのよ。まだひと月も働いてないでしょ」

「ああ、前もこういうお仕事してたから、ですね……」


 受け答えする彼女の声が尻すぼみになっていくのを聞いて、ヴァネッサは次にかける言葉を迷う。

 ……聞かなければいけない。リルが無言で助けを求めているような気がした。


「ねえ、リル。貴女のことをもっと知りたいのだけど……話せる範囲で構わないわ。前にジラード家で何があったか、私に聞かせてくれる?」

「……そう、ですね。はい、大丈夫です。気持ちの整理もついてきてるので」


 いつかは聞かないといけないことだ。

 洗い物を終えた二人は、明日使う瓜の酢漬けの仕込みに取りかかる。しばらくしてリルは、並べた瓶に野菜を入れながらゆっくりと話し始めた。


「お母さんが騎士団で料理長をしているって聞いた頃から、厨房でお仕事をしてみたいと思ってて、メイドのお仕事ができるところを探していました。二年か三年前だったと思います、なんとか人づてに受け入れてくれそうなところを見つけて、それがジラード家でした。私みたいな若い女性を積極的に雇用してたみたいです」

「あら、そうなの。年の離れた人はいなかった?」

「いましたよ。すぐに分かりました。その人たちは私よりも上の立場で、見た目もちょっと大人で、綺麗で、仕事もできて……偉い人とも仲良しみたいでした」


 偉い人、というのはきっと、オーレリアンを始めとしたジラード一族のことを言うのだろう。リルの仕事の手が止まりかけていたから、自然な形でヴァネッサが壺詰めの作業を手伝った。


「でも、いつからか、あのお屋敷で上の仕事をする……実際に厨房で料理を作るのは、選ばれた人じゃないとやらせてもらえない、って気付いてました。どんなに長く勤めても、どんなに頑張っても、メイド長やもっと凄い人のお気に入りじゃないとろくな役職に就けないんです」

「それは……辛かったわね」

「陰でこっそり聞いた話では、気に入らない人は無理矢理追い出されることもありました。まあ、私がそうだったんですけど……私は手際が悪くて、キッチン担当の先輩に毎日ずっと叱られてました。あと、替えのスカートが破かれたり……あっ、でも今は大丈夫ですよ。そんな暗い顔しないでください」


 心配になってリルの表情を見ると、確かに彼女は笑顔のままだった。無理はしているだろうが。だが次の瞬間、リルは目を伏せて静かになる。

 何かを言おうと震えている。その小さな手が、珍しくぎりぎりと握られていた。


「私の心残りは――、お母さんに、さよならを、言えなかったこと」


 くぐもった声。


「手紙が、返ってこなくて。不安で、お休み貰って家に帰ったら、誰も居なくて。近所の人に聞いて回って、ようやく、お母さんが黒魔女に殺されたって……」

「待って、リル。に殺された?」


 ヴァネッサの作業の手が止まる――そのような覚えはなかった。リルの言う"騎士団の料理長"がヴァネッサの想像する人物であれば、そんなことがあるはずない。いったい何が起きている?

 反射的に問いを返すも、リルはそのまま物言わなくなった。そして、声を押し殺すように啜り泣き始めた。もう限界を迎えてしまったのだ。


「十分よ。この辺にしましょう、リル」

「うっ、ああ、うあぁ」


 感情を決壊させたリルを抱きしめながら、ヴァネッサは冷めた目つきで彼女の言葉を反芻する。誰がそんなことを言ったのかは定かではないが、彼女の扱いにはもっと気をつけなければならない。

 当時のことを思い出そうとしても、二年前は、昔のヴァネッサが王宮を乗っ取る一世一代の大勝負に出ていた時期。あまりに多くの事件があったから、本筋から外れた記憶は薄れてしまっている。


(ねえ……私は、貴女をどうしたらいいの?)


 元々リルはクローデットに手を伸ばすための補助として引き入れたが、この話があるとしたら、今のヴァネッサが黒魔女だと割れた時のリスクが跳ね上がる。かといって今更彼女と距離を置くわけにはいかない。昔の黒魔女ならば躊躇なくどうにかできただろうが……


(――そうね)


 複雑な問題ではあったが、ヴァネッサには一つがあった。

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