〈シュダ視点〉
ヒオラは約束してくれた。俺の傷を治すと。
その約束は今のところ果たされていない。
なぜなら、俺が……。
――――――――――
ヒオラと別れ、小屋を去り帰路につく。
家の前まで来た。玄関の扉を音を立てないように慎重に慎重に開けていく。
しかし、その行為は無意味だった。
扉を開けた先には父親が立っていた。
無表情で、なにを考えているのか全く読めない。
なにも言葉が出なかった。いつもだったら謝罪を重ねる。
そうしたところで無意味なことはわかっているが、それでも意味があるのだと信じて行う。
でも、今回は父親のどこまでも見通しているかのような目にじっと見つめられて、俺の脳は正常な判断が出来なくなっていた。
ただ呆然と立ち続ける俺に父親は言った。
「明日、出かけるから付いてこい」
言い終わると部屋へ戻っていった。
部屋の扉が閉まっても俺は玄関から動けなかった。
しばらくしてやっと意識が回りだした。
全身が汗だくで、立っていられないほどの疲労を感じ、玄関の扉にもたれかかる。
呼気は荒く、上手く空気を吸えてるのかもわからない。
そうしてやっと気付いた。
大きな疑問に。
なんで怒られなかったんだ。
怒鳴らない父親がまるで別人に見えた。
怒鳴る父親と怒鳴らない父親、普通に考えれば前者の方が怖いはずだが、どちらも同じくらい、いやもしかすると後者の方が俺には怖かったかもしれない。
脱力しきった身体でなんとか自室に辿り着いた。それ以降は普段通りの生活を送った。
暴力がなくなればとずっと思っていたはずなのに、なにもないことがこんなに恐ろしいのだと俺は初めて知った。
翌日、俺は父親の跡に続いて裏通りを訪れた。
そこは高い建物の影になっていて、日中なのにやたら暗い。
父親の背中からそろりと顔を出して前を見ると三人の男がいた。
彼らは柄が悪そうな見た目で、父親を挟んで対峙しているのに怖くて怖くて仕方なかった。
目があえば殺されると思い、適当なところに視線を遣った。
「連れてきたぞ」
父親は低い声でそう言った。
その声は両隣の建物の壁によって反響していった。
俺の背中を大きな手のひらで押される。
そのせいで出たくなかったのに前に出てしまう。
ほんの少し目線を彼らの辺りまで持っていくと黒く染まった目つきをしていた。
怖くなってすぐ俯く。
背後で父親の気配が遠ざかるのを察知した。
急いで振り向く。
もう五歩以上も間が空いていた。
なんでそんなところにいるのかわからずに手を伸ばそうとする。
しかし、伸ばす前に別方向から乱暴に腕を引っ張られる。
父親が遠くへ行く。
数歩あれば届く距離にいるはずなのに、全然届かない。
俺は父親のことが決して好きではない。
けれど、今この場で頼れるのは家族である父親しかいない。
よくわからない男たちになにをされるのかわからなくて、必死に抵抗した。
「このガキッ! 大人しくしろよ!?」
頭を思いっきり殴られる。
腫れてたんこぶが出来たかもしれない。それくらい痛かった。
視界がぼやける。涙が出てきていた。
それでも振り払って父親を追おうとしたが、非力な子どもの俺じゃ大の大人三人がかりに叶うはずもなかった。
俺は近くで待機していた馬車に乗せられる。
中には人がいた。みんな子どもだった。
ボロボロの服を纏っていた。外側は覆われているせいで、なにも見えない。
馬車はどことも知らぬ場所へと向けて出発する。
乗っている間、会話はなかった。
みんな顔がやつれていた。
俺だけが場違いなのだと気付かされた。
そのまま何日も乗っていた気がする。
もしかしたら数時間だったのかもしれないが。
馬車の後ろ部分が開かれる。
久々に見る日差しが眩しくて目を上手く開けられない。
なんとか頑張って周囲の様相を把握しようとする。
そこは寂れた街だった。
建物は軒並み低く、人も元気がないように見える。
俺はそんな街で暮らすこととなった。
後から気付いたことだが、俺は父親に売られて奴隷となったのだった。
日が昇るか昇らないかくらいの時間帯から、日が暮れて辺りが真っ暗になるまで労働させられた。
労働の内容は畑仕事や家畜の世話、人間の糞尿の処理など、人がやりたがらないものが多かった。
対価は二口ほどの固いパンと水。
これは本当にパンなのかと疑いたくなるほどパンらしくない食感と味。
水は濁っていたが、これを飲まなければ生きていけないと思い、一息に喉へ流し込んだ。
畑仕事は鍬を必死に振り下ろし続ける重労働で、全身が痛くなった。
太陽の光が燦々と降り注ぐ中でも水を飲むことは許されず、意識が朦朧とすることもあった。
決死の思いで従事したが、大した食物は出来なかった。そして怒鳴られた。
家畜は暴れ出すと大変だった。
宥めるのに時間がかかり、作業が終わらなくて睡眠時間が削られたこともあった。
糞尿を片すのは本当に辛かった。
臭いのせいで吐くこともあった。
労働をサボれば飯を抜かれたり、殴られる。だから皆真面目に勤しんだ。
こんなに辛い環境なのに生き続けたのは、死ぬという考えがなかったからだ。
死がなにより怖かった。
死だけは回避したかった。
人間の本能に従って、無為な日々を生き続けた。
そんな日々を過ごしていると精神に異常が生じてきた。
初めはいつかは父親が迎えに来てくれるのだと信じて作業を行っていたが、来ることはないのだと悟って、絶望して、ヒオラにもう会うことは出来ないのだと気付いた。
約束は果たされることなどないのだと心の内で泣き叫んだ。
ヒオラの純粋無垢な笑顔を思い出す度に胸が苦しくなった。
約束を守れない罪悪感で頭が埋め尽くされていく。
どうしようもない感情を吐露する先もなく、かといって溜め込み続けるのも俺には無理だった。
出会わなければよかった。
そうしたら、こんな気持ちになることはなかった。
その思考を読んだかのように、頭が無理矢理記憶を変えだした。
なかったことにした。
俺は過去を忘れた。名前も忘れた。
ただ無感情に労働をするだけの人となった。
心を無にして労働をするのは楽だった。
なにせ、なにも考えなくて良いのだ。
辛いも悲しいもないから、心が沈まないのだ。喜怒哀楽をすべて捨てて、ただすべてが時とともに過ぎていくままに身を任せた。
最近奴隷解放の話をよく聞くようになった。
奴隷でもない人間たちが可哀想だのなんだの言って、解放を求めるよう国に訴えているようだ。
誰かの為に動けるのは自分で精一杯じゃない人だけだ。
俺は自分で精一杯だから、彼らがなんで俺みたいなやつらの為に行動するのかわからなかった。
加えて、この労働から解放されたいかと問われれば頷くのは容易ではなかった。
無のまま生きられるのは楽だった。
もう俺はなにも考えたくない。過去に辛いことがあった気がするからと、そう生きていた。
ある日、奴隷解放運動を国が聞き入れ、俺は解放されることとなった。
自由の身だ。
でも、自由になることを俺は望んではいなかったのかもしれない。
なにをすればいいのかわからないのだ。
どうやって生きたらいいのかもわからない。
金の稼ぎ方も人との付き合い方も、食べても大丈夫なものや駄目なものなど、なにもかもわからなかった。
解放された後に補助などは一切なかった。
君たちは今日から自由だ、それで終わり。
奴隷である人たちに意見を聞かず、勝手に同情し解放を要求する。
そして解放すればすべて解決だと思っている。
人間はそんなやつらなのだと俺は学んだ。
なんとか日々を食いつなぐ。住む場所はなく、仕事も毎日違うことをした。
どこにいってもつまらないやつだと爪弾き者にされた。
だから転々としながら適当に生きてきた。
――――――――――
過去の記憶が頭の中を濁流のように過っていく。
ヒオラと別れてから、泊まっている宿屋に直行し、ずっとベッドで寝そべっていた。
ヒオラは聖女になったんだな……と、ふと感慨深くなる。
約束を守ってくれたのかと一瞬期待したが、聖女になった理由を語っていたことを思い出す。
焦燥感と言っていた。
俺のことは忘れてしまったが、聖女にならなくてはという強い気持ちだけは覚えていたのだろう。
ヒオラは必死に聖女への道を歩んでいたのに、俺はなにをしていた。
会えないことが辛くて、罪悪感で苦しくて、なかったことにしたくて忘れた? それでいいのか?
辛くて昔のこと全部忘れてたんだけど、聖女になれたんだねおめでとう、なんて言える度胸はない。
俺がきっかけで聖女を志して、それを頑張って叶えたヒオラにどう顔向けしていいかわからなかった。
だからもう会いたくなかった。
申し訳なさでどうにかなりそうだった。
日々はなにもしなくても、あっという間に過ぎていく。
罪悪感を抱えたまま頭を悩ませて、意味のない思考を繰り返して、たまに食事を挟んで。
そんな毎日はつまらなくて、ぼやけたみたいに記憶に残らない。
ヒオラと会っていた日々は色とりどりで輝いていて、頭に強く刻まれていたし楽しかった。
ヒオラは俺が来なくて探し回っているかもしれない。
けど、たかが数日一緒に出かけただけの仲だ。きっとどこかで呆れられ、忘れてくれるはずだ。
そう願いつつも、そんなことにはなって欲しくないと心のどこかで思った。