「この旧教会は数年前に来たことがありますが、中に入るのは今回が初めてですわ」
前回来たのは聖女になったばかりの頃だった気がする。
教会が昔はこんなところにあったのだと知り、驚いた記憶がある。
「これ、入っても大丈夫なのか? いきなり天井や壁が崩れてきて下敷きにならないか?」
「教会は頑丈な造りですので、安心して入れますわよ」
「でもお姉ちゃん、壁叩くとポロポロ落ちてくるよ」
フウラが壁をコツコツと叩いていた。
叩いたそばから、くすんだ色の外壁が呆気なく崩れていく。
「……いざとなったら障壁魔法を展開しますわ。安心してくださいまし」
「頑丈な教会も、時の流れには勝てないってか」
シュダはそう言って軽く笑っていた。
教会の両扉には錠前が取り付けられていたが、経年劣化の影響か、鍵がなくとも普通に扉は開いた。
建て付けが悪くなっているようなので、シュダに強く押してもらう。
ぎぃぃぃ、と嫌な音を耳に感じた。
ごぉぉぉんという低い音と共に、シュダが扉を開き切る。
教会内は静寂に満ちていた。
長めの椅子が左右に並び、奥まで続いている。
最奥の一段上がったところには講壇があった。寂れてもなお教会としての体裁を感じさせる。
壁にはめ込まれた色褪せたガラスには大きくヒビが入っていた。
椅子に挟まれた中央の道を歩くと、足音がうるさいくらいに反響する。
誰かがいれば間違いなく気付けるほど、静かだった。
割れた窓から入る夕暮れの光が埃を浮き上がらせている。
「誰もいないね」
フウラがぽつりとこぼす。
大きな声で言ったわけでもないのに、その声は教会内へ響き渡った。
人気の感じられない寂れた教会。
本当にこんなところに悪魔がいるのだろうか。
フウラの痣を魔法でみたときに感じた気配は確実にここだった。
場所を移動する可能性もあるだろうと、出発前にもう一度確認しているが、昨日と変わりはなかった。
昨日、今日とここにいたのなら、今もここに留まっている可能性は高いはず。
緊張した面持ちで進んではいるが、寂れてもなお荘厳な空気感に、自然と心が動かされる。
教会のかつての姿を幻視する。
聖女がいて、近くに暮らす人々がいて。
笑い声が、悲しむ声が、遠くから聞こえてくるようだ。
人は祈りを捧げ、日々は過ぎ去っていく。
なんの変哲もない、ごく普通の日常。
けれど、その景色がいつまでも当たり前であり続けるわけではない。
色鮮やかな景色は消え失せ、現実が目に飛び込んでくる。
壁も床も、汚れや割れが酷く目立つ。
埃が充満し、空気の悪さを感じる。
人々から忘れ去られ、寂れて、それでも変わらず教会はここにある。
孤独に時を経るそんな教会に、一抹の寂しさを覚えた。
教会の最奥まで歩いて来た。
「ここ、なんか他と違くないか?」
シュダが床のある部分を足で示した。
言われてみれば、その部分だけ微かに浮き上がっているようにも見える。
劣化した影響だろうか。
「地下に行く隠し階段があるのかも!」
フウラが楽しげに跳ね始める。
そんな物語みたいなこと起こるわけない。
そもそもこの旧教会に地下など存在しないはずだ。
わたしの前任者は教会の地下について一言も語っていなかった。
「そんなわけありませんわ。この通り、隠し階段なんて……」
わたしの言葉は途中で止まった。
止めざるをえなかった。
床の浮き上がった部分を持ち上げて見えてきたのは、下り階段だった。
明かりはなく、数段先は闇の中で、吸い込まれそうな印象を覚える。
「隠し階段だ! すごーい!」
目をキラキラと輝かせ、早速下りようとするフウラを全力で引き止める。
「待ってくださいまし! この先に悪魔がいるかもしれませんわ」
「はっ! そうだった。あぶないあぶない」
「慎重に行くか」
「下りる前に少しいいかしら?」
わたしはシュダに杖を向け、静かに唱え始める。
「煌めく光よ 求む者に力を与えん 【フォードアップ】」
シュダの身体が一瞬光を纏ったように輝いた。光はシュダ自身に吸い込まれるようにしておさまっていく。
身体強化のバフ魔法だ。
かけないよりはマシだろう。
「さぁ、向かいますわ」
わたしはライシャインを発動し、先陣を切る。
わたしの後ろにはフウラ。最後尾にはシュダ。
一歩ずつ確かめるように階段をそろりそろりと降りていく。
やがて、階段の終わりが見えてきた。
降り立ち、周囲を確認する。
無機質な素材の床や壁。
横幅はあまり広くない。人が三人並べる程度だろうか。天井もさほど高くはない。
そんな道がずっと奥まで続いている。果てがどうなっているかは暗くて見通せない。
再び、わたしを先頭に歩いていく。
コツンコツンとした足音と、微かな吐息だけが聞こえてくる。
上とは明らかに空気感が違う。
教会は寂しさを感じた。
でもここは、じめじめとした重さがある。
ふと、ローブを引かれた感触を覚えた。
振り返るとフウラが右手で固く握りしめていた。
「どうかしたのかしら?」
「怖いから、握ってていい?」
小さく問いかけると、フウラは縋るように言った。
フウラは戦えないし、まだ幼いし、怯えるのが当たり前だ。
さっきまでは健気だったが、敵前ということで恐怖心が増してきたのだろう。
「ええ。でも、敵が現れましたらもっと距離をとってくださいまし」
「うん」
そのまま言葉を発さずに、歩き続けた。
長い道の終わりが見えた。先の空間が薄ぼんやりと光っている気がする。
一度立ち止まり、ライシャインを解除して、深呼吸を挟んでから歩き出す。
道を抜けると、視界が一気に開けた。
円状の広大な空間が目に飛び込んでくる。
中心には円形の台座。
その周囲には天井と床を繋ぐ柱が等間隔で無数に立ち並ぶ。
天井は中心に近づくにつれ、高くなっていた。
明かりは見当たらないのに空間全体から淡い光を感じる。しかし、視界は明瞭とは言い難い。かろうじて判別できる程度だ。
思わず、息を呑む。
圧巻するほど、厳かな空気が場に満ちていた。
そんな空間の中央に誰かがいた。
それと、なにかが、いた。
薄い幕が下がったように、その姿は曖昧だった。
彼らはなにやら話しているようだ。遠いからか、内容はここからでは聞き取れない。
わたしは即座に杖を構え、魔法を唱える準備をする。
シュダも腰の剣に手を伸ばした。
彼の剣はドラゴン討伐後に新調したものだ。
約束通り、わたしが贈ったのだ。
切れ味抜群のその剣は、残念ながら騎士団では用いることができないようで、こういった仕事外でしか活躍の場がない。
幸いにも距離があるためか、戦闘態勢となったわたしたちにまだ気づいていないようだ。
無言で魔法を発動寸前まで準備し、いつでも発射できるようキープしておく。
柱を上手く利用し、身体を隠しながら足音を殺して、少しずつ近付いていく。
フウラには入口から一番近くの柱に隠れて留まるよう指示した。
左右から挟み撃ちするようにわたしとシュダは柱を身代わりに進んでいく。
それにしても広い。丸く切り取られたようなこの空間は一体なんなのだろうか。
中央に設けられた円形の台座には深い意味があるのか。
そこまで考えて、頭にある言葉が降ってきた。
儀式場だ。
儀式場とはその名の通り儀式に用いられる場である。
召喚の儀、契約の儀、継承の儀など、世の中にはありとあらゆる儀式が存在するが、大規模な儀式のほとんどは儀式場で執り行われる。
ペンダントから悪魔を喚び出すのに儀式場を用いたか定かではないが、フウラの痣から察するにこれから利用するつもりなのは間違いないだろう。
悪魔と何らかの契約を結ぼうと考えているはずだ。それも、人の命を代償とした大きな契約を。
もしかすると、目をつけられているのはフウラだけではないかもしれない。
そこまで考えて、わたしは中央に佇む彼らを凝視した。
距離が狭まったおかげか、彼らを正確に認識できるようになった。
一人は男だ。どこかやつれたような風貌で、力なく佇んでいる。
もう片方は明らかに人とは言い難い風体を晒していた。
黒くて禍々しい気配を身に纏い、ゆらゆらと実体を持たないかのように蠢く影。
背丈は人よりもやや大きく、その見た目も相まって人外という言葉がピタリと当てはまる。
あれが悪魔だ。間違いない。
確信した途端、ゾクリと背筋を撫でられたような衝撃が走った。
息が苦しくなる。視界が暗くなる。
今立っているのかどうかさえ、わからなくなる。
胸に手を置き、必死に呼吸を整える。
まだあちらには気付かれていない。
大丈夫。
冷静にやれば対処できる。
わたしはそっと悪魔に杖を向ける。
無言詠唱でわたしが発動できる一番攻撃力の高い魔法。
鋭い光の矢を飛ばす、ルクスアロー。
フウラのために木の実を採った時にも使った魔法である。
あの時は威力を軽減して使ったが、今回は全力だ。
ひゅん、と光が一瞬で到達し命中する。
わたしの目には確実にそう見えた。
眩しい光が、命中したところを起点に拡散する。
目を細め、居場所がバレないように別の柱へなんとか移動する。
ゆっくりと視界が戻ってきた頃、人と悪魔は無言で佇んでいた。
悪魔が身体をのそりと動かした。
周囲をキョロキョロと見渡し始める。
息を止め、戦々恐々とした時間が過ぎ去るのをひたすらに待つ。
初撃は失敗した。
光魔法は有効ではなかったのか。
いや、威力が足りなかったと見るべきか。
詠唱を行い、より強大な魔法を浴びせる必要がある。
隠れ続けるのは困難だろう。
「白き光よ集え 迷いの闇を照らせ 我らの道を開け【アル・グレイツ】!」
わたしは詠唱を唱えながら、柱から姿を現す。
魔法が完成し、何本もの光の線が悪魔を焼き切らんと迫っていく。
悪魔は咄嗟に障壁のようなものを展開して、光線を受け止めた。
幾本もの光線が次々と障壁へ打ち当たる。
次第にヒビが入り、パリンと割れてもなお、光線は降り注ぎ続ける。
やがて魔法が尽き、光が霧散していく。
その最中の出来事だった。
一閃。
横薙ぎの一撃が、悪魔のそばに立つ男へ振るわれた。シュダの攻撃だ。
不意打ちの一撃に悲鳴を上げ、男は体勢を崩す。
わたしはシュダと軽くアイコンタクトを交わし合った。
そっちは頼む、と。
わたしの相手は悪魔。
シュダの相手はその男だ。
悪魔へ向き直ると、ややダメージを与えたのか不安定な動きを見せた。
わたしは再び魔法を打ち込もうと、杖を向ける。
「聖女……カ……」
低く唸るような声が聞こえた。
その言葉は悪魔の身体から発せられたはずなのに、耳を通してというよりも脳に直接響いた。
まとわりつき、こびりつくようなどろっとした余韻が広がっていく。
ただ声を聞いただけなのに、身体が震え始める。
握りこぶしを作って震えを断ち切り、次なる魔法を唱える。
「幾本もの光剣よ 肉を斬り 皮膚を裂け【ノストオース】!」
悪魔を取り囲むように、光のナイフが現れた。
わたしが杖を振り下ろすのと同時に、一斉に悪魔へ突き刺さる。
「クッ……」
苦悶が籠もった声を漏らし、悪魔は怯んだ。
未知の存在である悪魔を相手に立ち向かえている。
恐怖は依然として纏わりつくが、この調子なら……。
勝てる。
そう確信すると身体が少し軽くなった気がした。
ここは室内であるため大規模な魔法は使えない。仮に発動したならば、崩落の危険性がある。自分の魔法で生き埋めになるのはごめんだ。
屋内でも使用可能な、やや高威力の魔法で少しずつ削っていくしかない。
シュダは男と剣でせめぎ合っていた。
どうやらさっきの一撃では倒しきれていなかったようだ。
戦力は拮抗しているように見える。
男が持つのは禍々しい光を放つ剣だ。一体なにが宿っているのだろうか。
新たな魔法を使うために呼吸を整えていたが、悪魔が動く気配を察知して、視線を戻す。
ゆらりと影が揺れるように悪魔は体勢を立て直した。
「ナルホド……コノ程度……カ」
この程度……?
冷水を浴びせられたみたいに全身が凍りつく。
さっき障壁を破ったことから、虚勢を張っているだけとも考えられる。
しかし、なんとなくだが底の見通せない邪悪な力を感じて、胸中が不安に支配される。
悪魔の次なる行動に注視する。
その手に、闇が少しずつわだかまっていく。
わたしはその動作を目にして、唱えるべき魔法を決めた。
「柔らかな光よ 護りの力を授けたまえ 【シールドスフィル】」
光の障壁魔法だ。薄い守りの壁が前面に展開される。
悪魔が放つ攻撃に対処できるかわからないが、無防備でいるよりはいいだろう。
闇は凝固するように濃く集まり、わたしの元へ力強く放たれた。
光の障壁が眩しく輝き、闇の塊を必死に受け止める。
障壁魔法が悪魔の攻撃を通さないことに安心を覚えた。
続けざまにもう一発、悪魔は攻撃を繰り出そうとする。
わたしはまだ次の魔法の準備が整っていない。
だが障壁を眺めるに、余力がありそうな感じだ。
悪魔が攻撃を放つ。
闇の光線が瞬時に視界を横切った。
悪魔の攻撃は、わたしがいる方ではなく、見当違いの方向へ放たれたのだ。
一体何故、と思うのもつかの間、悪魔の狙いに気付いた。
そっちは、フウラがいる方向だ。
あの攻撃は、フウラに向かって放たれたのだ。
柱がどこまで頑丈かはわからない。
わたしも、シュダも、フウラから遠い位置にいる。
すぐさま助けに行けない。
攻撃は、防げない。
「フウラぁぁぁあー!!」
わたしは喉を震わせ叫び声を上げた。