新しく店員となったリルの評判は上々だった。表情豊かな彼女が活気に満ちた様子で注文を聞いてくれる……客側に下心がないことはないだろうが、ともあれ、レイヴン・バーガーは繁忙の中にあった。
かつてこれらの客全てはヴァネッサが常人離れした働きぶりで捌いていたが、今は違う。彼女は厨房の中で何本ものフライパンをいっぺんに操り、パティを焼きながらバンズを暖める料理人として作業に専念できていた。
「店長! ハンバーガーとポテトのセット四つ入りました!」
「ポテトは今から新しく揚げるから、少し時間がかかるように伝えて!」
誰が言ったか――厨房とは、料理人にとっての戦場である。
客一人一人の期待が込められた注文、それが溜まり溜まって積み重なるよりも先に、ヴァネッサは炉の炎を操りながらハンバーガーを次々と完成させてオーダーに応えていく。片手間で揚げていたフライドポテトも出来上がった物から次々と取り出しては、カラスの絵が印刷された袋に入れられていった。
盆の上に手早く並べられたハンバーガーとポテトのセットは、冷めるのを待つ間もなく客の手に渡される。リルの姿を一目見ようとやって来た客も、店の盛況を見て誘い込まれた客も、全員が食欲をそそる香りの前で笑顔になった。
(仕事を覚えるまでは早かったわね)
(どうなるかと思ったけれど、これなら店もなんとかなりそう……)
一日の山場も越え、仕事に忙殺されかけていたヴァネッサが当初の目的――想い人を自分のものにすること――を思い出せるようになった頃。
それら全てにヒビを入れるような、激震とも呼べる事件が発生した。
「あ、いらっしゃ――」
受付に何人か並んでいるその後ろ、店のドアが開いた時にリルが出迎えの挨拶をしようとするが、途端に彼女の顔から血の気が引く。
そこに立っていたのは、ぎらぎらと緑の原色を光らせるような上着に身を包んだ男、オーレリアン・ジラード。周りで食事を楽しんでいた客たちが一斉にどよめきだす中、彼はけちを付ける部分を探すように店の中をぐるりと見渡し始める。
「あぁっ……」
「リル? どうしたの?」
震えながら厨房に逃げ込んできたリルを見かね、事情を聞こうとするヴァネッサ。彼女の顔は恐怖と悲愴に塗れ、今にもその場で身体を丸くして泣き出してしまいそうだった。
とても会話できる状況ではない。仕方なくヴァネッサが受付に出ると――
「ふん、態度がなっていない店じゃないか。せっかくこの私が客として来たというのに出迎えの一つもない。店の看板にカラスが描かれているのも鼻につくな」
「オーレリアン公、周りには民が……」
既に形成されていた行列をお構いなしに立っていたのは、今にも説教を垂れそうに鼻を膨らませている豚のように太った貴族の男。そして彼の後ろには、忘れるはずもない、白髪と翠眼の美しい女騎士の護衛が物静かに控えていた。
カウンターに出たヴァネッサは、物憂げに立つクローデットの姿を見てはっと言葉を失い……もう一方の男性客、オーレリアン・ジラードの姿を見て――
(忘れてたわ……できれば、そのまま忘れていたかったけれど……!)
頭の中で今にも怒りが爆発しそうになるのを寸で堪えた。
そしてすぐに笑みを作る。オーレリアンはヴァネッサを見つけると、まるで美術館の名画と運命的な出会いを果たしたようにウットリと息を吐いた。
「ああ……これはなんとお美しい方! 貴女のように素敵な女性が店を構えられているのを知らなかったとは、このオーレリアンも鈍くなったものだ」
「い……いらっしゃい、オーレリアン公」
(クソっ、上流貴族なら家で籠もってなさいよ、ジラード家の畜生男!)
ヴァネッサの頭に蘇っていたのは二年前の侵略戦の記憶だ。智恵に優れているわけではないが、とにかく往生際の悪い奴で散々面倒な思いをさせられた相手……。
しかし、そんな積年の敵とも呼べる男はヴァネッサに何も思わないどころか、心底惚れ込んだ様子で鼻の下を伸ばし、怪しくニヤニヤと笑っていたのだった。
「どれ、私も一つ、そのハンバーガーとやらをお願いしてみようか。貴女のように美麗な御婦人が作るのだ、きっと素晴らしい料理であるに違いない」
「……」
注文を受けてから視線を横に向けると、最初からカウンターに並んでいた客人たちが、まるで身内に不幸が起きたように悲愴感漂う表情をしていた。
オーレリアンの後ろではクローデットが非常にやりづらそうに視線を落としている。この状況をどうにかしてほしいと無言で助けを求めているようでもあった。
(クローデットはおそらく護衛中。力関係はあの豚が上ね)
(昔からいい話は聞かない男だわ、万が一、万が一でも、クローデットが……)
頭の中に浮かび上がる、卑しき貴族の要求に屈してしまった哀れな女騎士の姿。自由を奪われた彼女は目の端に涙を浮かべ、今にも毒牙をかけられてしまう状況で助けを求めるのだ。たとえば、こんな風に――。
『助けてくれ……このままでは、私は……!』
『まさか、騎士団長様とこのような日を迎えられるとは思いませんでしたな!』
『ああ、ヴァネッサ……本当に、すまない……』
『そんな、なんてこと! クローデット! クローデット――!』
哀れ、騎士団の未来の為に美しい女騎士はその身を捧げなければならない。なんてかわいそう! ジラード邸の重い扉は運命が結ぶはずだった二人を断ち切り、かつての英雄は欲深き男の政治力を高めるだけのお飾りに堕ちてしまう。
そのような……
そのような、吐き気を催すおぞましいことを、ヴァネッサが許すわけがない。
「スゥ――――」
息を一つ。今この状況で何をするべきか、ヴァネッサは結論をすぐに導き出す。
囚われの身となった悲劇の女騎士クローデットを巨悪オーレリアンの手から守るのだ。例えそれが、ヴァネッサの頭の中だけで繰り広げられる、彼女が主役の妄想劇に過ぎなかったとしても。
オーレリアン・ジラードを、
彼は「黒魔女ヴァネッサと白騎士クローデットの物語」に存在してはならない。
「……かしこまりました、只今より心を込めてお作りいたします。丁度奥の席が空いておりますので、そちらで腰掛けてお待ちください」
「質の良い肉を使うことだ、私の舌は肥えているからな。靴底のような肉を刻んで使ってもすぐに分かるぞ! そうだクローデット、少しの間話し相手になれ。丁度二人座れそうな席があるではないか」
「勿論お付き合いしましょう。ただ、私は護衛であるが故、立っているだけで結構。折角ですので、席はオーレリアン公が広く使ってください……」
クローデットは明らかに嫌な気持ちをグッと堪えて婉曲表現に尽くしていた。
ヴァネッサは客の目が入らない厨房へ戻り、さっきからうずくまっていたリルの隣で膝を折る。
ふと、リルが初めて店に転がり込んできた時の薄汚れた服装が彼女の視界で重なった。怒りによる声の震えを抑えながら、ヴァネッサは耳元へ口を寄せる。
「大丈夫よ、リル。あの男は私に任せて」
「ひっ……ひぐっ」
「ここは私の店よ。貴女を傷つけるなんてこの私が絶対に許さない。リルはとてもよくやっているわ。誇りを持って、今まで通り立ってくれれば良いの」
「てん、ちょう……」
なんとか落ち着きを取り戻したリルを、ヴァネッサは優しく抱きしめる。
時間はない。彼女はその中、一つお願い事をするようにリルへ囁きかけた。
「私はこれから、特注のハンバーガーを作ってあの男をなんとかする。その間、カウンターと厨房どちらも一人でやってもらえる?」
「ひ、一人で!? 無理です、お客さんを待たせちゃいます……」
「いいのよ、後で全部まとめて私が謝るわ。それに――」
ヴァネッサはリルを鼓舞するように、額へ優しいキスを贈った……。
「こんなこと言うのは狡いと思うけれど、今頼れるのは貴女しかいないの。作業はゆっくりでいい、少しくらい不格好でもいい。お願い。私を助けて」
二人の目が合う。リルは、ヴァネッサが自分のことをこんなに頼ってくれている姿を見て……なにか、大切なものを思い出したように口を結ぶ。
リルの目に光が戻り始めていた。
彼女は込み上げてきていた嗚咽を飲み込み、目の端に残った涙を指で拭う。
「わかりました。やります」
その声には、しっかりと根を張った気概が戻ってきていた。覚悟を決めた表情で立ち上がったリルは、気持ちを引き締めるように両手で頬を軽く叩く。そしてちょっとかっこいい姿を見せようと、腰に手を当てながらフンと胸を張ってみせた。
「行ってきます……店長、あの人をお願いします」
「期待しているわよ、リル! 終わったらご褒美をあげるわ」
リルが受付台へ戻り、厨房にはヴァネッサだけが残された。彼女は一人焜炉台の前に立ち、フライパンでパティを焼きながら思案に耽る。
近くの棚には調味料を始めとした各種スパイスが並んでいるが、そこには魔女しか使い方の分からない薬も用意されていた。決断をしたヴァネッサは棚から小瓶を一つ取り出す。
手の中で赤く反射する瓶。あの惚れ薬だ――。
(まさか、こんなに早く対面するとは思ってなかった。オーレリアン・ジラード)
(貴方をどう
レイヴン・バーガーは魔女の台所。奇妙奇天烈、全て彼女の思うがまま。