深く、暗い空間にいた。
どこなのかはわからない。
海の中なのか、穴の中なのか、闇の中なのか。
身体がふわりと宙に浮かんでいる気がする。奇妙な場所だ。
そんな空間でわたしの身体はゆっくりと落ちていく。
ずっと深く、下へ。
下……なのだろうか。
もしかしたら違うかもしれない。
方向感覚が曖昧で、進む先すらわからない。
そういえば今までなにしていたっけ。
思い出せないや。
まあいっか。
とても眠い気がする。
このまま、ずっとずっと眠っていたい――
――不意に、光が差し込んだ。
眩しい。
けれど、不思議と力が湧いてくる。
光に誘われるように、わたしの意識は覚醒した。
霞む視界。
瞬きを繰り返すと、徐々に曇りが晴れて、鮮やかになっていく。
目の前に、シワの広がる手があった。
腕を辿っていき、その手の持ち主を見る。
ボサッとした白髪は胸元あたりまで伸びている。
シワの多い顔は渋面を作り、締め付けの少ないゆったりとした服を身につけている。
その人物は車椅子に腰掛けながら、わたしを見つめていた。
「……マリ……エス、様?」
わたしよりも前に聖女をしていたマリエス様が目の前にいる。
彼女とはしばらく合っていないのだが、なぜそばにいるのだろうか。
そもそもここはどこなのだろうか。
頭が働かず、考えがまとまらない。
自分の状況を確認するところから始める。
どうやらわたしは室内のベッドで横になっているようだ。
左にはカーテンのかかった窓がある。
そこからは朝日……だろうか、爽やかな光が漏れ出ている。
そして、全身が鉛のように重い。
だるさもあって、まるで熱を出しているようだ。
「起きたかい……?」
しわがれた低めの声で、マリエス様はおもむろに告げた。
「今のって回復魔法か?」
シュダの声?
どうやら近くにいるようだ。
目を動かすとマリエス様の背後にシュダの姿があった。
「そんなとこさね。ちょっとあの世へいきかけていたからねぇ」
あの世へいきかける……?
──そうだ。思い出した。
わたしは悪魔との戦いに勝った直後に倒れたんだった。
その後、みんながここまで運んでくれたのだろう。
「お姉ちゃああんっ!」
今度はフウラの声。
声をたどるように視線を移すと、わたしの足元のそばにいた。
たしか気を失っていたはずだが、目覚めたようだ。声音から元気そうで安心した。
「あたしお姉ちゃんが無事でほんどに、ほんどによがっだぁぁあ!」
涙ながらにわたしに泣きついてくるフウラ。
その頭を撫でようとするが――
「……ッ?!」
微かに腕を動かしただけで、稲妻が走ったような激痛が生じた。
わたしの表情を察してか、マリエス様が口を動かす。
「話は聞いたよ。生命力をほぼ使い切ったんだろう。しばらくは痛みで動けないはずさ。……でも安心せい。数日寝れば元気になるさね」
「生命力って……そんなの使って大丈夫なんですか!?」
フウラが取り乱した様子でマリエス様に尋ねる。
「完全に使い切らなければ、休養や食事で回復できるから問題ないさね。ただ……危ないところだったろうね。なにせ枯渇状態だったからね」
あのときはみんなを救うことしか頭になかった。冷静になった今考えてみると、死と隣り合わせであったことに背筋が凍る。
「…………」
恐怖に手が震えた。
その震えを抑えるようにマリエス様がわたしの手を握る。
「でも、あんたはよくやったと思うよ」
わたしは顔を上げた。
マリエス様の灰色の瞳がわたしを見やる。
「聖女は、時に命をかけて戦わなくてはならない。それをあんたはやり遂げたんだ」
マリエス様は緊張感の抜けたような、緩んだ表情を浮かべる。
「立派な聖女だと、アタシはあんたのことを誇りに思うよ」
「……ありがとう、ございますわ」
立派な聖女を目指していたわたしにとって、尊敬する先代聖女であるマリエス様のお墨付きを貰えることは、たいへん嬉しいものであった。
選ばれし聖女として、懸命に勤しんでいるつもりではある。
だが、実際にその努力を認めてもらえると頬が緩むのを抑えきれない。
わたしはちゃんと聖女をやれているんだという安堵感が、胸のうちに広がっていく。
「けど、それとは別に、命をかけるなんていう真似は見逃せないね」
「…………へ?」
マリエス様のその言葉にわたしは硬直した。一気に手のひらを返された気分だ。
「生命力を使い切るほどの勢いで魔法を唱えまくるなんて命知らずにもほどがあるじゃないか」
マリエス様の話は止まらない。
「それに本来総出で戦うはずの悪魔とこんな少人数でやり合うとはね。悪魔は人の意識を乗っ取ることもあるほど危険な存在さ。今回はあんたが矢面に立ったからか、誰も被害に遭わなかったそうだけど、可能性としてはあり得たからねぇ」
言っていることは正しいので口を挟めない。
「聞けば、少し前にドラゴンとも戦ったそうじゃないか。聖女というのはこの辺にあんたしかいないんだから、自分を顧みず無闇やたらに立ち向かうのはよくないさね」
確かに少し無謀な戦いを繰り広げすぎたかもしれない。
「それに……たった一人の妹を不安にさせるのはいただけないねぇ」
「お姉ちゃん……」
フウラが泣き腫らした赤みの残る目でわたしを見つめてきた。
その不安の残る顔を見ると、わたしの心に罪悪感が湧き上がった。
「……わたくし、今後は無茶な戦いをしないように心がけますわ」
「それがいいさね……説教はこのくらいにして、順を追って話そうかね。旧教会の地下に儀式場、そのさらに下に人が通れるほどの洞窟があったんだってねぇ?」
「ええ。マリエス様はご存知だったのか、気になっていましたの」
わたしたちが今回悪魔を追ってたどり着いた旧教会。
その地下には奇妙な空間がいくつもあった。
「悪いけど知らないね。歴史ある教会だから、まあそういうこともあるさね」
しかし、マリエス様でも知らないようで、わたしは小さく息を吐いた。
「……あと、これはアタシの憶測になるけれど、人が通れるほどの洞窟に関しては、かつての戦争で使われた防空壕だったんじゃないかね。地上まで繋がっていたのだろう?」
聞けば、どうやらあの洞窟は地上と繋がっていたらしく、そのおかけでわたしたちは戻ってこられたそうだ。
戻ってきたといえば……気になることが。
「そういえば……ここはどこですの?」
「アタシの家さ。ここにいるのはそいつのおかげさね」
マリエス様が目を向ける先には壁に背を預けるカナガゼルがいた。
「オレがここへ連れてきたんだ。魔法のことはなんもわからねぇから、専門家に聞いたほうが早いと思ってな。相当会ってなかったから、道うろ覚えだったけど」
「知り合い、ですの?」
驚きながら問う。
「ちょっと昔にあれこれあっただけで、まぁたいしたことはないさね」
「ちょっととか言って何十年前の話してんだよ」
「あんたがまだ国一番の騎士として名を馳せていた、若かりし頃かね」
「マリエスもあんときは絶世の美人聖女とか呼ばれてなかったか?」
「はっはっは。懐かしいねぇ」
マリエス様は昔を懐かしむように目を細めながら、高笑いした。
「今は、老いぼれだけどな」
「誰が老いぼれさね?」
「鏡見てから言え」
軽快なトークを傍らで聞くわたしたち。
二人は古い友人なのだろうか。
カナガゼルが騎士と言っていたから、案外わたしたちの関係性と似ているのかもしれない。
聖女と騎士……か。
「なんか意外と仲良さそうだな」
「そうですわね」
「じぃーーー」
フウラがジト目で見つめてきた。
「フウラ、なにか気になることがありまして?」
「お姉ちゃんとシュダさんも仲良さそうだなーと思って」
「別にそこまでではありませんわ」「別にそこまでじゃないぞ」
「ほら、やっぱり仲良しじゃん!」