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ステージⅣ

ステージⅣ


 一月二十九日


 旧病棟のロビーに置かれた掲示板に事務員が新たな貼り紙をしていた。

 事務員が作業を終えていなくなってから、鎮目は掲示板に歩み寄ってその内容を眺めた。


 公 示


 学校法人慶葉大学医学部附属中央病院長候補者選考規則に基づき、次期医学部附属中央病院長を決定したので、同規則第十条第四項の規定により、下記のとおり公示する。


 記


一 氏名 鎮目恭夫

     (慶葉大学医学部大学院血液腫瘍内科研究室 准教授)


二 任期 二〇一九年四月一日から二〇二二年三月三十一日まで


三 選考理由

 慶葉大学医学部附属中央病院長候補者選考基準に照らし、以下の理由により病院長としてふさわしいと判断した。


(一)血液腫瘍内科の臨床と研究の両方を務めた経験から、来るべきガン根治の時代について充分な知見を有すること。


(二)多職種の病院職員の意見を傾聴できる緊密なコミュニケーションを保ち、健全な財政基盤に基づいた戦略的な管理運営を行うことにより、病院の高度医療体制の維持・発展を目指そうとする強い意欲と若いリーダーシップの発揮が見込まれること。


(三)病院に求められるミッションを充分に理解し、診療、研究、教育のすべてにおいて院内及び学内の連携を緊密にすること。

 また、以前に系列の慶葉大学医学部附属仙台病院に在職していたときに構築した地域医療ネットワークを有機的に連携させることにより、さらなる地域貢献の発展を目指そうとする姿勢が見られること。


 平成三十一年一月二十九日

 学校法人慶葉大学長

 西城洋司


 公示の貼り紙は旧病棟だけではない。新病棟や系列の仙台病院、大学関連施設のありとあらゆる場所に貼りだされていた。

 これであとから嘉山が約束を反故にすることは不可能になった。

 選考委員会と学長の承認が公になったことで、鎮目が次の病院長に就任することが決まった瞬間だった。

 研究室に戻った鎮目は百合子のためにUCANの培養や免疫寛容の作業を始めた。

 遠心分離機をぼうっと見つめていた鎮目は唐突に笑いだした。

 鎮目の笑い声が旧病棟の地下に木霊していた。


 二月五日


 鎮目はUCANを点滴静脈注射で百合子に投与した。

 嘉山と妃織もA病室に立ち会い、心配そうに百合子を見つめていた。

 余計な情報を与えたくないという嘉山の希望で百合子は睡眠導入剤を経口投与されていた。

 百合子は自分がなにをされているのかも知らずに眠り続けていた。

 しばらくして中身がすべて尽きたので、妃織が点滴バッグを外した。

「うまくいったのか?」

「それが分かるのは一週間後です。MRI検査をしてそこで画像診断します」

「そうか。そうだな……」

 百合子を心配するあまり、無駄な質問をしたことに気付いた嘉山は意気消沈した。

 病院長の肩書きははまだ嘉山のものだったのだが、その威厳はすでに消え失せていた。


 二月十二日


 これまでは病院長室の飾りとして置いてあるだけだったノートパソコンの画面を嘉山はまじまじと見つめていた。

 そこにはMRI検査で得られた百合子の脳画像が映っていた。

 UCANを投与する前と後では、明らかに腫瘍が縮小していた。

 まだわずかに腫瘍は残っているが、これなら再び脳ヘルニアになってしまう可能性はほとんど無くなった。

 取り外した頭蓋骨を再手術でもとに戻せば、百合子は日常生活に戻れるはずだ。

「残った腫瘍も、UCANをあと何度か投与すればほとんど無くなるはずです。百合子さんの脳腫瘍は寛解したと言っていい状態に落ち着くでしょう」

 嘉山は鎮目の補足説明を聞いて胸を撫で下ろしていた。

 リクライニングチェアに深くもたれ掛かって、緊張していた全身の筋肉を弛緩させた。

 だが、そこでふと疑問が湧いたので嘉山は再び前のめりになった。

「天羽大輝はホスピスに移ったんじゃないの?」

「はい。一月いっぱいで希望した病院に移ってもらいました。全身ガンが治る見込みもなくなってあとは死を待つのみですからね。次の患者さんのために特別病室を空けないと」

「だったら、どうやって百合子にあと何度かUCANを投与するんだ?」

「それは、わずかに残しておいたUCANをもう一度培養して増やすんです。それを繰り返して百合子さんと、福原陽菜さんにも投与したいと思っています」

「それができるなら、天羽が死んでもガンの特効薬が完成するんじゃないのか?」

 嘉山の研究心に再び火がつきそうになった。

「それは不可能なんです。ガンの特効薬はもう実現できません」

「なぜだ?」

「培養した細胞は一般的に二回の倍加後に劣化します。コピーのコピーではガンを死滅させる能力が弱くなる一方なんですよ。やはりマスターが存在しないと」

「……なるほどな」

 火はすぐに鎮火したようだ。

「研究者としての名声を失い、病院長の座を失った。だが、大切な人間を守ることはできたか」

 嘉山がイスから立ち上がった。

「君のおかげだ。感謝するよ」

「いえ」

 本当は天羽のおかげだが、鎮目はその名前を口に出すのをあえて止めておいた。

 嘉山に天羽のことをすっきり忘れ去ってもらいたかったからだ。

 嘉山は白衣を脱いでポールハンガーに掛けてあったジャケットと上着を羽織った。

「どちらへ?」

「もうここにいてもすることはないよ。少し早いがあとは好きに使ってくれ」

 そう言うと嘉山は必要な私物をカバンに詰めて病院長室をあとにした。

 嘉山の背中を見送った鎮目は、とりあえず部屋をゆっくり半周してみた。

 置いてある応接ソファや調度品はどれもイタリアの高級ブランド品だ。

 そして、先ほどまで嘉山が座っていたリクライニングチェアに鎮目は腰を掛けた。

 これもきっと最高級のチェアなのだろう。これまでに座ったどんなチェアよりも座り心地がよかった。

 だが、レザーが嘉山の背中の形に窪んでいるのが気に入らない。年度が替わったらすぐに新しいリクライニングチェアに交換させようと鎮目は思った。

 ぐるりとチェアを回転させて、一面ガラス張りの窓から見える景色を眺めた。

 いつかと同じように、道路を挟んで向かいの敷地に立つ旧病棟の外壁汚れが隅々まで見えた。

 チェアから立ち上がって視線が高くなっても、見える景色は特に変わらない。遠くの富士山が見えるとか新宿の高層ビル群が見えるわけではなかった。

 なんの価値もない、汚い景色だった。

 しかし、鎮目はここから見える景色が気に入った。


 四月五日


 鎮目が慶葉大学中央病院の新しい病院長に就任して最初の金曜日が来た。

 新品のリクライニングチェアの感触とレザーの匂いをずっと楽しんでいたかったが、ゆっくり座っている時間など無いままに慌ただしく月火水木と四日が過ぎていた。

 慌ただしかったわりに様々な企業や団体のトップと雑談を繰り返しただけで、鎮目は病院長らしい実務をまだしていなかった。

 唯一やった病院長らしい仕事と言えば、旧病棟を取り壊してまた新しい病棟を建設する計画を白紙に戻したことだろう。

 歴史ある慶葉大学が最初に開院した第一号病棟こそ今ある新病棟に建て変わってしまったが、旧病棟と呼ばれている第二号病棟まで取り壊してしまうと当時の面影を残すものが一つも無くなってしまう。

 そこで鎮目は旧病棟を取り壊すのではなく耐震工事と改修をして存続させることにした。

 最新の医療を提供する要件は満たせないが、研究や教育に関する部門を旧病棟に戻せば新病棟に空きができる。

 そのスペースに最新の検査機器などを導入すればいいと考えたのだ。

 そうすることで大学予算の効率化もはかれるし、昔を懐かしむ病院OBからの信頼を勝ち取ることもできた。

 おかげで鎮目は新しい病院長としてまずまずのスタートを切ることができたのだった。

 だが、鎮目が計画を白紙に戻した真意は別のところにあった。

 旧病棟が取り壊されてしまうと地下にある鎮目の研究室だった部屋まで無くなってしまうので、どうしてもそれを防ぎたかったのだ。

 UCANを持った天羽もいなくなった。

 百合子も治療が終わって退院した。

 冴子や陽菜も同様だった。

 嘉山の代わりに病院長になった鎮目が、今さら研究室に行く必要はないはずだった。

 にも拘わらず、鎮目が研究室を残したかったのは、そこにまだ大事なものを保管しているからだった。


 鎮目が人目を盗んで研究室だった部屋までやってきた。

 ふとしたきっかけで旧病棟が停電になったりすると大事なものが台無しになってしまう危険性があった。

 冷凍庫が無事に稼動していることをこの目で確かめないと不安で眠れなくなるので、鎮目は週に一度はこの部屋に来るようにしていた。

 鎮目はまだそこにあった冷凍庫を開けた。

 液体窒素のタンクの中から引き上げたのは霜のついたアルミケースだった。

 ケースの表面の霜を拭き取るとバーコード付きのラベルが見えた。

 バーコードの下に内容物の説明書きがされていた。

「さい帯血 提供者:岸谷郁実 提供日:二〇一八年十二月二十八日」

 萌果が帝王切開で産まれて、郁実の子宮全摘手術がインオペになってしまった日付だ。

 ケースを開けると、中には密閉バックに満たされたさい帯血がちゃんと入っていた。

 あの日、インオペに終わった郁実の手術に鎮目は意気消沈しながらも、郁実の子宮から剥離されたさい帯と胎盤を見てあることを思い付いていた。

 この半年間ほとんど毎日読んでいたといっても過言ではない論文には『さい帯血から作成したナチュラルキラー細胞でガン死滅を確認』との見出しがついていた。

 しかし、UCANの作成は他の研究機関や研究者では一度も再現できずに終わっていた。

 鎮目も試してみたが、論文にある方法ではやはり再現できなかった。

 論文を発表した森元生物化学研究所はすでに倒産。研究をしていた近藤富雄博士も他界している。今となっては真相を知る術はなにもない。

 だが、天羽があの時期に森元生物化学研究所で治験を受けたと証言しているのだから、培養以外でUCANを増産できる何かしらの方法を近藤博士は見つけていたはずだと鎮目は確信していた。

 近藤博士は仲間うちで内紛や裏切りが起こることを予見していた。

 そこで、近藤博士はUCANの作成方法を秘密にすることで自分の身の安全を守ろうと考えた。

 だから、近藤博士はデタラメな作成方法を記述したウソの論文を発表して本当の方法は誰にも教えないようにしたのだろう。

 だが、そのことに怒った元仲間は近藤博士を殺してしまった。

 そして、近藤博士の死を捏造者扱いされたことへの抗議の自殺に見せかけたのだと鎮目は推測していた。

 郁実の子宮頸ガンを治すことはできなかったが、妊婦にUCANを投与したのだから胎盤からさい帯を通って胎児にもUCANが流れているはずだった。

 あの胎盤とさい帯がどうなっているのか、鎮目は確かめずにはいられなかった。

 誰もが郁実と萌果の容態を気にしている中で、鎮目は放置されていた胎盤とさい帯を黙って持ち去ったのだった。

 胎盤やさい帯からかき集めたさい帯血には、「幹細胞」という体の様々な種類の細胞のもとになる細胞が豊富に含まれていた。

 たとえば、赤血球、白血球、血小板などの血液のもととなる造血幹細胞は高い造血能があるので、白血病や再生不良性貧血などの難治性血液疾患の治療に役立つ。

 また、中枢神経、自己免疫、虚血性障害などの修復に役立つ可能性を持つ細胞など、多種多様な細胞に分化できる能力を持つ幹細胞を含んでいることからさい帯血への医学的関心は近年急増し、臨床研究段階にある再生医療・細胞治療への将来的な応用が期待されていた。

 だからこそ、鎮目は郁実のさい帯血からUCANを作れないか、やってみる価値があると思った。

 そうしてあらゆる方法を試みた結果、幹細胞からUCANを分化誘導することに成功したのだった。

 鎮目はすでに臨床実験も済ませていたので、さい帯血から作ったUCANでも末期ガン患者のガンを治せることは分かっていた。

 鎮目が被験者に選んだ患者は百合子だった。

 これは百合子本人はもちろん、嘉山も妃織も知らない事実だった。

 さい帯血に異常がないことを確認して安堵した鎮目は再びアルミケースをタンクに戻して冷凍庫の扉を閉め切った。

 そして、さい帯血の他にもう一つ、もっとも大事な物の状況を鎮目は確認しに行くことにした。


 鎮目は新病棟の小児科に顔を出した。

「ちょっと視察させてもらうよ」

 新病院長がアポイントメントもなく突然現れたので、気付いた若手医師や看護師たちがざわめいた。

 アテンドを買って出る者もいたが、鎮目は自分に構わず仕事を続けるようにと指示をした。

 そうは言っても鎮目が視界にいるだけで全員どこかぎこちなくなっているが、一人だけ淡々と仕事を続ける看護師がいた。

 それは妃織だった。

 妃織は百合子が脳腫瘍になったから脳神経外科や鎮目の研究アシスタントをしていただけで、元々は小児科が専門だった。

 日本看護協会が認定している小児看護専門看護師の資格も持っているらしい。

 百合子の脳腫瘍も寛解したので、最後の仕事と言うほどではないが嘉山が妃織を小児科に異動させていたのだった。

 妃織がすれ違いざまに鎮目に話しかけてきた。

「他科の視察は終わったんですか?」

「いや、ここが初めてだけど」

「……冗談ですよね?」

「なんでそんな面白くもない冗談を言うんだ。病院長が小児科に来ちゃいけないルールでもあるのか?」

「ルールじゃないですけど、これを知ったら心臓血管外科や脳神経外科が怒り狂いますよ」

 病院内の診療科目や職種にヒエラルキーは存在しないというのが建前だが、実際は厳格なヒエラルキーが存在していた。

 あらゆる診療科目の中でも、特にプライドが高いと言われているのが心臓血管外科や脳神経外科だった。

 新病院長が就任して最初に視察に訪れたのが小児科だと心臓血管外科や脳神経外科の連中が機嫌を損ねてトラブルの原因になるのじゃないかと妃織は指摘しているのだ。

「じゃあ、視察という言葉を使わなきゃいい。以前に担当した患者さんのお見舞いに来ただけだ」

「さすが病院長。口がお上手ですね」

「そんなのいいから、早く彼女の場所に案内してくれ」

 妃織がトゲのある口調で「分かりました。こっちです」と言いながら新生児室の奥に向かって進んでいく。

 妃織のあとを鎮目もついていった。

 案内された場所にいたのは、生後四ヶ月になった萌果だった。

 生後四ヶ月といっても妊娠三十四週で早産しているので、普通に生まれた赤ちゃんと大差ない大きさまでようやく育ったところだった。

 それでも、萌果がこうして元気に成長できたのはやはり郁実のおかげだろう。

 彼女が自分の命よりも赤ちゃんの命を優先したから、こうして萌果も無事に生きていられるのだ。

「どこも悪いところはないよな?」

「ええ。そろそろ退院できると思いますよ。不慣れなお父さんだけでも育児に問題はないはずです」

「そうか。それはよかったな」

「抱っこしてみますか?」

「なんで?」

 妃織のふいな提案に鎮目が失笑した。

「色々ありましたけど、鎮目先生が彼女と会えるのもこれが最後かもしれないじゃないですか」

「……じゃあ、そうしてみるか」

 妃織が保育器から萌果を抱え上げて鎮目に手渡した。

「首が据わってないので片手で押さえてください」

 鎮目は真悠が産まれたときのことを思い出しながら萌果を抱きかかえた。

「手放したくないな……」

 鎮目が思わず本音をつぶやいてしまった。

「やだ、なに言ってるんですか」

 妃織はつぼに入ったのか声をあげて笑った。

 鎮目は冗談を言ったつもりはなかったが、わざわざ訂正する気もなかった。

「この子が退院しても定期的に通院させるように父親には連絡しておく。その都度報告を頼むよ」

「分かっています。未熟児で生まれた赤ちゃんはあとからなんらかの障害が出てくる可能性がありますからね」

「ああ」

 妃織はまた勘違いしていたが、鎮目は適当に頷いた。

 鎮目が気にしているのはそんなことではなかった。

 萌果は天羽と同じようにUCANを体内で産生する能力を有している可能性が高い。

 鎮目はそれだけを気にしているのだった。

 実際に白血球を調べ上げたわけではないが、郁実から流れたはずのさい帯血に含まれる幹細胞からUCANを分化できたのだから萌果の体内にUCANが存在しないはずがなかった。

 だからこそ、鎮目は萌果を手放したくないと言ったのだ。

 とはいえ、鎮目には今はまだ萌果を精密検査できない理由が二つあった。

 まず一つは、萌果がUCANを持っていることに他の人間も気付いてしまう恐れがあること。

 そしてもう一つは、もしも萌果も全身ガンになっていたりしたら体が小さい赤ちゃんのうちにUCANを採取することで、ガンがあっという間に重症化して死んでしまう恐れがあることだ。

 だから、鎮目は一度萌果を手放して辛抱強く待つと決めていた。

 二〇一八年に民法が改正されて成人年齢が現行の二十歳から十八歳に引き下がった。

 萌果が成人するまで十八年待てば、保護者である次郎の意志は関係なくなる。

 鎮目は思う存分萌果で実験できるようになるだろう。

 それまで待てば他の人間に気付かれる可能性もぐっと下がるし、成人していれば多少無理をしても萌果が死ぬことはなくなるはずだ。

 もちろん、それまでの間にまったく別の研究者が先にガンの特効薬を開発してしまう未来も考えられた。

 だが、あらゆるガンに効く万能性や副作用がないという大きなメリットまで持ち合わせたガンの特効薬がUCANの他に見つかるはずはないだろう。鎮目はこれまでの研究人生の経験からそんな風に楽観していた。

 他にガンの特効薬を唱う者が現れても、UCANの優位性は揺るがない。そして、そのUCANを発見した自分も医学界、いや世界で絶対的な存在なれるはずだと鎮目は考えていた。

 急いてはことをし損じるということわざ通り、嘉山は鎮目に病院長の座から引き摺り降ろされた。だから、鎮目は果報を寝て待つことにしたのだった。

 それまでは慶葉大学中央病院の病院長の座に意地でもしがみつきながら。

 鎮目は萌果を丁寧に保育器に戻すと、しばらくの別れを告げた。

「じゃあ、またね」

 鎮目は妃織にも「ありがとう」とお礼を言って小児科から出て行こうとした。

「そうだ。病院長」

 鎮目が踵を返して振り返った。

「よかったら今晩ごはんでも行きませんか? 半年間一緒に働いたのに一度も食事したことなかったし、病院長就任のお祝いもかねて」

 鎮目はどう答えるべきか迷った。

「あ、ちなみに割り勘ですよ」

「……悪い。今晩は妻と娘と食事に行く約束をしてるんだ」

 妃織のことを好きじゃないと誤解をされても困るので、鎮目は正直に理由を話した。

「それは失礼しました。どうぞごゆっくり」

 食事を断られたのに、鎮目と美沙の復縁を知って妃織は祝福するような笑みを浮かべた。

「また今度、必ず行こう」

「そのときはおごってくださいね」

「もちろんだ」

 小児科を出た鎮目は、病院長らしく廊下の真ん中を堂々と歩いた。

 すれ違うスタッフはみな立ち止まって、鎮目に深々と頭を下げた。

 必要以上に偉ぶると必ず反感を持つ人間が現れるのは世の常だ。

 足をすくおうとされると面倒なので、鎮目は病院長として謙虚に振る舞うつもりでいた。

 だが、廊下を歩いているだけでこれだけ周囲から敬われてしまうと、どうしても気が大きくなってしまうのは否めなかった。

 鎮目は自然と気持ちが弾んできた。人目がない場所まで歩いてくると、思わず鼻歌を口ずさみ、踊るようにステップを踏んだ。

 これなら十八年なんてあっという間に過ぎてしまうのだろう。

 ああ、人類の悲願であるガンの特効薬を開発できる日が今から待ち遠しい。

 この世からガンで死ぬ人間がいなくなれば、これほど研究者冥利に尽きることはない。

 鎮目はそんなことを思っていた。

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