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3-3 やさしいチーズリゾット

 閉店後、リルは一人で調理場の掃除に勤しんでいた。店長のヴァネッサは「用事」で二階の私室へ籠ったため、今夜は彼女一人だけで作業することになったのだ。いつもならベッドに入る時間になってもまだ、明日の営業に向けた準備が残っている。

 瓜の酢漬けを瓶に仕込み、古くなった油を取り替えて……諸々の仕事を片付けた頃、汗をびっしょりとかいたリルは大きな息を吐きながら膝を折る。


「はあああ、やっと終わりました……」


 落ち着くための時間が出来ると、その無防備になった瞬間を狙うように不安が忍び寄ってくる。リルの脳裏によぎったのは、かつて自分がお勤めしていたジラード家の当主、オーレリアンの顔だった。

 面と向かって話した回数は多くない。厨房の新人メイドとして挨拶して、しばらく経ってあまりに下衆の見え透いた「私的なお世話」を要求されたのをやんわり断って……その辺りから、屋敷内でリルに対する風当たりが強くなったことは覚えている。オーレリアンだけでなく、メイド長を含めた上級メイドからもだ。


『新人メイドの分際でオーレリアン様の要求を断るなんて、どうかしてるんじゃなくて? 貴女のお母さんは躾をサボっていたのかしら……!』

『固まってないでさっさと動く! 貴女がそこに立っていたらイライラするのよ』

『やる気はあるの? ないなら荷物まとめて出て行きなさい。でも、ここで勤められないなら貴女は何処に行っても使い物にならないわ』

『新しいスカートはまだか……? あら、そんな話聞いてたかしら。ごめんなさいね、もうしばらくはその臭くて汚いぼろ布で我慢しなさい。いいわね?』

『――返事は? 聞こえないわよ? ねえ?』

「っ……」


 風船が弾けるように連想が中断され、かっと目を開けたリルは過去を振り払おうと首を振った。階段の軋む音が聞こえたため、立ち上がって平静を取り繕ったところでヴァネッサが心配そうに声を掛けてくる。彼女の顔にも疲れが見えた。


「心配したわ。まだやってたの」

「うう、ごめんなさい。まだ終わってません……」

「謝らないで、頑張ってる貴女を褒めたのよ……。むしろ、謝るのは私の方。今日は店の仕事の大半を任せてしまったから。一人は大変だったでしょ」


 その時、ぎゅるるる、とリルのお腹が鳴った。二人ともあまりの忙しさに夕食を忘れていたようで、ヴァネッサも思い出したように空腹を覚え始める。とは言っても、既に時間はかなり遅くなってしまっていた。

 早く寝るべきだが、このままでは今日の疲れを残したまま明日に入ってしまう。ヴァネッサは厨房の棚に並ぶハーブの瓶を眺め、喉を低く鳴らすように唸った。


「……リル、ご飯は私が作っておくわ。今のうちに身体を拭いてきなさい」

「はい、わかりました」


 言われるまま二階の私室――今のところはヴァネッサと相部屋になっている場所でリルは服を脱ぎ、濡らしておいた布巾で全身の汗を拭いていく。


 思えば、不思議な部屋である。馴染みのあるものはリルも見ただけで把握できるが、元々ヴァネッサ一人だけの部屋だったここには奇妙な物も多い。別の言語で書かれているように窺える分厚い本、謎の粉末が詰められた小瓶の列、輪の形に作られた植物の壁飾り……

 それが何か、リルには知るよしもない。彼女は読み書きに明るくなかった。ヴァネッサは彼女と全く違う世界を生きているようで、同じ部屋で寝起きしても分からないことは多い。


(そう言えば、お母さんの部屋にも、色んな本が置いてあったっけ)

(……お母さん)


 夜の暗さも相まって、リルの気持ちはすっかり沈み込んでいた。身体を拭いたリルは就寝用のゆるい服に着替え、一階の店へ階段を下りる。

 すると、厨房から暖かな空気が漂ってきた。

 そこに感じられるのは、チーズと牛乳の濃厚な香り。急いで厨房へ入る。


「座ってて良いわよ、リル」

「なにか、私に手伝えることは……」

「……そうね、それじゃあ、今から皿に盛るから、テーブルに運んで頂戴」


 リルはいつになく物静かになって、ヴァネッサに言われた通り皿を運ぶ。

 今日の晩ご飯はチーズリゾットだった。量は多くはないものの、米とチーズは腹に溜まって満足度が高い。スプーンですくい、火傷しないよう丁寧に息で冷ましてから頬張ると、一日頑張りきったご褒美の味が口いっぱいに広がった。


「はふぅ……!」

「そう言えば、ご褒美をあげるって約束したわね。何か考えてるものはある?」

「あっ、そうでした。ええと、どうしよう」


 温かい食事を取る中で、泥のように濁ったリルの頭が元の澄み渡りを取り戻していく。静かで、穏やかで、そして幸せな時間を過ごしながら、彼女は少しだけ悩んでヴァネッサの顔を見る。眠気で視界の端が霞んでいた。


「一緒に、寝てくれませんか」

「あら、毎日寝るときは一緒じゃない」

「……ダメ、ですか?」

「ふふ、分かったわよ。今日はもう遅いから……そうだ」


 空になったリゾットの皿を戻し(丁寧に洗うのは翌日にすると決めた)、ヴァネッサは淡い緑色の液が入った小瓶を二本持ってくる。中にはハーブのような植物も一欠片混ざっていた。

 それをヴァネッサが飲んでから、リルも後を追うように飲んでみる。甘い常温の飲み物だったが、口の中には風が吹くような清涼感が残った。


「部屋に戻るわよ。階段は上れる?」

「うん、大丈夫、です」


 すっかり力の抜けたリルは手を繋いでもらって二階へ上り、一足先に二人の私室でベッドに入る。身体を拭いて清潔にしようとするヴァネッサをおぼろげな視界に捉えている内、どこか懐かしい不思議な気持ちを覚え始めていた。

 頑張って眠らないように堪えていると、着替えを終えたヴァネッサがリルの隣に入ってきて、首と枕の隙間に腕を差し込むようにしてリルを抱く。包み込まれ、ぴったりとくっつくように甘え始める彼女の肩を、指で優しくとんとん叩く。


「さっきの薬はよく眠れるようにする薬よ。ゆっくり休みなさい、リル」

「てんちょ……」


 果たしてそれを聞いていたかどうかはさておき……


「おかあ、さん」


 それが、夢の世界へ落ちる前にリルが残した言葉だった。

 ヴァネッサは眠気の乗った瞼を開きながら、腕の中で丸くなった少女を優しく撫でる。彼女が眠ったことを確認してから、誰か別の人にも言い聞かせるような寂しい口調で囁いた。


「……私は、貴女のお母さんじゃないわよ」

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