転移
二〇三六年十二月二十六日(金)
十八歳の誕生日を二日後に控えたこの日、萌果のもとに嬉しい知らせが届いた。
それはAO入試で受験していた慶葉大学看護医療学部の合格通知だった。
夢であった看護師に大きく近づき、萌果は父親の次郎と喜びを分かち合った。
合格したことを友だちにも伝えてこいと、次郎は笑顔で萌果を学校に送り出してくれた。
通学バスの中で萌果は笑いが止まらなかった。
だが、友だちはこれから一般入試で大学受験を控えていた。進路未定の友だちの前で喜びすぎると嫌われてしまう恐れがあると萌果は思った。
そもそも自分が合格するのは当然だったのだから喜ぶ必要はないのだ。だから平常心でいなきゃと萌果は自分に言い聞かせた。
なぜ合格が当たり前だったのか?
それは萌果以上に慶葉大学中央病院と所縁がある受験生など存在しないからだった。
萌果が産まれたのは慶葉大学中央病院の産婦人科だったし、早産によって未熟児で産まれた萌果は幼いころから定期的にここの小児科に通っていた。
慶葉大学中央病院は萌果にとって、いわゆるかかりつけ医だったのだ。
そして、母親の郁実が死んだのも慶葉大学中央病院だった。
萌果を産んだあとに子宮頸ガンが手の施しようもないぐらい広がって死んだことを、萌果は物心ついたときに次郎から聞かされた。
母親がいないことを自覚すると、医師や看護師がやけに自分に親切だったことに萌果は合点がいった。
みんな母親の死を知っていて、片親の萌果に同情していたのだろう。
小児科の中でも、白髪交じりの年配の男性医師が特に萌果に親切だった。
アパレル会社を営む妻がデザインして作ったという子供服を、いつも萌果にプレゼントしてくれたのだ。
その子供服は大人の女性が着る服と比べても遜色ないセンスの良さが光っていた。
それを着て小学校に通った萌果はすぐに同級生の憧れの的になった。
どこの服かと級友に質問されたら、「ハーレクイン」というブランドだと教えてあげた。
「ハーレクイン」はフランス語でピエロという意味らしいが、ピエロを怖がる子もいるので意味は誰にも話さなかった。
同じ服を着ている子は日に日に増えていったが、学校で一番の人気者はずっと変わらず萌果だった。
小学校三年生になった萌果は、国語の時間に「病院」という漢字を初めて習った。
そして、次に病院に検診に行ったとき、その男性医師のネームプレートを読めるようになった萌果は心底驚いた。
「慶葉大学中央病院 病院長」と書いてあったからだ。
校長は小学校で一番偉い先生だ。ということは、この人はこの大学病院で一番偉いお医者さんなのか。
それにしても病院に来る患者なんて大勢いるのに、なぜ病院長がわざわざ自分の相手をしてくれるのか?
萌果は次郎に聞いたことがあった。
すると次郎は「あの人は元々郁実の担当医だったんだよ」と教えてくれた。
病院長は母親と親しかったから娘の自分に親切にしてくれるのかと萌果は納得した。
その一方で、次郎は萌果に気付かれないように泣いていた。
母親が死んだときのことを思い出させてしまって申し訳ないと萌果は思ったが、同時に父親が今でも母親を愛していることが分かってほっとした。
そして、できれば父親を母親に会わせてあげることはできないかなと萌果は考えた。
だが、すぐに死んだ人間は生き返らないことを知った。
しばらくして、小学校で担任教師から将来の夢を尋ねられたとき、萌果は迷わず「看護師になりたい」と答えていた。
死んだ人間が生き返らないのならば、父親のように大切な人を失って悲しむ人を少しでも減らしたいと萌果は考えたのだった。
それから中学校、高校と、萌果は看護師になる夢を叶えるために勉強に励んだ。
今でも交流がある慶葉大学中央病院の病院長に相談したら、「うちの慶葉大学看護医療学部のAO入試を受けたほうがいい」とアドバイスしてくれた。
なんでも成績優秀者は奨学金を受けられて、卒業後に慶葉大学関連の病院に就職すれば奨学金の返済が免除される制度があるらしいのだ。
学費が実質ただになるなら、父親の次郎に楽をさせてあげられる。
それに病院長が薦めてくれたということは、ひょっとしたら入試で下駄を履かせてくれるかもしれなかった。
よこしまな期待をしつつ、萌果はAO入試を受けることにした。
そして案の定、萌果は慶葉大学看護医療学部に合格したのだった。
萌果を乗せた路線バスがロータリー駅前のバス停に停車すると、いつもより大勢の人が乗り込んできた。
聞こえてきた会話によると、なんでもどこかの私鉄で人身事故があったらしい。混雑はきっとその影響だと萌果は思った。
萌果は以前にこのバス停から乗ってきた男に体を触られそうになったことがあった。
そのときは近くいた会社員の女性が立ち位置を変わって守ってくれたのだが、それから萌果は護身用のカッターをカバンに忍ばせるようになっていた。
萌果は周囲を見渡した。
不自然に接近してくる男性はいないようだった。
カバンの中のカッターから手を離すと、今度は萌果のスマートホンが鳴った。
知らない番号だったことと満員のバスで電話をするのは他の人に迷惑なので萌果は出ないことにした。
高校前のバス停で萌果が降りると、徒歩で通学してきた親友と遭遇した。
生徒玄関まで歩く途中、萌果は大学に合格したことをできるだけ平常心で親友に話してみた。
親友は萌果の合格を喜んでくれた。と同時に羨ましがった。
「私なんて模試の成績が悪かったから、成人式ボイコットで追い込みしないといけなくなっちゃったよ」
民法改正で二〇二二年から成人年齢が二十歳から十八歳に引き下げられていた。
自治体の方針にもよるが成人式が高校三年生の受験シーズン真っ只中に行われるようになったことで、一般受験をする生徒が受験優先で成人式に出なくなるという問題が各地で起きていた。
萌果の同級生も、恐らく半分近くは成人式を欠席するだろう。
親友や同級生に会えないのは寂しいが、萌果は一人でも成人式に出席するつもりだった。
萌果にはもう一つの夢があったからだ。
それは、母親の郁実から受け継いだ振り袖を着て成人式に出席し、次郎と一緒に写真を撮ることだった。
郁実と多少は容姿が似ているはずの自分の晴れ姿を見て、次郎が郁実に会えたと勘違いすればいいなと萌果は考えていた。
萌果は自分の夢だけではなく、次郎の夢も叶えてあげたかったのだ。
そんな夢想をしながら教室に入ると、担任教師がなぜか仁王立ちしていた。
朝のショートホームルームの時間より十分以上は早いので、萌果は不思議に思った。
「岸谷! すぐに警察に行くぞ!」
そう言うと担任教師は萌果の腕を引っ張って学校から連れ出した。
萌果が担任教師に連れられてきた警察署の遺体安置室には、次郎の遺体があった。
警察の人間の説明によれば、次郎は通勤時間帯に駅を通り過ぎる急行電車に身を投げて自殺したということだった。
萌果は意味が分からずにパニックに陥った。
娘が夢だった慶葉大学看護医療学部に合格したその数十分後に、父親が自殺なんてするはずがないからだ。
「誰かが父を突き飛ばしたりしたんじゃないですか!? きっと自殺じゃなくて殺人です!」
「いえ、自殺で間違いありません」
警察の人間は、次郎のカバンに入っていたという遺書を萌果に手渡した。
萌果は血がついた封筒から中身の便せんを取り出して広げた。
萌果へ
大学合格おめでとう。
これで夢だった看護師にもなれそうだね。父さんは君が誇らしいよ。
なのに迷惑をかけてごめんな。
じつは父さん、ずっと君に黙っていたことがあったんだ。
それは君の母親、郁実の死についてだ。
君を妊娠したことで郁実が子宮頸ガンを患っていることが分かった。
子宮を取ってしまえば郁実は確実に助かったけれど、彼女は君も助かる方法を模索したんだ。
もしも、どちらか一人しか助からないなら萌果を助けたい。郁実はそんな一心で色々な治療法を探したんだ。もちろん父さんも協力した。
そして、慶葉大学中央病院の医師、鎮目恭夫に出会ったんだ。
鎮目は自分が研究している治療法を受ければ郁実も萌果も助かると言った。
だが、治療はあっさり失敗に終わった。
鎮目は郁実を実験台にしただけだったんだ。
萌果を守るために郁実は自分の命を犠牲にしたというのに、鎮目は失敗を認めようとせず、納得いく説明もしてくれなかった。
もしも別の方法を選んでいれば、郁実は生きていたんじゃないか?
そんな後悔から、父さんは真相を明らかにするために医療過誤訴訟を起こそうとした。
だが、鎮目は父さんの実家が葬儀屋だと知っていたのだろう。
東京中の病院から葬儀の仕事が来ないようにするぞと脅してきたんだ。
お爺ちゃんやお婆ちゃんや兄貴の家族に迷惑はかけられない。
父さんは訴訟を諦めるしかなかった。
だが、人一人を殺しておいておめおめと逃げ切った鎮目がどうしても許せなかった。
父さんは鎮目を刺し殺してでも真相を聞き出そうと考えた。
ところが、父さんは鎮目を庇った別の人を誤って刺してしまったんだ。
大変なことをしてしまったと思ったが、鎮目は事故として内々に処理すると言ってきた。
表沙汰になると鎮目にも困ることがあったんだろう。
しばらくして、手術して一命は取り留めたはずのその人が結局亡くなってしまったと鎮目から聞かされた。
すると今度は、鎮目が「人殺しで逮捕されたくなかったら俺の言うことを聞け」と恐喝してくるようになったんだ。
郁実もいなくなって父さんまで刑務所に入ったら萌果を一人にしてしまう。
父さんは鎮目に従うしかなかった。
鎮目は萌果の体を定期的に検査させろと言っていた。
父さんは命じられたまま萌果を差し出してしまった。
気付かないふりをしていたが、もしかすると鎮目は萌果にも良からぬことを……。
萌果には本当に本当に申し訳ないことをしたと思っている。
知っていると思うけれど、殺人罪に時効はない。
だから、父さんは生きている限りは鎮目の命令に従わなきゃいけないんだ。
それにもう疲れてしまったよ。
これ以上萌果に迷惑もかけたくない。
萌果も進路が決まって間もなく成人する。
だから、このタイミングで責任をとろうと思ったんだ。
自殺でも父さんが死ねば萌果に保険金が入るようになっているし、住宅ローンは返済不要になるからあの家も残る。
父さんがいなくなっても生活はなんの心配もいらないから安心してほしい。
郁実にまた会えたら嬉しいけれど、残念ながら父さんは天国には行けないだろうな。
じゃあ、今までありがとう。萌果は必ず幸せになってくれよ。
父さんより
遺書の筆跡は間違いなく次郎のものだった。
父親から初めて手紙をもらったのに、それが遺書だなんて。
萌果は唇を噛んで泣いていた。
自分が鎮目から変なことをされた記憶は無かったが、それが事実だとしても萌果にはどうでもよかった。
鎮目がくれた服のブランド名がピエロという意味だったのも自分をバカにしていたからだろうが、それも萌果にはどうでもよかった。
そんなことよりも母親と父親の仇が病院長になっていて、それを知らずに自分は仲良くヘラヘラ接して進路相談までしていたことが萌果には許せなかった。
萌果は伸ばした爪が食い込むほど拳を強く握っていた。
警察の人間がよかったら遺書の内容を確認させてほしいと言ってきたが、萌果は拒否することにした。
両親と鎮目の間に何かしらの因縁があるなら、それを解決するのは警察ではなく娘の自分の仕事だと思ったからだ。
だから、萌果は遺書を自分のカバンにしまうと、担任教師や警察の人間の制止を振り切って警察署から飛び出していった。
慶葉大学中央病院の新病棟ロビーにたどり着いた萌果はエレベーターのボタンを押した。
ドアが開いて中に乗り込むと最上階のボタン、閉じるのボタンを連続して押した。
上昇するエレベーターの中で、萌果はカッターを取り出すとカバンは投げ捨てた。
それが父親の夢ならば、切なる願いならば、叶えてあげられるのは自分しかいない。
萌果は強くそう感じていた。
最上階に着いてドアが開くと、萌果はカッターを構えて駆け出した。