魔女という存在は、愛を知らないままに生まれてくる。
「――来たぞ。ようやく会えたな、黒魔女」
「フン……」
新月の雨夜。空になった城の玉座では黒衣の女性が頬杖を突き、長い脚を組みながら不機嫌を隠さない様子で鼻を鳴らしていた。黒魔女と呼ばれた女が見下ろす先では、頭からつま先まで白銀に覆った騎士が立っている。
城の尖塔に雷が落ちた。三角帽子の影が浮き、剣先に青白い煌めきが走る。張り詰められた殺気が音と共に炸裂し、二人が血の赤い糸で繋がった。
「私は『白騎士』クローデット・アンドレ。その椅子を王の下へ返してもらおう」
「腐れきった王族の犬……気に入らないわ。騎士とは、幾ら叩き潰してもその下から虫のように這い出てくるものなのね。どれほど策の網を張り巡らそうと、必ずその目を抜けて、この私を苛立たせる……!」
壁に並ぶランプが次々と炎を宿し、黒魔女の疎ましい表情が浮かび上がる。闇色のローブに包まれた身体がゆっくりと立ち上がった。
魔女が右手を向け、危険を察知したクローデットは真横へ転がる。直後――先程まで立っていた石畳が割れて火柱が上がった。顔全体を覆う煤けた鉄兜の隙間、迸りを映した翠眼がぎらりと光る。
「黒魔女、ここで貴様を殺す!」
「……薄汚い鼠へ格下げね。私をここまで不愉快にさせた人間は初めてよ!」
「
がしゃり、とブーツが地面を蹴った。女騎士の姿が影に隠れたと思えば……その直後、不意を突くようにして魔女の眼前へ躍り出る。
近付いた……! 後ろ手に構えられた剣が半弧を描く。薄闇を刀身へ宿したそれは、魔女の身体の芯を確かに捉えていた。
――だが、その攻撃は虚空と遊ぶだけに終わった。魔女は既に一歩退いた場所で笑っている。まるで蜃気楼のようだ……女騎士の舌打ちが飛ぶ。
その後も、互いに繰り出される剣と魔法の応酬。相手の一歩先を狙っていたそれは、更に先を見据えた観察眼と瞬発力で躱されて有効打にならない。雷光が走り、炎が姿を見せる度に、魔女の強面と飾り気のないヘルムが照らし出される。
「ちっ、忙しなく這い回って!」
「仲間が行けと言ってくれた……私は、ここで折れるわけにはいかんっ!」
「ふふ……その仲間って、声を上げた
「声を上げた? 反乱の原因は貴様だろう! 罪のない者を誑かして……!」
腹の底から声を張り上げるクローデット。足元から吹き上がる炎に怯まず、飴色に輝く切っ先で光の弧を描く。身体中の火傷を覚悟して繰り出された斬撃は魔女の腹に一筋の跡を残した。
互いに苦痛を奥歯で噛み殺すような唸り声を漏らす。それでも白騎士は黒魔女へ手を伸ばし、玉座の目の前で掴み合う姿勢になった。殆ど額が擦り合うような距離、二人は相手を目だけで殺さんとする様子でぎっと睨んだ。
「捕まえたぞ……黒魔女!」
「気に入らない、気に入らないわ! 貴様のような英雄気取りには虫唾が走る!」
「じきに私自らが裁いてやる……。政争に狂った人の数だけ髪を抜き、失った仲間の数だけ爪を剥がす! 火あぶりの日には同行しよう、お前が死んだ後も、私の顔を決して忘れられぬようにな!」
「へえ……」
下を向いていた黒魔女が、絶氷のように凍てつく笑みを見せた。
「勝ったつもりでいるのね。名前は確か、クローデット、だったかしら?」
「企み事か――」
「もう、遅いわよ!」
二人の腹の下がにわかに明るくなる。次の瞬間、火薬庫が吹き飛んだような爆音――城を揺るがす衝撃と共に二人の身体が宙へ投げ出された。
それは諸刃の剣。
黒魔女自らも巻き込んだ大爆発は白騎士の身体を確かに呑みこんだ。蛇のような焔に巻き上げられた二人は床へ叩きつけられた後も火傷の痛みに苦しんだが、それでもなお勝利を貪欲に求めて相手を向く。
白騎士の向こう、魔女は一度立ち上がったが膝をついた。腹の傷が深い。彼女の耳から漏れる黒く粘り気のある油が、筋を作って顎へ流れていく。
満身創痍の二人が立ち上がることもままならない中、魔女が次の攻撃の隙を窺っていると……入り口から他の騎士たちの駆ける足音が聞こえてきた。反乱を制圧した生き残りの騎士たちが王城奪還のため上ってきたのだ。
「ちっ、仕留めきれなかったようね。所詮は烏合の衆、役立たずが……!」
「諦めろ、黒魔女……! 我々騎士団は、貴様のような悪には屈しない!」
形勢は白騎士の方へ傾いていた。黒魔女はこのままでは多勢に無勢と判断し、自分の身体に傷をつけた「鎧の女」へ怨恨の籠もった視線を向けてから、見切りをつけたように首を横に振った。
「ここまでかしら……次は絶対、私が勝つ! 完全勝利するっ……! 次こそはっ……!」
屈辱の撤退を余儀なくされて歯ぎしりする彼女。その身体は黒煙となって揺らぎ、何羽ものカラスとなって王城の窓から外へ抜けていく。
「待て、黒魔女! 逃げるな……私と戦えっ……!」
白騎士クローデットの叫びは静かな雨夜に溶けていく。姿勢を乱しながら飛ぶ傷塗れの群れは、誰も知らない闇の中へ紛れていった。
――黒魔女は去った。それから、二年の月日が流れた。
◆ ◆ ◆
国全体を騒がせた黒魔女の一件が、人々の頭から風化し始める頃。綺麗に晴れた灰色の空の下、フードを被った女性が城下町の狭い路地の日陰を歩いていた。
向かう先には、他国との交易で集めた薬草を取り扱う店があった。女は周りで誰も自分を見ていないことを確認してから軋む扉の隙間へ滑り込む。中では、エメラルドグリーンの薄布で顔を隠した女性がカウンターを挟んで座っていた。
「いらっしゃい。今はヴァネッサだっけ? また性懲りも無く戻ってきたの」
「戦いは最後まで立っている者が勝つのよ。
「はいはい……あんたは未だ悪名高き魔女だ。
「分かってるわ。
かつて黒魔女として、王国アルダブルの政治を混乱に陥れた女性ヴァネッサ。彼女は今、民衆の薄れた記憶の隙間で静かに暮らす日々を送っていた。
表立って活動することは殆ど無いが、それでも、胸中に秘めた復讐心が消えたことはない。時間は自分の味方である――そう念じながら、再び王国の全権力を掌握し、憎き騎士団を壊滅できる確実なチャンスが訪れるのを、虎視眈々と狙っていたのだ。
「ほい、いつもの。そう言えばもうすぐ騎士団の凱旋パレードがあるぞ」
「凱旋パレード? ああ、西砂漠のサンドワームを倒したって……」
「騎士サマを一目見ようとする人で道は混むからな、気をつけて帰るんだぞ」
「ふうん……」
紙袋に包まれた薬草を籠一杯に詰めてヴァネッサは店を出る。先程の会話の流れもあってか大通りの方へ足が動いていた。
既に道の両脇には人々が群れを成し、噂話や与太話が四方八方から飛び交っていた。酷く耳障りな中でヴァネッサは群衆の隙間を探し、なんとか大通りに面したところへ顔を覗かせた。
「来たぞ! 騎士団長クローデット様だ!」
城下町の西門が開き、歓声が上がる。
王国アルダブルの旗を持った兵に続き、毛並みの整えられた白馬に乗った騎士が帰ってきた。両脇を槍兵で固めた騎士団長はヘルムを付けておらず、ヴァネッサは良い機会だと思ってその顔を確かめようとする。
しかし、長く首を伸ばし続けるのも面倒で……少し休んでから、近くへやって来た「彼女」をゆっくり見上げた瞬間だった。
「え……」
白く透き通った髪を伸ばした翠眼の女性が、凜とした横顔を晒していた。
鎧を纏って馬に跨がる姿はそれだけで油絵のように美しく、濁った瞳と物憂げな表情がこれまでの苦悩を暗に匂わせているよう。すらりと背の伸びた彼女は時折周りを見るように視線だけ動かし……ほんの少し、ヴァネッサと視線を合わせた。
(……!)
彼女も頭に引っかかった記憶があったかもしれない。だが特に何か起きるわけでもなく、騎士団長を乗せた白馬はゆっくりと通り過ぎていく。
かつての黒魔女は自分でも知らないうちに両膝をつき、真っ直ぐに伸びた後ろ姿を呆然と目で追いかけていた。脈が乱れ、口を開いて獣のような息を短く吐き続けた。
(クロー、デット……?)
(そんな……あの、忌々しい騎士団の女が……あんなにっ……)
綺麗――――それを自覚してすぐ、ヴァネッサは顔の色を真っ赤に変え、気が動転したように両手で顔を覆って俯く。足元に薬草の入った籠が転がるもそれどころではない。自分でものを考えて動くための大切な部分を抜き取られたように、パレードが通り過ぎるまでの間、ずっと一人で悶えるような声を上げ続けていたのだった。
死んでしまう。いま、彼女に声をかけられたら殺されてしまう!
(クローデット、クローデット。はあ、素敵な名前ね……)
……やがて、発作のような動揺が落ち着いた頃。
顔を上げたヴァネッサの前には、色で満ちた美しい世界が広がっていた。どこまでも続く爽やかな青空、緻密に模様の整えられたレンガ建築、店前の花壇に咲く何種類もの花々……それらに圧倒されたように、彼女は詰まっていた息を吐き出した。
(ああ、どうして)
(貴女が、あんなにも美しい人だったなんて……)
身体中にみなぎる行き場のない力、腹の底で爆発した感情のエネルギーは、先程のあまりに甘美な体験と結びついてヴァネッサを悪魔的な妄想の世界へ引きずり込む。それは、騎士団長であるクローデットと生活を共にして、朝の目覚めのキスを交わす、想像するだけで頭がとろけるような光景……。
そこに、かつて王国を支配しようと目論んでいたずる賢い魔女の姿はなかった。国家の転覆、権力の掌握、そのようなものは今の彼女には全くと言っていい程に価値がない。あるわけがない。
(クローデット)
(あなたを、必ず、私のものにしてみせる! 絶対に!)
(そして……貴女から私に好きって言わせてみせるわ、フフ……)
黒魔女ヴァネッサ、齢143歳。
あまりに遅咲きで、前途多難な恋が始まったのだった。