ステージⅢ
都営地下鉄の若松河田駅を出た鎮目は、額や首筋にべっとり汗をかいていた。
仙台の気候ならちょうどよい厚手のダウンジャケットも東京では少しスペックオーバーのようだ。交通機関や室内にいると途端に汗が噴き出してきて不快感が増した。
少し薄手の上着でも買い直そうと思っていたのだが、鎮目は余計な出費を抑えることに決めたので我慢してこのダウンジャケットを着ていた。
鎮目はファスナーを降ろして換気することにした。冷たい風が心地よかった。
出勤ラッシュの時間帯にこの駅で降りる人間はほとんど慶葉大学中央病院の関係者か患者だ。
そのほとんどが新病棟へと流れていくが、鎮目は人の流れから離れて旧病棟の中に入っていく。
人気がなく暗いロビーには昨日までは無かった掲示板が設置されていた。
なにが貼られているのか気になった鎮目が足をとめた。
掲示物には「二〇一九年度の病院長選考に係わる実施計画」と記載されていた。
どうやら、病院長選考に関する掲示物を貼るためだけの掲示板のようだ。
厚生労働省は全国の大学病院の院長選出に関して、教授会での選挙を禁止していた。
学内での派閥争いが影響して医療の安全確保に指導力を発揮できる人材が登用されていないと判断したためだ。
そこで、厚生労働省は外部有識者らによる選考委員会を設けるなど選考過程透明化の義務づけを盛り込んだ医療法改正案を二〇一七年度から全国で施行したのだった。
もっと早く施行してくれれば仙台に異動させられずに済んだのにと鎮目は思った。
慶葉大学中央病院では病院長の任期は四年だった。嘉山が二〇一五年度に再選していたので、その任期は二〇一八年度で切れる。
今年が医療法が改正されてから初めて慶葉大学中央病院で病院長選考が行われる年だったのだ。
鎮目は、貼り紙の一つにあった病院長選考会議委員名簿を眺めた。
慶葉大学の理事、慶葉大学院医学系研究科長、慶葉大学中央病院の看護部長、近隣私立大学の副理事長、医療系NPO法人の理事長、社会福祉事業団理事長など錚々たる経歴のメンバーが名前を連ねてはいるが、いずれも嘉山の子飼いであることを鎮目は知っていた。
厚生労働省が医療法を改正しようが、骨抜きにする方法はいくらでも考えられる。
選考会を嘉山の言いなりになるメンバーで揃えてしまえば、新しい病院長として選ばれるのは再び嘉山に決まっていた。
選挙だったときは票を持っている教授陣の過半数を懐柔しなければならない。
ばらまく金はたくさん必要だし、その金を捻出するために製薬会社も取り込まないといけないしで、根回しには相当の労力が必要とされた。
それが操り人形をたった六名指名するだけでいいなら、嘉山の病院長時代は結局まだまだ続いてしまうのだろう。
そんなことを思ったら鎮目は頭が痛くなってきた。
鎮目が頭痛薬を飲んでいるとスマートホンが鳴った。
液晶画面には「関根美沙」と表示されていた。
電話をかけてくるということは振り込んだお金に気付いたようだ。
「もしもし?」
「迷惑掛けてごめんなさい」
「迷惑だなんて思ってない。こっちこそ出過ぎた真似だったら申し訳なかった」
「ううん。すごく助かった。残りは自分でなんとかできると思うし、経営が軌道に戻ったら必ず返すから」
残りということは、振り込んだ金額ではまだ足りていなかったらしい。
あといくらあれば足りるのだろうか?
「返さなくていい」
「でも」
「いまさらだけど君の役に立ちたいんだ」
「えっ?」
「産後うつで苦しんでいた君にずっと気付かないふりをしていた。慰謝料や養育費も払ってないことをずっと後悔してたんだ。だから、せめてもの罪滅ぼしだと思ってくれればいいよ」
「でも、あなたに甘えるわけにはいかないし」
「なんで?」
「だって、今は他人じゃない」
「だったら家族に戻ればいいだろう」
美沙の声が聞こえなくなった。
鎮目は勢いで口走った言葉が誤解されていないか心配になった。
「あ、今のは復縁しろって脅してるわけじゃないからな。自由に真悠に会わせろって言うつもりもない。とにかく見返りを求めているわけじゃないから安心してほしい」
美沙はまだ黙っていた。
「その……気分を害したなら悪かった。忘れてくれ」
そのとき、妃織が研究室に鎮目を呼びに来た。
「先生、患者さんが来ましたよ」
十時から陽菜の初診の予定が入っていた。
話は途中だが、鎮目は電話を切ろうと思った。
「すまない、診察があるんだ。またなにかあれば遠慮なく連絡くれ。じゃあ」
美沙がなにかを言いかけたようだが、妃織にプライベートなことを知られるのも気恥ずかしいので鎮目は構わずに電話を切った。
そして、何事もなかったように診察室へと向かった。
鎮目は初めて会った陽菜が嘉山にまったく似ていないと感じていた。
陽菜の目は茶色で耳たぶはとても小さい。
対して、嘉山は目が黒く耳たぶが大きい。いわゆる福耳だ。
メンデルの法則というものがある。
高校生の生物の教科書には大々的に出てくる法則だ。
ルールは至って簡単なものだ。人間は両親からそれぞれ染色体を授かっている。
その中で、Aというのが優性遺伝子で強い。aというのが劣性遺伝子で弱いとする。
染色体は両親から一本ずつ授かる。そのとき、染色体の組み合わせパターンは三種類しかない。AAかAaかaaである。
Aは優性遺伝子で強いので、Aが一つでもあれば優性の特徴が子に出現するということになるのだ。
黒い目も大きな耳たぶも優性遺伝子だった。
母親がどんな人間であろうと、嘉山の身体的特徴が陽菜に受け継がれていないのは不自然だ。
「先生」
陽菜に呼ばれて、鎮目は考え事から我に返った。
「失礼しました。陽菜さんの病状を予習していてあまり眠れなかったので」
上の空で人の話を聞いていないような医者を自分が患者であれば信用しないだろう。
少しでも信頼してもらえるように鎮目は咄嗟にウソをついた。
「どこまで話しましたっけ?」
「新しい治療法がすべて自由診療という話までです」
「そうでした。金銭的な負担は大丈夫でしょうか?」
「はい。貯金もありますし、いざとなれば実家の両親に頼ることもできますので」
「両親?」
「それがなにか?」
嘉山と離婚したあとに母親が別の男性と再婚していれば、今でも父親と呼べる人間が陽菜にいてもおかしくはない。
「失礼ですけど、陽菜さんはお父さん似ですか? お母さん似ですか?」
「えっ。それって病気となにか関係あるんですか?」
まったく関係がなかった。
「ガンには遺伝が関係することもあります。家族にガンになった人間がいないか遠回しに聞いたつもりでした」
「ああ。そういうことだったら父親似です。でも、父親も母親も祖父母も、身内にガンで亡くなった人はいません」
「……それはよかったですね」
陽菜が今の父親と血縁関係がないことを知らない可能性はあるが、それにしても嘉山が実の父親とは考えにくい材料が多すぎた。
鎮目は陽菜の患者情報に目をやった。
血液型はAB型だと記載されていた。
陽菜と嘉山に血縁関係があるならば嘉山の血液型はAかBかAB型ということになる。
嘉山の血液型を調べたい鎮目は説明を手短に終わらせた。
最後に鎮目は陽菜に同意書を渡して、サインして持ってくるよう指示をした。
研究室に戻った鎮目は病院内の電子カルテデータベースにアクセスした。
鎮目が嘉山貞正と文字を打ち込むと該当者が一件あった。
嘉山は高齢だけあって、やや高血圧らしい。
あと、ピロリ菌が見つかって除染した経歴があった。それから胃酸過多になって逆流性食道炎も患っているようだが、これは治療が必要なほどではなかった。
嘉山には特に大きな病歴はないようだ。
健康に問題がないならまだ当分の間は病院長として君臨できてしまうと、鎮目は残念に思った。
鎮目は気を取り直して肝心な嘉山の血液型の項目を見ることにした。
すると、嘉山の血液型はO型と記載されていた。
父親がO型ではAB型の陽菜が産まれるはずがない。嘉山と陽菜の血縁関係は否定された。
鎮目が推測した、陽菜が嘉山と前妻の間に産まれた娘という前提が間違っていたようだ。
では、天羽を死の危険にさらしてでも助けたい陽菜とは、嘉山にとって一体どんな人物なのだろうか?
鎮目が考えてもなにも分からないまま時間が過ぎていった。
治療に前向きな陽菜は、さっそく同意書を持って鎮目を訪ねてきた。
免疫寛容のために妃織が陽菜から採血をしていると、陽菜は「いつ治療を開始できますか?」と鎮目に質問してきた。
鎮目は答えに窮してしまった。
免疫寛容とUCANの培養に一週間かかるので、これまでなら一週間後と答えればよかったのだが、今は天羽の体調が悪すぎた。
天羽の全身ガンの容態は少しずつ良くなっているものの、次またUCANを採取されてしまえば簡単に悪化してしまうだろう。
天羽の体調をもとに戻すためには、できるだけ長いスパン、一年単位で安静が必要なのは明白だった。
対して、陽菜の脳腫瘍は外科手術で摘出が困難な位置にあるものの、今すぐ生命の危険があるというものではなかった。放射線治療でしばらく様子を見てもいいガンだったのだ。
「免疫寛容は他人の免疫を敵と認識しなくなるまでの時間に個人差があります。申し訳ありませんが治療を開始できる時期はまだはっきりとお答えできません」
「そうですか」
陽菜が沈んだ声を出した。
「いつから治療を開始できるか、分かり次第ご連絡を差し上げます」
妃織が陽菜からの採血を終えた。
陽菜は左腕の採血箇所を右手で押さえて止血したまま、カバンと上着を抱えて処置室から出て行った。
二人きりになると妃織は鎮目を睨みつけた。
居心地悪い空気を振り払うために鎮目は声を発した。
「仕方ないだろ。天羽の体調は依然として悪いままだし、培養中のUCANは橋本冴子に定期的に投与しなきゃいけない分やラットの実験で消費する分にも足りてないんだから」
「そんなの分かってますよ」
「だったらそんな目で見ないでくれ。ストレスが溜まる」
「彼女だって、いたずらに待たされるのはストレスですよ」
「陽菜さんの脳腫瘍は今すぐ死ぬようなものじゃない。彼女も自分で分かっているはずだ」
「……もういいです。病院長に陽菜さんの治療開始が遅いことを聞かれて困りたくないので、先生の口からあらかじめ説明しておいてくださいね」
妃織は鎮目にまだ文句を言いたそうだったが、不毛な口論だと気付いたのか話を打ち切ろうとした。
陽菜の治療をわざと遅らせたことがなぜ妃織をこんなに苛立たせるのか、鎮目には分からなかった。
「いま行こうと思ってたよ」
本当はできるだけ後回しにしようと思っていたが、妃織と二人っきりでいるのが気まずいので鎮目は嘉山に報告に行くことにした。
新病棟のロビーは昼時で混雑していた。
午前中になんとか診察してもらおうとギリギリに駆け込んでくる患者と、診察を終えて会計や処方箋を待っている患者の出入りが重なるからだ。
そのロビーで、鎮目はエレベーターが一階まで下りてくるのをじっと待っていた。
ふと、鎮目は背後を振り返った。
誰かに見られているような気がしたのだが、鎮目を見ている人は一人もいなかった。
気のせいか。
エレベーターが下りてきたので鎮目は中に乗り込み、最上階のボタンを押した。
最上階についてエレベーターの扉が開くと、嘉山がちょうど病院長室から出てきたところだった。
嘉山は嘉山でどこかへ行くつもりのようだ。
「どこかに行かれるんですか?」
「……急用でね。ちょっと出かけてくる」
冷静を装っているが嘉山の顔は青ざめていた。
それに、出かけると言ったのに上着を着ていない。ワイシャツの上に白衣を羽織っているだけだった。
こんな薄着で外に出たらすぐに風邪を引いてしまうだろう。
「ご報告したいことがあったんですが」
「悪いけどまた今度にしてくれる?」
「分かりました」
嘉山のほうから後回しにしてもらえてラッキーだと鎮目は思った。あとで報告を怠ったと批難されても嘉山に責任転嫁できる口実ができたからだ。
嘉山はエレベーターに乗り込むとどこかに消えてしまった。
鎮目も旧病棟の研究室に戻るために再びエレベーターが上がってくるのを待つことにした。
しばらくして、戻ってきたエレベーターの扉が開いた。
中には人間の姿があった。
嘉山が上着を取りに戻ってきたのかと鎮目は思ったが、どうやら違ったようだ。
エレベーターから降りてきたのは次郎だったのだ。
次郎が現れたことで鎮目は驚いてしまった。
一方の次郎は、鎮目を見ても顔色一つ変えなかった。
先ほどロビーで鎮目が感じた視線はおそらく次郎だったのだろう。
きっと次郎は鎮目と二人きりになれる機会をずっと窺っていたのだ。
「……小児科はこのフロアじゃないですよ」
「あんたに用があるんだ」
「私に? なんの用ですか?」
郁実が死んだ理由を知りたくて次郎が来たのは分かっていた。
だが、鎮目はしらを切るしかなかった。
「あんたはどこまで汚いんだ……」
「どういう意味でしょうか?」
「汚い」が一体なんのことを指しているのか、鎮目は見当がつかなかった。
「しらばっくれるんじゃない!」
次郎が急に張り上げた大声に驚いて、鎮目は萎縮してしまった。
「……いえ、本当になんのことか分からないんです。説明してくれないと」
「俺が訴訟を起こせなくなるように裏で手を引いたくせに。おかげで親父と兄貴がやってる葬儀屋に仕事を振ってくれる病院が無くなったぞ!」
――あの夫のことなら心配はいらない。最初から手は打ってある。
鎮目から次郎のことで報告を受けた嘉山はそう言っていた。
鎮目は意味が分からないまま嘉山に任せきりにしていたが、今ようやく理解できた。
嘉山は郁実ファーストで被験者を選んだわけではなかった。
厳密に言えば、あとで医療過誤訴訟を絶対に起こせないような病院関係者をまずリサーチして、その中から身内にガン患者がいる人間を嘉山は選別した。
その結果として選ばれたのが、実家が葬儀屋をやっている次郎とその妻で子宮頸ガンの郁実だったのだ。
郁実が死んでしまって本当に次郎が訴訟を起こそうと動きだしたが、嘉山は予定通り関係性のあるすべての病院に根回しをした。
病院から亡くなった患者のご遺族を紹介してもらえなくなれば葬儀屋の仕事が成立するはずがなかった。
父親と兄貴から泣きつかれた次郎は、生きている親族の生活をメチャクチャにするわけにもいかず、訴訟を諦めるしかなかったのだろう。
そして、裏で手を引いていたのが鎮目だと思い込んで次郎は抗議に来たのだった。
「そんなことしてない。圧力をかけようにもそんな力が私にないことぐらい想像できるだろう」
では誰だと尋ねられたら病院長の嘉山だと答えるしかないが、幸い嘉山は不在なのでとりあえずこの場をやり過ごせればいいと鎮目は考えていた。
「……誰が圧力をかけたかなんて、もうどうでもいい。あんたにはもっと大事な用件があるんだから」
次郎は上着のポケットに右手を突っ込んで、長い刃物を取り出した。
次郎がどこでこんな刃物を手に入れたのかは分からないが、刺した人間を死に至らしめる殺傷能力があることはその見た目で分かった。
「今度こそ俺の質問に答えてくれよ」
身の危険を感じた鎮目は後退りした。
だが、次郎はすぐに距離を詰めてきた。
「……もし答えなかったら?」
「死んでもらうしかない」
よく見ると次郎の目は血走り、頬も痩せこけ、髭は何日も剃っていないようだった。
一人で思い詰めて、思い詰めた結果として、こんな馬鹿げた真似を決行してしまったのだろう。
次郎はとっくに鎮目を殺す覚悟ができているのだ。
今の次郎に鎮目の下手な時間稼ぎや小細工は通じない。すれば感情を逆なでするだけに終わって、きっと鎮目の死期が早まるだけだ。
ずるずると後退りしていた鎮目の背中に壁が触れた。もう行き止まりだった。
すぐ横には非常階段に通じる扉があったが、重い扉なので開けようとして手間取っているうちに背中を刺されてしまうだろう。
鎮目は逃げ道を完全に失ってしまった。
「あんたは郁実に一体なにをしたんだ?」
次郎は刃物を一直線に鎮目に向けた。
正直に言って怖い。いい年した中年だが小便をちびってしまいそうだと鎮目は思った。
一度の成功で調子に乗って臨床実験を繰り返した結果、不測の事態が起こって郁実を殺してしまったと鎮目は正直に答えてしまいたかった。
だが、それを部外者である次郎に言ってしまえば鎮目の人生はお終いだった。
大病院で人体実験が行われていたというゴシップはマスコミの格好の餌食になるだろう。
世間の好奇の目にさらされて、誹謗中傷され続ける炎上地獄が鎮目を待っているのは間違いなかった。
そして、それは元妻である美沙と娘の真悠にも飛び火するだろう。
二人に迷惑をかけるぐらいならいっそ刺されて死ぬべきだと鎮目は思った。
だが、生命保険の受取人が田舎の両親のままになっていることを鎮目は思い出した。
なんで金に困っている美沙の名前に書き換えておかなかったのだ。真悠まで路頭に迷わせることになってしまうだろ。
やっぱりこのまま死ぬわけにはいかない。なんとか逃げ切る方法を模索しよう。
鎮目はテレビで見たことがある護身術を実践してみることにした。
脱いだ上着を片腕にぐるぐる捲きつけることで、簡単に深手を負わないようにして刃物を叩き落とす作戦だった。
「早く答えろ!」
次郎の問いかけを無視して鎮目は白衣を脱ごうとした。
ところが、冷や汗で腕にまとわりついてしまった白衣が思い通りに脱げなかった。
「……分かった。だったら死んでくれ!」
鎮目がなにか企んでいることを感じ取った次郎は、しびれを切らして刃物を向けたまま鎮目に体当たりしてきた。
脱ぎかけの白衣が腕に絡まったせいで、逆に鎮目は急所の多い胴体を無防備にさらしてしまうことになってしまった。
ダメだ、死ぬわ。
鎮目が刺される覚悟をした瞬間、非常階段の扉が開いた。
そして、姿を見せた何者かが鎮目を横から突き飛ばした。
鎮目は床に転がってしまったが体勢を整えて起き上がった。そして、先ほどまで自分が立っていた場所を向いた。
すると、天羽が次郎の前に立ち塞がっていた。
鎮目を突き飛ばしたのは天羽だったのだ。
水と物が当たっているような、ピチャ、ピチャ、ピチャという規則正しいリズムの音がフロアに響き渡っていた。
鎮目は天羽の体を伝って床に流れ落ちる鮮血に気付いた。
次郎の持っていた刃物が天羽の右胸に突き刺さっていたせいだ。
床の血溜まりはじわじわと広がっていく。
「……どうして俺をかばった?」
「そうでもしないと、母親が僕に気付いてくれるきっかけまで無くなるだろ」
そう言うと天羽は糸の切れた操り人形のように倒れ込んでしまった。
次郎は鎮目を殺すつもりで刺しにいった。
地面に対して垂直ではなく水平に刃物を押し込んだため、その刃先は肋骨と肋骨の間をすり抜けて天羽の体に深々と突き刺さっていた。
次郎は自分のしでかしたことの重大さにようやく気付くと、悲鳴に近い声を漏らしながら手についた血を自分の衣服で一生懸命に拭い始めた。
そして、それ以上は血が拭えないと分かるとエレベーターに向かって一目散に走りだした。
「逃げるな!」
鎮目の呼びかけで次郎は立ち止まった。
鎮目は白衣を脱いで天羽の刺創の圧迫止血をしながら次郎に再び言葉をかけた。
「あんたが逃げたら、萌果ちゃんはこの先どうやって生きていくんだ!?」
言葉を返すことはなかったが、次郎は全身の筋肉を弛緩させた。
鎮目の説得に応じて逃走を思い止まったようだ。
「悪いようにはしない。だから俺の言うことを聞いてくれ」
振り返ると次郎は小さく頷いた。
「彼の手術をしないといけない。電話をしたいから代わりに傷口を押さえていてくれ」
天羽が寝転がる場所まで戻ってきた次郎は、鎮目の代わりに刃物を一周する白衣を押さえて固定した。
鎮目は嘉山の携帯番号に電話を掛けた。
だが、しばらく経っても嘉山が出ることはなく留守電に繋がってしまった。
鎮目は次に院内PHSに掛けたが、今度はすぐに電源を切られてしまった。
「嘉山は一体どこにいるんだ?」
嘉山は必ず院内にいるはずだが、電話が鳴る音が迷惑な状況に置かれているらしい。
天羽が咳をした。すると、泡を含んだ真っ赤な血が周囲に飛び散った。
喀血だ。
刺創の位置からして、天羽が右肺を損傷しているのは間違いなかった。
嘉山から折り返し連絡があるのを待っていたら、きっと天羽が死んでしまうだろう。
鎮目は独断で呼吸器外科に電話をかけた。天羽の緊急手術を依頼するためだ。
「はい。呼吸器外科です」
電話に出たのは若い男だった。きっと研修医だろう。
「血液腫瘍内科研究室の鎮目です。院内で起こった事故で右肺を損傷した患者さんのオペをお願いしたいんですが」
「あ、はい。ちょっと待ってください」
研修医は上の人間に相談しているようだ。待たされている時間が長く感じてイライラが募る。
「代わりました。呼吸器外科の田所です」
研修医よりは上の外科医のようだが、声の感じからして管理職ではなさそうだった。
「オペをお願いしていいですか?」
「今、オペができないんです」
「は? なんでですか?」
予期せぬ答えが返ってきたので鎮目は声を荒らげてしまった。
「すみません。今、オペの執刀をできる人間がすべて出払っているんです」
「緊急事態用に、どなたかスケジュールを空けてないんですか?」
「今がその緊急事態なんですよ。脳腫瘍の患者さんが脳ヘルニアから心肺停止になって緊急手術が行われているんです。脳神経外科と呼吸器外科の外科医はほとんど全員その手術に立ち会っています」
脳神経外科の患者でも心肺停止状態に陥ったなら呼吸器外科の人間も万が一のために手術に立ち会うべきだろう。
だが、ほとんど全員と言った言葉が鎮目は気になった。
手術に際してそれほどの予防線を張るということは、絶対に死なせてはならない患者であることを意味していたからだ。
鎮目は誰の手術なのか気になったが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
「じゃあ、あなたが執刀してくれ」
「僕はまだ執刀医の経験が無いんです」
「……その手術から誰か一人ぐらいこっちに来られないんですか?」
「それが、嘉山病院長の指示らしくて……」
こっちも嘉山の大事な患者なのだが、それを若手医師に説明しても意味がない。
これ以上、時間を無駄にしたくない鎮目は「分かりました。では結構です」と言って電話を切ってしまった。
鎮目は研究室に電話をした。
出たのはもちろん妃織だ。
「はい。血液腫瘍内科、鎮目研究室です」
「天羽がアクシデントで右肺を損傷した」
「……冗談ですよね?」
「俺も冗談であってほしいが事実なんだ。これから緊急手術に入るが嘉山病院長と連絡がとれない」
「……私から伝えればいいんですね?」
「ああ。よろしく頼む」
鎮目は電話を切ると、廊下に端に置いてあった非常用ストレッチャーを天羽の近くまで運んできた。
「誰がこの人の手術を執刀するんですか?」
次郎は恐る恐る鎮目に質問した。
「俺しかいないだろ」
次郎が不安に思ったのは分かったが、他にいないのだから仕方がないと鎮目は開き直るしかなかった。
天羽の緊急手術を始めてすぐに鎮目は後悔していた。
血液腫瘍内科医である鎮目はオペの経験がほとんどない。研修医時代まで遡ってようやく盲腸などの軽度な手術に携わった経験があるぐらいだった。
とはいえ、仙台時代にはガン患者の外科手術に数多く立ち会っていた。
術後に補助化学療法を予定している患者のガンの状態を見極めるには、手術に立ち会って実際に自分の目で見るのが一番確実だったからだ。
そこで、鎮目は肺ガン患者の手術を何十例も見学していた。だから、天羽が刺されたのが肺ならば見よう見まねで手術できるのではないかと思っていたのだった。
肝臓のような細かい血管がいくつもある臓器を刺されていたなら最初から諦めていた。
だが、肺ならやってみる価値はある。鎮目はそう考えた。
しかし、実際は肺の手術も見るのとやるのとでは大違いだった。
手慣れた呼吸器外科医ならば、鎮目が開胸して術野を確保するまでの間に手術そのものを終えていそうなぐらい時間がかかっていた。
胸腔内には血液が大量に貯留していた。
あとで天羽の体に戻さねばならない大事な血液なので、鎮目は外回り看護師に吸引を指示した。
刃物が刺さっていた位置から鎮目はすぐに出血部位を突き止めた。第九肋間動静脈だ。 鎮目は血管にクリッピングを試みた。だが、組織が脆弱なために充分な止血が得られない。すぐに血が染み出してきた。
そこで鎮目は別の手段を考えた。
「電気メス」
機械出し看護師から電気メスを受け取ると、鎮目は焼灼止血を試みた。
焼灼止血とは出血面を焼くことでたんぱく質の熱凝固作用を利用して止血する方法である。
だが、天羽の全身がガンであることの弊害だろうか、やはり脆弱な組織からは出血が続いてしまい止血が困難だった。
「クソッ!」
思わず汚い言葉を発してしまい鎮目がまた後悔した。
鎮目の不安が看護師や麻酔科医にも広がってしまうと、本当に手術が失敗する確率が上がってしまうからだ。
ここまでの手術で天羽の出血量が一リットルを超え、血小板数も基準値以下になったことを麻酔科医が報告してきた。
天羽の体重は六十五キロ。体に流れる血液は五リットルほどだろう。
一般的に全血液量の約二十%以上が短時間で失われると出血性ショックとなり、さらに三十%以上の出血で生命の危険があると言われていた。
もういつ出血性ショックが起こってもおかしくなかった。
そして、血小板は血液に含まれる細胞成分の一種だ。血管壁が損傷したときに集合してその傷口をふさぎ、止血する作用を持つ。
その血小板が失われていくということは、これからますます止血が困難になることを意味していた。
「先生、輸血をしますか?」
「ダメだ。……輸血だけはするな」
外回り看護師と麻酔科医が目を見合わせた。輸血を禁止された手術は初めての経験だったからだ。
天羽の体に他人の血液を入れてしまうとUCANが失われてしまう可能性があった。
全身ガンの天羽がUCANの産生能力を失えば、ガンが悪化してあっという間に死んでしまうだろう。
訝しんだ目で見られても、鎮目は本当のことを話すわけにはいかない。適当なウソで誤魔化すしかなかった。
「この患者さんは宗教上の理由で輸血が禁じられてるんだ」
「では、どうやって……」
「代換血液を投与してくれ」
鎮目は輸血の代わりに代換血液の使用を外回り看護師に許可した。
代換血液と言っても血液の役割を代用できる液体ではない。そんなものは現在の科学技術では存在しなかった。
あくまでも、失われた血液の量的代替によって血圧などを維持する効果があるだけだ。
それでも、使わないよりは増しだった。
天羽を一番救いたいのは自分だが、鎮目には救う手立てがもうなにも思い浮かばなかった。
せめて延命する方法だけでもと思考を巡らせるが、無情にも時間だけが過ぎていった。
鎮目が諦めかけた瞬間、
「右肺下葉ごと切除するんだ!」
手術室のスピーカーから忌ま忌ましい声が聞こえてきた。
鎮目が見学ルームのガラス窓を見ると、そこにはマイクを持った嘉山がいた。
後ろには妃織もいた。
妃織が思いのほか早く嘉山を見つけてくれたおかげで助かった。だが、
「私の技術ではそこまでの術式は不可能です」
肺は胸の大部分を占める臓器で左右に一つずつあり、右肺は上葉・中葉・下葉の三つに、左肺は上葉と下葉の二つに分かれている。
肺の中では気管支が木の枝のように広がり、その先には肺胞がある。
右肺下葉を切除すれば呼吸機能の二十%が失われてしまうが、リハビリすれば日常生活には支障はない。
肺ガン患者だってガンができた位置に応じて肺を部分ごと切除しているのだ。
だから、天羽の肺の末端で止血が困難ならその上流まで遡って止血してしまおうという嘉山の発想は良案だった。
だが、いくらなんでも血液腫瘍内科医の鎮目がそんな技術を持ち合わせているはずがなかった。
助けたい気持ちはあっても、実行すれば途中で必ずミスをして天羽を殺してしまうだろう。
「誰が君にやれと言った?」
手術室の自動ドアが開いて、術着を着た男性が二人入ってきた。
きっと呼吸器外科のエースとその第一助手だろう。
嘉山の大事な脳腫瘍の患者の手術はもう終わったようだ。
「代わります」
「お願いします」
これで天羽は助かるはずだ。鎮目は胸を撫で下ろした。
手術室から出てきた鎮目が手術着やマスクなどをダストボックスに乱雑に放り入れた。
汗を吸ったスクラブのままだと風邪を引いてしまう。
早くシャワーを浴びて着替えたい衝動に駆られたが、鎮目にはその前にちゃんと話をしなければならない人間がいた。
鎮目は手術室エリアを抜けて、ロビーへと続く廊下に出た。
すると、ベンチに座って黙祷している次郎がいた。
「手術は無事に終わった」
鎮目の声で顔を上げた次郎は声を弾ませて喜んだ。
「よかった」
天羽が助かってよかったのか、自分の罪が軽くなってよかったのか、どちらの意味で言ったのか鎮目は気になったが、問い詰めるのは酷なので止めたおいた。
「あんたと話したいことがある。ついてきてくれ」
鎮目は次郎と並んで廊下を歩いて行った。
エスカレーターで二階に上がると小児科があった。
小児科のNICU、新生児集中治療管理室には萌果が入院していた。
鎮目はぐっすり眠っている萌果を見つめながら次郎に語りかけた。
「このことが事件になって警察が介入すると色々と不都合が起きる。病院としてもアクシデントで済ませたい。それでいいな?」
次郎は素直に返事をしにくいのか黙っていた。
「俺だって郁実さんを助けたかった。だから、もう二度と病院の粗探しはするな」
鎮目は次郎にお願いではなく命令をした。
次郎は歯を食いしばって頷いた。
「それでいい。これからは大事なこの子を無事に育てあげることだけ考えてくれ」
鎮目が立ち去ったあと、次郎は保育器にしがみついて悔し涙を流した。
鎮目は美沙に電話をして夕食に誘った。
昨日に天羽の手術をしてからというもの、無性に肉が食べたくてしょうがなかったが一人でレストランには入りにくかった。
そこで、美沙を誘うことを思いついたのだった。
お金を貸したこととは関係ないから嫌なら断ってくれてもいいとは言ったが、美沙は誘いに応じてくれた。
お店は食べ応えのある熟成肉のステーキが有名な恵比寿のレストランを選んだ。
手術をしたあとに肉が食べたくなるという外科医は多いが、鎮目はただの冗談だと思っていた。
しかし、実際に手術を経験した鎮目もこうしてステーキを食べに来てしまった。
しばらく肉が食べられなくなるかと思っていたが、その逆で体が肉を欲しているのだった。
店員が熱々の鉄板に乗った熟成肉のステーキを鎮目の目の前に運んできた。
鎮目は美沙の注文した料理が揃うのも待たずにステーキを切り分けて口に放り込んだ。
鎮目はこれまでに食べたどんな肉料理よりも美味しく感じていた。
美沙はステーキを咀嚼する鎮目の顔をじっと見つめていた。
しばらくして鎮目は美沙に見られていることに気付いた。
「あ、ごめん。君の分が来てないのに」
「ううん。そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、どういう意味?」
美沙は「意味なんてない」とはぐらかした。
肉を食べるのだけが目的ではなく、鎮目は美沙と会ってちゃんと対話をしようと思っていたのだが、会話は簡単には噛み合わないようだ。
七年いやそれよりも長い間きちんと会話をしてこなかったのだから、それも当然に思えた。
鎮目が話の接ぎ穂を探していると、お酒の酔いが回ったのか美沙は唐突に将来の夢を語りだした。
美沙は子供服の輸入販売の仕事だけではなく、ゆくゆくはオリジナルブランドの子供服を作りたいようだ。
真悠が幼いころに大人から見てもオシャレなデザインの子供服が少ないことに気付いて、それからずっと考えてきたことだという。
そのために一からデザインの勉強をしたり、東南アジアを巡って品質の良い服を安く縫製できる工場を探したりしたいと美沙は話した。
鎮目は美沙の夢を応援すると約束していた。
応援とはもちろん、お金の支援を惜しまないという意味だった。
食事を終えてお店を出ると、鎮目は通りを走るタクシーを止めようとして手を上げた。
まだ電車もある時間だが、少し歩いて駅まで送り届けるよりは美沙をタクシーに乗せて返したほうがスマートだと思ったからだ。
それに恵比寿から自由が丘ならタクシー代も大した金額ではないと思った。一万円札を何枚か渡して、お釣りは有効活用してもらいたい気持ちもあった。
すると、なぜか美沙が鎮目の手首を掴んで挙げた手を下ろそうとした。
「どうしたの?」
「まだ飲み足りない。もう一軒行かない?」
「……分かった」
美沙が意外なことを言い出したので最初は戸惑ったが、鎮目は従うことにした。
タイミングが悪く止まってしまったタクシーの運転手に詫びて、鎮目と美沙は交際していた時代に何度か通った駅前のBARに行くことにした。
歩きながら鎮目は考えた。
愛していると言うだけなら誰だって簡単に言えてしまう。
だから、言われた相手が言葉通りに受け取ってくれることは経験上は皆無だった。
愛はお金で買うことはできないとよく言われる。
だが、愛していることを相手に伝えようとすれば、結局はお金を費やすことでしか表現しようがないと鎮目は思っていた。
今回も、実際に鎮目がお金を費やすことで美沙に愛情が伝わったようだ。
きっともうすぐ手に入るであろう生活を、鎮目は二度と手放したくないと思っていた。そのためには、これからもっともっとお金を稼ぐ必要があるだろう。
だから、ガンの特効薬を意地でも実現させて今より偉くなると鎮目は決心した。
駅前に着くと、何度か通ったBARはもう潰れていて別の飲食店に変わっていた。
それは二軒目に行くようなお店ではなく、どこにでもあるようなつけ麺屋だった。
「どうする?」
「……別のところに入ろう」
鎮目はしな垂れかかってきた美沙の腕を引いて、すぐそばにあったレジャーホテルに入って行った。
鎮目は旧病棟から出て、新病棟八階の特別病室フロアに向かっていた。
新病棟のロビーまで来ると、受付の医療事務員が鎮目を見てヒソヒソ話をする姿が見えた。
次郎が病院内で鎮目を刺そうとした話は病院内に一気に広まってしまったようだ。
鎮目は視線に気付いていないふりをしてエレベーターに乗り込んだ。
天羽も一命を取り留めたし、嘉山が戒厳令を敷いたので警察や厚生労働省にわざわざ告発する人間はまずいないと思うが、今回の事件はゴシップや噂好きな人間にとって格好の的になってしまったようだ。
七年前に新病院長に就任した嘉山が仙台に飛ばしたはずの研究医が、本院に戻ってきてなにやら得体の知れない臨床実験をやっている。
その臨床実験のせいで亡くなった妊婦の夫が逆恨みして研究医を刺そうとした。だが、特別病室に入院している謎のVIP患者が研究医を庇って代わりに刺されて死にかけた。
そして、それらすべての出来事を嘉山が覆い隠してなかったことにしようとしている。
大方そんな噂が院内を巡っているのだろう。噂というか、実際そのとおりだが。
エレベーターが八階に到着すると、鎮目は天羽のいるB病室ではなくA病室の扉をノックした。
しばらくして扉を少し開いた。隙間から顔を覗かせたのは嘉山だった。
「なんだ、君か」
「入ってもよろしいですか?」
嘉山が無言のまま扉を大きく開けたので、鎮目は間から病室の中に入った。
A病室のベッドで寝ていたのは、嘉山の妻の百合子だった。
安らかな寝顔をしているが、開頭手術の跡が生々しい。
そして、頭部を動かせないように金属の器具でベッドに固定されていた。
それだけでなく、点滴やシリンジポンプやモニターなど多くの医療機器が百合子の体のあちこちに繋がれていた。
モニターから聞こえる心臓の拍動音は百合子が生きていることを教えてくれるが、その音がいつ途絶えてもおかしくないと思えてしまうような光景だった。
「君に弱味を見せたくなかったんだが、仕方ない」
「脳ヘルニアから心肺停止で緊急手術になった脳腫瘍の患者さんとは、百合子さんのことだったんですね?」
「あぁ、そうだ」
嘉山は力なく返事をした。
鎮目はこんなにも弱々しい嘉山を初めて見た。
しかし、弱っていてもなんら不思議ではなかった。嘉山がこの世で一番大切にしている妻が瀕死の状態なのだから。
百合子の脳には手術では摘出不可能な位置に脳腫瘍ができていた。
その脳腫瘍が大きくなることや脳のむくみにより頭蓋骨の中の圧が高まり、正常な脳を圧迫することで脳の機能に様々な障害が生じることがある。
百合子が鎮目の顔を忘れていたこと。記憶障害もおそらくこれの初期症状だった。
このような現象は、脳が頭蓋骨という硬い入れ物の中に入っていることで起こる。
脳の病気を起こすまでは、硬い頭蓋骨が頭部の打撲から脳を守ってくれているのだが、ひとたび脳の病気になるとこれが災いしてしまう。
固い入れ物の中で普段は無い脳腫瘍がどんどん大きくなっていくのだから、頭蓋骨の中は圧力鍋の中のようにどんどん圧が高くなっていく。このような状態を頭蓋内圧亢進状態と言う。
最終的には脳腫瘍による直接の圧迫や頭蓋内圧亢進のため、脳ヘルニアと呼ばれる生命維持の中枢である脳幹が高度に障害される状態に至り、致命的になってしまう。
百合子もその脳ヘルニアになってしまったので、減圧開頭術という頭蓋骨を大きく開けて取り外す治療が行われたのだった。
圧力鍋のふたを取った状態にしてしまうことで頭蓋内圧の上昇が予防できるからだ。
取り外した頭蓋骨は冷凍保存しておき後日再手術をしてもとに戻すのが通常だが、百合子に再手術の予定はなかった。
根本的な原因である脳腫瘍を取り除くことが不可能なので、頭蓋骨をもとに戻したら脳ヘルニアが悪化してすぐ死んでしまうからだった。
だからこそ、嘉山は百合子の脳腫瘍を治せる治療法をずっと探していたのだろう。
「病院長は百合子さんを救うために、私に指示して無茶な臨床実験を行わせていたんですね?」
嘉山はすぐに答えずに、ベッドのそばに座って百合子の左手を摩りだした。
「百合子の命を救えるならば、末期ガン患者が何人死のうがどうでもよかったんだよ」
「……医者の言うセリフとは思えないですね」
「だったら、医者なんか辞めてもいい。それぐらい百合子を救いたかったんだ」
「許されることではありませんが、お気持ちは理解できます」
「百合子に脳腫瘍が見つかってからあらゆるルートで治療法を探したよ。実際に試した治療法もあった。だが、百合子の脳腫瘍が治ることはなかった。そして、記憶障害が始まってしまったんだ」
「……私が電話したのはそんなときだったんですね?」
「ああ。最初からガンの特効薬なんてどうでもいいと思っていた。日本では一つの薬を開発するのにかかる時間は九年から十七年だ。実現するころには百合子はおろか私も死んでるよ。だから、臨床実験で試して確実に救える目処が立ったら百合子にUCANを投与するつもりだったんだ」
「肺ガンの橋本冴子さんは年齢や体格が百合子さんとほぼ一緒だった。岸谷郁実さんは子宮頸ガンで百合子さんも子宮頸ガンからの脳転移だった。そして倉持陽菜さんは脳腫瘍。最低この三人のガンが治ると分かれば、百合子さんを救える可能性も格段に高くなりますからね」
「だが、テストをしている時間もなくなってしまったよ」
「陽菜さんへの投与は中止して、百合子さんにUCANを投与するんですね?」
「やってくれるな?」
「もちろん……お断りです」
「……なんだと?」
弱っていたはずの老人が鬼の形相で鎮目を睨みつけてきた。
だが、鎮目が怯むことはなかった。
「お断りだって言ったんですよ。百合子さんを救うために全身ガンの上に刃物で刺されて片肺を失った今の天羽から採血をしたら、彼は間違いなく死ぬでしょう。私はあなたのために人殺しになりたくありません」
「舐めた口を……。いいだろう。系列病院はおろか日本中の病院にいられなくしてやる」
「私がいなくなったら一体誰が百合子さんにUCANを投与するんですか? 手順や適量が分からないでしょう?」
「こんなときのために看護師の涌田くんを側に置いたんだ。彼女にやらせればいい」
「なるほど」
鎮目は唐突に扉のほうに向かって歩を進めた。
取っ手を掴んで引くと、扉の向こうには妃織が佇んでいた。
妃織はずっと中の会話を盗み聞いていたのだ。
「そんなところにいないで中へどうぞ」
気まずそうにしていた妃織だが、開き直ったのか躊躇なく病室内に入ってきた。
「すみません。盗み聞くつもりは無かったんですが、声が聞こえたのでつい立ち止まってしまいました」
「いや。ちょうどよかったよ、涌田くん。彼女にUCANを投与する役目を引き受けてくれるね?」
「もちろんです、嘉山病院長」
「そんな他人行儀にする必要はないよ」
「……どういう意味ですか?」
「病院長じゃなく、お父さんと呼んでいいと言ってるんだ」
妃織が返事に苦慮して、嘉山の顔色を窺った。
「そこまで知ってたのか……」
「最初は愛人かと勘違いしていました。二人が愛人の噂を否定しなかったのは、そう思われているほうが都合よかったからですね」
黙っている嘉山をよそにして、鎮目は妃織に質問することにした。
「それにしても、君はなぜ母親を捨てた男と後妻のために看護師をしてるんだ?」
妃織は嘉山の顔色を窺うことなく、自発的に思いを吐露しだした。
「別れたと言っても性格の不一致ですから父が悪かったわけではありません。むしろ別れ際に高額な慰謝料を請求した母のほうが悪い人間だと思ったくらい。だから、きっと罰が当たったんです」
「罰?」
「母は交通事故にあってとっくの昔に亡くなっています。そんな母でも事故当時に必死になって治療や看病をしてくれたのが、父と看護師をしていた百合子さんでした」
百合子がここの看護師だったのは知っていたが、前妻が事故で亡くなっていた話は鎮目にとって初耳だった。
「母が亡くなったあとも、父は一人になった私に資金的な援助してくれました。百合子さんも何かと相談に乗ってくれました。だから、二人が再婚したときは嬉しかったし、私も百合子さんのような看護師になろうと思えたんです」
「そういうことだったのか」
「だから、鎮目先生が治療を拒否するならこの私がやります」
「でも、本当にいいんですか?」
「……なにがだ?」
「医者の指示なく看護師が患者に処置をするのは看護師法違反なんですが、まぁこの際それはいいとして、愛する娘を人殺しにして本当にいいんですか、お父さん?」
「いいはずがないだろう!」
つい大声を出してしまった嘉山は百合子が目覚めるのではないかと心配した。
しかし、百合子が起きる気配はないようだ。
「いいはずがない。……しかし、他に百合子を救う方法がないんだよ」
嘉山にとっても妃織にとっても苦渋の選択だったのは、鎮目にもよく分かった。
意地悪はこれぐらいにしておこうと鎮目は思った。
「……皆さん家族思いなんですね。なんだが治療を断りづらくなってきたな」
「やってくれるのか?」
嘉山が目の色を変えた。
「しかし、私もバカじゃないのでただでやるわけにはいきませんが」
鎮目はもったいぶった言い方をした。
「……なにが言いたいんだ?」
「一つだけ条件があります」
「さっさと言え」
「俺を次の病院長にするんだ」
鎮目は威圧感のある声で嘉山にタメ口を利いた。
金銭の要求や教授の肩書き程度なら受け入れる気でいたが、到底受け入れることができない無茶な要求に嘉山は眉をひそめた。
「バカを言うな! そんなことができるわけないだろう!」
「いや、あなたならできる。病院長選考会議委員に命令して、次の病院長に俺を指名させるだけでいいんだからな」
来年度からの病院長を決める病院長選考会議委員のメンバーは、すべて嘉山の子飼いであることを鎮目は知っていた。
嘉山を三選させるという既定路線の筋書きから、鎮目という働き盛りの研究医を選考会が抜擢したという意外性のあるドラマに作りかえる。
それは大して難しい作業ではない。
嘉山が選考会議委員長に電話を一本かければ済むことだった。
「准教授にしてやったばかりの君が病院長になったら教授会が反発するぞ。診療科ごとの連携がとれなくなってまともな病院運営ができなくなるに決まってる」
「准教授が病院長になれない決まりはないだろ。それに病院経営健全化のために年功序列じゃなく大幅な若返りをはかったことにすればこちらに大義名分が立つ。それでも異を唱える者がいたら、あんたがしたように粛正させてもらうだけだ」
「しかし、若返りをはかるにしてもそれがなぜ君なんだ? 君を選ぶ正当な理由が無いじゃないか」
「七年前に粛正された八神浩太郎教授派閥の唯一人の生き残りが病院長に返り咲く。これ以上に健全な登用があるか? 他の人間を選んだらあなたが院政を布いたと外部に勘ぐられるだけだぞ?」
嘉山はまだ結論を出せずに逡巡していた。
「天羽が死んでも病死扱いにしてうやむやにするつもりだろうが、病院長で居続ければ常に真実が発覚する恐怖がつきまとう。それに、そろそろみんなも俺たちがしていることに気付き始めてる。治療と称した人殺しが発覚したら責任逃れはまず不可能だろう。せっかく助けた妻とも一生会えなくなってしまうんだぞ? そうなってもいいのか?」
「……いいはずがない」
「だろう。だから、俺が身代わりになると言っているんだ。百合子さんを救うためなら医者なんか辞めていいんだろう? だったら早く」
鎮目が親指と小指を立てた左手を耳に当て、電話をかけるジェスチャーをした。
「……君の思い通りになるのは癪だが」
嘉山はスマートホンを取り出してどこかに電話をかけた。
ようやく病院長のイスにしがみつくことを諦めたようだ。
「私だ。……やっぱり病院長から引退することにしたよ。……ああ。……次の病院長には鎮目恭夫くんを指名してくれ。頼んだよ」
嘉山が電話を切った。スマートホンを握る手をだらんと下げて俯いてしまった。
「あとで覆せないように早めに公示してください。公示してくれたらすぐに百合子さんの治療をしますから」
敬語の口調に戻った鎮目は、そう言い残すとA病室から出て行ってしまった。
残された嘉山は百合子の手を握りしめて声をかけた。
「百合子。病気が治ったらまた一緒に旅行に行こうな。これからはずっと一緒にいられるから早く良くなってくれよ」
嘉山が呼びかけでも百合子は眠り続けていた。
嘉山と百合子のやりとりに感動したのか、父親が鎮目にいいようにされて悔しかったのか分からないが、妃織はその場に突っ立ったままで涙を流していた。
鎮目はA病室を出たその足ですぐとなりのB病室に入っていった。
天羽が入院する部屋だ。
天羽は鎮目が来るのを待ち侘びていたのか、鎮目に気付くとベッドから体を起こした。本人は急いでいるつもりだろうが、全身ガンの影響で体の動きが老人のように緩慢になっていた。
右肺下葉を失ったばかりなので酸素を投与する経鼻カニューレという管を鼻に付けているが、会話の邪魔になると思ったのか天羽は引き抜こうとした。
「おい、外したらダメだ」
鎮目に制されて、天羽は仕方なく引き抜くのを止めた。
鎮目は天羽が苦しくないようにベッドの上半分をリモコンで操作して起こしてあげた。
「助けてもらったのにお礼を言うのが遅くなってすまない。ありがとう」
「鎮目先生を突き飛ばしてから自分も避けるつもりだったんだけど、やっぱり病気じゃ思うように体が動かないね」
血液を一リットル以上失ったせいで全身ガンがさらに進行してしまった天羽は、見ただけで死期が近いと分かる顔色をしていた。
まるで拒食症の人間のように痩せこけてしまい、肌の色も白っぽくなっているのだった。
皮膚が黒ずんでカサカサになっている末期ガン患者は抗ガン剤治療の副作用でそうなっているだけだ。
抗ガン剤治療をしていない末期ガン患者なら今の天羽と同じような見た目になるはずだった。
「助けてもらったばかりでなんだが、もう一度君の力を借りたいんだ」
「福原陽菜って患者さんだよね?」
「いや、彼女じゃなくなった。嘉山百合子という患者だ」
「となりの?」
「知っているのか?」
「廊下でたまに会うから話をするようになったんだ。名字からして病院長と関係あるんだろうなとは思っていたけど」
特別病室は一般病棟とは違って廊下に入院している患者の名前を貼りだしたりはしないが、患者の取り違えを予防するためのバンドは天羽も百合子も手首に付けていた。
そこに名前が書いてあるので立ち話をしている最中に天羽が百合子のバンドを読み取ることは充分可能だっただろう。
「だったら話が早い。その人は病院長の奥さんで脳腫瘍を患っているんだが、もうあまり猶予がないんだ。だから、一刻も早く救わないといけない」
「……分かった。遠慮なく血を抜いてくれていいよ」
「血を抜いたらどうなるのか分かっているのか?」
「全身ガンに負けて死ぬかもしれないって言うんだろ? でも、そんなことはやってみないと分からないじゃないか」
「それが分かるんだよ。いま再び採血したら、もう君のガンはもう治らない。君は死ぬんだ」
「僕は死なない。母親に会えるまでは死ねないんだよ」
「……ここから逃げようとは思わないのか?」
「……逃げてどこに行くんだよ? 僕の居場所なんて、どこにもないのに」
天羽の言うとおりだった。
天羽だって本当は目前まで迫った死が怖いはずだ。だが、これを乗り越えないとガンの特効薬が開発されることはないし、人類の悲願をこの世にもたらした特異体質の青年としてマスコミに取り上げられて有名になることは無い。
採血を拒否して病院から逃げ出したところで、母親に会うどころか生きていくことさえ叶わないだろう。だから、天羽は気丈に振る舞って採血を受け入れようとしているのだった。
天羽の弱味につけ込んで、天羽一人を犠牲にしてすべてを手に入れようとしている自分は最低の人間だと鎮目は自覚していた。
七年の間に反抗する医者を次々と粛正して、私腹を肥やして病院を腐敗させた嘉山となんら変わりのない人種だろう。
だが、鎮目はすべてを認めた上で、それでも守りたいもののために百合子の治療を引き受けると決めていた。
「そうか。だったら一緒に嘉山百合子を救おう。そのためには俺の指示に従ってもらう」
「……分かった」
天羽は鎮目をまっすぐ睨みつけていた。
鎮目は天羽の目を見て七年前の院長選挙を思い出した。
派閥の長だった八神教授は院長選挙に敗北したあと、あっけなく病院を退職してしまった。
たとえ冷や飯を食わされることになっても八神教授が四年後に必ず病院長に返り咲くものだと信じていた鎮目は、八神教授に裏切られたと思って苛立っていた。
だがそれは、八神教授が自分の身を嘉山に差し出した結果だったと鎮目はのちに同僚から聞かされた。
派閥の若手は慶葉大学に残すと嘉山に約束させる代わりに、八神教授は自分の首を嘉山に差し出していたのだった。
それから間もなくして、嘉山は鎮目に系列の慶葉大学仙台病院への異動を命じた。
本院に残すという意味だった八神教授との約束を、嘉山は勝手に拡大解釈して反故にしたのだった。
鎮目は怒り心頭に発していたが、ここで悪態をつけば嘉山に自分を首にする口実を与えてしまうことになる。
そうなったら、永遠に八神教授の仇をとることはできなくなるだろう。
だから、鎮目は仙台への異動を我慢して受け入れることにした。精一杯の抵抗として嘉山を睨みつけながら――。
七年の間に、鎮目は八神教授の仇討ちなどという考えをすっかり忘れ去っていた。
そして、いざ自分が病院長の座を手に入れようとしてみれば、鎮目は嘉山のしてきたことを少しは理解できるようになっていた。
だから、百合子を救うために天羽を犠牲にしようとした医者のことなんて、時間が経てば天羽も忘れてくれるだろう。
いずれは天羽も、自分のしたことをきっと理解してくれるはずだと鎮目は思った。
すべては、天羽が生きていられればの話だが。